湖底より、愛を込めて

 昔々、水底に住む人魚の娘が人間の男に恋をしました。けれど男は娘の思いに応えることはなく、彼女は敵わぬ恋を抱えたまま泡となって消えてしまったのです――。
 そんな昔語りがあった。或いは御伽噺と言った方が正しいのかもしれない。美しく飾り立てられた悲恋。幼い頃その話を聞かされた時は、なんて可哀想なのだろうと思った。けれど今は羨んしいとすら思っている。少なくとも彼女は家族に恋を打ち明け、様々な人に語り継がれるだけの出来事があった。それに比べて、私の恋はきっと何も残らないだろう。

 目覚めると、水に揺らめく自分の髪で視界が塞がれていた。色素が薄く、波のようにうねる癖の強い長髪を、私はこれといって嫌ってはいない。自分の身体の部位では、比較的美しい部分ではないかと思っている。けれど、うたた寝のひとつもするとすぐに絡まってしまうのが難点だ。
 身を捩って髪の毛をかき集めると、編み込んで毛先を回し留めておく。すぐに解けてしまうだろうが、幾分かはすっきりした。都合よく髪留めを放り込んでくれる誰かがいればよかったのだが、この湖でそれは望むべくもない。
 さて、と遮るものがなくなった景色を見渡す。湖底から見上げる水面には、花のようにちらちらと光が舞っている。早朝は暗く冷たかった湖水が温められ、辺りは青とも緑ともつかない色に染まっていた。外は陽が随分高くなっているはずだと予想して、私は微笑む。そろそろ頃合いだろう。あの人は、今日も来ているだろうか。期待に胸が高鳴るのを感じながら、私は尾鰭で水を蹴った。

   ※

 日差しを直に浴びないよう、私は突き出た岩を盾にして水面から顔を出した。慎重に、ゆっくりと、それでも慣れない明るさに目が眩んだ。何度か瞬きをしているうちに徐々に焦点が合い、乾いた岩肌が目に入った。ざらついたそれに張り付くように身を寄せ、辺りを窺う。湖面には水中から空を穿つように岩が点在していて、私はその影ができる方向で時間を計っていた。強い光は苦手なので、太陽が昇りきる前、もしくは中天より傾いた時に出来る陰に隠れられるとちょうど良い。息を潜め、岸辺に目を凝らす。白く乾いた岸には、動くものの気配はない。動物や虫はおろか、雑草のひとつさえない寂しい岸辺だ。
 そんな中に、ぽつりと異物があった。細く柔らかい木を束ねた物体。周りに木はないから、どこからか運んできたものだろう。形をもう少し整えれば、一人か二人は乗り込めるのではないだろうか。船、というにはみすぼらしいが、数日前に見た時よりはだいぶ様になっている。しかし、肝心の漕ぎ手の姿がない。昨日の同じ頃には船の周囲で作業をしていたのだが、今日はいないのだろうか。改めて周りを探そうとすると、不意に風が人の声を運んできた。
