ティッカが住む《星の塔》は、村から少し外れた湖のほとりにある。ハダル村との行き来は少々面倒だが、人々の喧騒から隔てられた静寂と、湖の涼やかな青が心を落ち着かせてくれる場所だった。遠い昔、星々に祈りを捧げるために作られた塔なのだという。古びた塔は真っ直ぐ空へと背を伸ばし、仰ぎ見ると首が痛くなるほど高い。その麓にある重い鉄の扉を押し開き、ティッカは声を張った。
「師匠、ただいま戻りました」
その声を聞き、テーブルで何やら筆記していた老人が振り返った。ハダル村のもう一人の星紡ぎ、ティッカの師匠レドである。老いて色が抜けたわけではない白い髪、濃い藍色の目。ティッカ以外で唯一同じ特徴を持っている人間だった。レドはティッカの姿を認めると、使っていた道具をしまってふわりと微笑んだ。
「おかえり、ティッカ。ちょうど、そろそろ夕飯の支度をしなければと思っていたんだよ。今日は何を貰ってきたんだい?」
「はい。野菜と、薫製の肉も少し。あとリゲルからお菓子も」
言いながら、荷物をテーブルに広げてみせた。星紡ぎはその業で村に恩恵を与える代償に、食料や水、一部の日用品などを分けてもらう。年を取ると村との往復も面倒なのだ、と言う師の代わりに、こうしてティッカが受け取って来ているのだ。レドはその内容を確かめながら、ふむ、と顎髭を撫でた。何かを思案する時の彼の癖である。
「肉はスープに入れよう。塩気がついてちょうどいい。そのクッキーは、ティッカが貰いなさい」
「え、でも」
これらの品は、師の作った御守りや装飾品に対しての恩賞である。受け取るべきはレドであり、ティッカはあくまで使いを果たしてきたにすぎない。視線でそう訴えかけるが、レドはまったく意に介さなかった。
「たまにはいいだろう? いつも頑張ってくれているしね。さぁ、食事の支度を手伝ってくれ」
「……はい。ありがとうございます」
片目をつむって茶目っ気を演出するレドに、ティッカはそれ以上言い返すことが出来なかった。小さく頷き、師の作業を手伝う。彼の心遣いは嬉しかったが、当時に惨めな気持ちにもなった。頑張っている、などといっても、肝心の星紡ぎとしての修行は捗らない。力を失ってしまったのだから、どうしようも出来なかった。その事実も原因も知っているのに、レドはなぜティッカを手元に置いたままにしておくのだろうか。
二年前。遠くの町へ引っ越すというカペラの家族は、その人数分の旅の御守りを欲しがった。もちろん相応の対価を払うものとして、レドはそれを請け負った。そんな時、カペラが駄々をこねたのだ。どうせなら、ティッカの作った御守りがいい、と。
とんでもない、とティッカは首を振った。星紡ぎの力は、一人前と認められて初めて他人に行使することが許されるものだ。未熟な力を、人に与えることなかれ。そう口酸っぱく師に言われていたからこそ、ティッカは断ろうとした。だが、後押ししたのは大人達の方だった。ティッカには才能がある、いい機会だからやってみなさい。その方がカペラも喜ぶ。そう言われて、ティッカも慢心した。
結果、カペラは死んだ。馬車での移動中に土砂崩れに巻き込まれ、泥の下で冷たくなった。レドの御守りを持っていた両親は、奇跡的に助かったという。カペラだけが、死んでしまった。そこから導き出される答えは一つである。ティッカの御守りでは、彼女を守りきれなかった。否、むしろ星々の怒りを買って災いを招いたのかもしれない。カペラが持っていたのが師の作った御守りなら、きっと助かっただろうに。ティッカの自惚れのせいで、彼女を犠牲にしてしまったのだ。
気にしすぎるな、とレドは言う。しかし、この日を境にティッカはぴたりと星の糸を紡ぐことが出来なくなった。淡い光から糸を手繰り寄せる感覚も、ほのかな暖かさが指に絡まる感触も、もう分からない。思い上がった愚かな子供への、これは罰なのだろう。ティッカは星の加護を失った。もう、夜空に煌めく光の力を借り受けることは出来ないのだ。
「ティッカ」
レドに名を呼ばれ、ティッカは我に返った。気付けば、テーブルには暖かな食事が並んでいる。無心で作業するうちに、夕食はとっくに出来上がっていたらしい。いつまでもぼうっとしているティッカを、レドは食卓へと促した。
「冷めないうちに、早く食べてしまいなさい。片付けたら、鐘楼へ行くから」
「はい」
レドの言葉に従い、ティッカはテーブルについた。硬いパンと豆と薫製肉のスープ、それからミルクを手早く口に詰め込んでいく。すっかり陽は暮れた。これからが、星紡ぎの仕事の時間だった。
肌寒い風が木の葉を散らすようになった晩秋、夜の空気は殊更冷え込んだ。好んで風邪を引きたい輩でもなければ家で暖を取るだろうが、ティッカとレドは今、塔の鐘楼にあたる場所にいる。鐘楼、といっても鐘はなく、便宜上そう呼んでいるにすぎない。遥か昔にはそういう役割も果たしていたのだろうが、星紡ぎには邪魔なだけだった。とっくに取り払われて、現在は呼称に名残があるのみとなっている。
「じゃあ、始めようか」
鐘楼の端、星明かりが一番よく降り注ぐ場所に、レドはどっかりと腰を下ろした。村のどこよりも、一番星に近い場所だった。星紡ぎがわざわざ村から離れた塔に住むのは、このためだ。より近くに星の力を感じ、静寂で意識を研ぎ澄ます。毎夜、レドはこの鐘楼で星の光を紡ぐのだ。
レドは座ったまましばらく瞑目していたが、やがて目を開けると静かに空へ手を差し伸べた。くるくると何かを巻き取るように手を回すと、不思議と細い光の筋が現れ、レドの指に絡みつく。レドは慎重にそれを手繰り寄せると、手際よく光の糸を編み上げていった。片手の指に絡め、端を引っ張り、また引っ掛ける。糸が少なくなってくれば、再び空に手を伸ばして星に請うた。それを何回も繰り返して、星紡ぎの作品は少しずつ形になっていく。星の力を借りることが出来るのは夜だけだ。作業は手早く、確実に行わなくてはいけない。師の手並みは、実に鮮やかだ。
そしてティッカは、その過程をひたすら眺めているだけだった。頬を撫でる風の冷たさに、もうすぐ同じ季節だな、と思う。あの日までは、ティッカの星紡ぎをレドに見てもらうこともあった。けれど今、同じことは出来ないのだ。戯れに、ティッカも空へ手を伸ばしてみる。しかし凍てついた空気が指先をかじかませるだけで、星の力の片鱗すら感じ取ることが出来なかった。星々に嫌われた星紡ぎなど、聴いたこともなかった。星は空で変わらず輝いている。なのに自分だけ暗闇に取り残されたようで、ティッカは伸ばしていた手を胸元で固く握りしめた――師が、ティッカを見つめて悲しげに目を細めていることにも気付かずに。
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