「――これで見当違いだったら、金輪際お前とは手を組まないからな」
「大丈夫だって、絶対に見たんだよ。俺の目以上に確かなものがどこにあるっていうんだよ」
 私の耳に届いたのは、会話の中のほんの断片だった。詳しい内容に聞き耳を立てられるほど距離は近くない。たまたま声を張り上げた箇所が聞こえたにすぎないのに、私の心臓は驚くほど早鐘を打ち始めた。あの人だ。
 船の補強に使うのだろう木材を担いでやってきたのは、二人連れの男だった。一人は先立って息巻く小太りの男。足取りを見る限りそれほど年を取っているわけではないようだが、重なった肉が皺になって老けて見える。死んだ魚に似ている、と私は思う。死んで内臓が溶けて腹が膨らんだ魚とそっくりだ。そして、もう一人。
 小太りが死んだ魚なら、彼は太陽だった。いつも湖底から見上げている、幻のように揺れる太陽に似ている。よく日に焼けた肌とくっきりとした輪郭に、濃い金色の髪がよく映えている。薄暗い場所しか知らない私には縁遠い、眩い鮮烈さを彼は放っていた。目が焼かれるような、直視するのが躊躇われるような、そんな憧れだった。決して手にできない光。だからこそ恋焦がれずにいられないもの。
 二人は担いできた荷を船の傍らに下ろすと、徐に作業を始めた。魚のような男は木材を解いて選別し、太陽の青年がそれを加工していく。ナイフで削り、麻縄で縛り、組み立てていく。その一つ一つの仕草に私は見惚れた。彼の手によって、漕ぎだすには不十分だった船が機能的なものに変化していく。人間が作る物は美しい。造形の話だけではない。様々な目的と手段で生み出されていく過程があり、見た目が粗雑あってもそれぞれに込められた思念のようなものがある。それを私は美しい、と思う。憧れの青年が手掛けた物とあっては尚更だ。あの船で彼は湖に漕ぎ出すだろう。水面の照り返しを受けて彼の髪はいっそう透き通る輝きを見せる。その姿を想像すると落ち着かない気持ちになった。陸の生き物が自分の領域に踏み込むというのも初めてのことだ。あわよくばもう少し近くで顔を見られるだろうか。上手く水中に身を隠せば――。
 己の空想にうっとりと溜息を吐いた時、不意に彼の瞳の色が見えた気がした。湖の色とは違う、純粋な青。その眼差しがこちらに向けられている。気付いた瞬間、私は水中に身を沈めた。浮上した時とは違う意味で鼓動が激しくなっていく。姿を見られてしまっただろうか。それだけはあってはならない。私が彼を見つめることがあっても、彼が私を見ることはあってはならない。この恋はまさにその時終わりを迎えるだろう。だから私は、逃げるように湖底に向かって泳いでいく。深く、深く、決して見つからない所まで。この恋は何も残らない。何も生まない。私自身がそれを一番分かっていた。だって、たぶん、あの人たちは私を狩りに来た。

   ※

 乱立する無骨な岩。その岩が侵食されて作られた細かな砂礫。腐りかけの枯れ枝は、風がどこからか運んで落ちてきた。あとは、日中に差し込む陽の光と岩陰が織りなす不規則な紋様。私が知る湖底の景色はそのようなものだった。地上で言うところの荒野に近いと思う。荒れ果てた土地を、青緑の水でが満たしている。これはこれで幻想的で、私は好きだった。ただ少し寂しいとは感じている。私の他に命あるものはいない。同族は勿論、魚も小海老もいないし、それを狙う水鳥もやってこない。藻や水草のひとつも生えていない。かつては存在していたはずだが、とうに朽ち果ててしまった。人間が湖に毒を撒いたからだ。
 人間の世界で、人魚というのは高値で取引されるものらしい。虹色に輝く鱗は宝飾品の材料として。血肉は長寿の妙薬として。人魚を捕えたことで財産を築き、富豪に成りあがった人間もいたらしい。己も続けとばかりに人間たちは人魚を求め、この湖にも大量の毒を撒いた。一匹残らず狩り尽くすために丹念に、執念深く、湖を死の世界に変えていった。私が生きているのは、毒が撒かれた時にはまだ母の胎の中で、母の血を通して多少の耐性がついたのではないか――と既に死に絶えた仲間が言っていた。本来は頑健で長命な人魚たちも、数年のうちにいなくなってしまった。残されたのは私だけ。獲物がいなくなった湖に人間たちは興味を失くし、毒と化した水を求める生き物はいない。湖は、どこよりも寂しい場所になってしまった。
 なのに、再び人間が現れた。他に何もない以上、彼らの目的は人魚の生き残りだろう。たまさか水面から顔を出したところを運悪く見られてしまったのだろう。不思議と憎しみは湧いてこない。もう昔のことだし、私は頭が悪いので複雑なことは分からない。それに、私は恋をした。たった一人、孤独に湖で揺蕩うだけだった生で、恋しいと思える相手を得た。それに比べれば過去の恨みなどちっぽけなものだ。結ばれるとは思わない。見つかれば死は免れないだろう。だから私は、この恋に浸っていられればそれでいい。
 それにしても、と私は自分の鱗を撫でる。なぜこんなものが欲しいのだろうか。人間の価値観は理解し難い。疑念に首を傾げると、ふと視界の端に異物が映った。上から何かが落ちてくる。微かに光を反射する、透明なもの。私は水を勢いをつけて水を掻き、それに手を伸ばした。触れると少しひやりとする。滑らかな曲線と小さな円錐が組み合わさったような入れ物だった。人の世界のものだ。湖上を仰ぎ、光に透かす。見慣れた湖の景色が少しだけ歪んで、いつもと違って見えた。自然と口元が緩む。なんという僥倖だろう。僅かばかりの変化もないと諦めていた湖底で、こんなに綺麗なものが手に入るなんて。更に私は、仰ぎ見ていた水面に別のものを見つけた。木の葉のような黒い影。いや、木の葉にしては多きすぎる。降ってくるように、水を震わす音――声がした。私は興奮を必死に抑え、声が聞き取れる位置まで距離を詰める。慎重に、見つからぬよう船の真下につけるように。
「なぁ、本当にこの辺りだったんだよな?」
「ああ、確かに見た。あの大きさで魚ってことはないだろう」
 見た、と断言する響きに私は戦慄いた。見られた、と感じたのは気のせいではなかったのだ。
「じゃあ二本も使わなくていいんじゃないか。高かったんだぞ、これ。ほとんど骨董品で」
「残しておいてもどうする。いいから寄越せ」
 そのやり取りの後、何かが水に涼む低い音がした。目を向けると見覚えのある透明なものが落ちてくる。先ほど私が拾ったのと同じものだ。円錐の口先から、湖水とは別の液体が漏れ出して靄のように広がっていく。緩く濁っていく水を見て、私は何が起こっているかを悟った。
 ――そんなにこの鱗が欲しかったのね。
 そしてこの小瓶は、彼からの最初で最後の贈り物だった。
 私は手の中に小瓶を握りしめた。構わない。欲しいというなら全てあげよう。これまでにない宝物をくれたのだから。臓腑が毒に蝕まれていくのを感じながらも、私の胸は喜びに満ちていた。

   ※

 おおい、と呼びかける声がした。夜営の準備をする手を止め振り返ると、相棒である男が岸辺で手招いていた。太陽はやや傾き、色が濃くなり始めたところといった頃合いだ。早かったな、と思う。この毒の湖で立った一人生き抜いてきた個体なら、もっとしぶといかと思っていた。
 夢見がちな相棒が人魚狩りを持ち掛けてきたのは、半月ほど前のことだ。荒れ果てた湖の水面に、人魚の影を見たのだという。人魚というのは党の昔に狩り尽くされた生き物で、その鱗を使った宝飾品は天井知らずの値段で取引されている。人魚の肉を食らうと不老不死を得るという眉唾物の話を信じているものも少なからずいた。いずれにしても、滅びたはずの人魚を捕えられれば莫大な金が手に入る。そうしたら掏摸も詐欺もやめてまっとうに暮らせるんだぜ――そんな相棒の言葉を真に受けたわけではないが、日常に倦んでいたのも事実だ。何か見つかれば儲けもの、と乗った話だった。
 だがまさか、本当に人魚が見つかるとは。水面に動く影を見つけた時は柄にもなく興奮した。あの時は顔形まではよく分からなかったが、ようやく拝める。透き通るほどに艶めく髪、日に焼けることのない白い肌。何より、虹を砕いて纏ったようだという下半身の鱗。人々の間で謳われる人魚の姿は、どれも美しい。沸き立つ気持ちを抑えながら相棒のもとに歩いていく。しかし俺を迎えた相棒の表情は暗く沈んでいた。
「どうした?」
 疑問をそのまま口に出すと、相棒は黙って下を指し示す。そこには人魚がいた。人の上半身に、腰から下は魚の身体。既に死んでいるのだろう。水際に伏せてぴくりとも動かない。
「これは……」
 思わず鼻を摘まむ。酷い臭いがした。まだらな灰色の髪に隠されて、顔は見えない。足を使って転がそうとすると、汚物を踏んだような不快な感触がした。どうにか仰向けにすることに成功すると、俺は顔を顰めた。死体は、思い描いた人魚の姿からは程遠かった。肌は紫に変色し、下半身の鱗は虹の輝きどころか黒と茶が混じった汚いぶち模様で、ねばついた体液がまとわりついていた。宝飾品どころか、目に映すのも不快な有様だ。死んでから腐ったにしては状態が悪すぎる。長年、湖の毒を溜め込んでいたからだろう。これではとても金にはならない。
「ああもう、大損だ! 借金が増えただけじゃねぇか畜生!」
 頭を抱えて悪態をつく相棒を横目に、俺は人魚の死骸をつぶさに観察していた。毒で苦しんで力尽きたにしては奇妙な点が目について、どうにも気になる。ひとつはその手に毒の小瓶を握りしめていたこと。そして、腐りかけの顔にあまりにも穏やかな笑みが張り付いていたこと。
 ――なぜお前は、そんなに幸せそうなんだ。
 胸の内で問いかける。人間への憎しみが浮かんでいるなら理解できる。理不尽に殺されたのだ。過去には仲間も滅びに追いやられた。だというのに、人魚の顔にあるのは全て満ち足りたような聖女の微笑だった。気味が悪い。なのに、目が離せない。そうして暫し死骸と見つめ合っているうちに、俺はあるものに気が付いた。
 ちょうど人と魚の身体の境目、腰のあたり。僅かに他とは違う煌めきを見せる鱗があった。恐る恐る手を伸ばし力を込めると、鱗はあっけなく人魚の身体から剥がれ俺の手に収まった。暮れかけの太陽に翳してみると、ちらちらと小さな光が舞う。角度を少し変えると、鱗は青に、紫に、緑にと色彩を移ろわせ、夢のように俺の意識を惑わす。
「おい、なにやってんだ! さっさとこんなとこ離れようぜ」
 相棒の声で我に返る。彼は既に岸を離れ、夜営場所に向かおうと焦れたように俺を待っていた。俺は咄嗟に鱗を握り込み、相棒の目から隠した。なせだろうか。分からない。売れば多少の足しになるぞと見せてやれば相棒も喜ぶだろう。なのに、それが躊躇われた。他の男の手に渡したくない。例えそれが長年の付き合いになる相棒でも、どれほど大金を積まれた相手でも。
「……なんでもない。この分じゃ肉も駄目だなと思って見てただけだ」
「不老不死どころか食中毒で死んじまうだろうな! まったく、人魚狩りなんて言い出したのは誰だよ」
「お前だな。文句言ってないで帰るぞ」
 なおも愚痴を垂れ流す相棒を追い越し、俺は手の中の鱗を撫でた。美しかった人魚の在りし日の名残。あの人魚も、毒に侵されていなければ蠱惑的な娘だったのだろうか。そういえば、人間と人魚の恋物語なんてものがあった気がする。
 脳裏に浮かんだ考えを、俺は頭を振って追い払った。鱗は記念品だ。人魚狩りなどという、儲けにならない馬鹿な真似を二度としないための戒め。きっと、そうだ。そう願って密かに光に透かした人魚の鱗は、頬を染めるように赤く色付いていた――。

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