結局、その日の宿は神殿の一室を借り受けることとなった。申し出た際のレナードの渋い顔に少々苛立ちを覚えつつも、森での疲労もあって話もそこそこに二人はベッドへ潜り込む。柔らかに包み込む上掛けの感触は、張り詰めていた精神を少しずつ解きほぐしてくれた――しかし、鮮明に脳裏に焼き付いた情景は、ユイスを簡単に眠らせてはくれなかったのである。
ぱしゃん、と冷水で顔を打つ。肌に刺さるような温度に余計に眼が冴え渡ったが、頭を冷やすにはちょうど良かった。眠れぬまま横たわる苦痛に耐えかね、ユイスが向かったのは中庭の隅にある水場だった。日中は神官達が利用しているそこも、夜半過ぎとあっては全く人影はない。やたらと明るい星々と青白い月が、ただユイスを見下ろしているだけだった。
自然と、唇から溜め息が零れた。今日は碌なことがなかった。トレルの森といい、町に戻って眼にしたものとい。何より、それに心を乱されてばかりの己の体たらくが腹立たしかった。辛苦も困難も承知の上であった筈なのに、あまりにも情けない。
「覚悟が、足りなかったということか」
苦々しく呟きながら再び水を掬おうとして、不意に自分の掌が目に付いた。本来のものより一回りほど小さく、華奢な両手。そして水を張った桶に映る顔は、十年は昔のものだ。丸みを帯びた頬、幼さの残る目鼻立ち。身長も、今はレイアと同じか少し低いくらいだろうか。クロック症候群は、ユイスを蝕むことを止めはしない。自分の死期もそう遠くはないのだろう。そのうち、今日見たイローの妻と同じ道を辿るのだ。時が逆行しているユイスとは真逆の症例だったが、惨めな死に様を晒すことになるのは変わりはなかった。
恐ろしい、と。今までも、そう思ったことが無いわけではない。罹患が発覚して絶望したのも、得体の知れないものが身体を浸食される感覚に戦慄したのも、嫌というほど記憶に刻まれている。ただ、幸か不幸かユイスの症状の進行は非常に緩やかだった。最初に倒れてからおよそ一年。時折、眩暈や酷い倦怠感に襲われることはあっても、そこまで生活に支障が出ることはなかった。最近ではそれらの症状に見舞われることさえ殆どなくなり、見た目が幼いことを除けば健康そのものだった。
それゆえに、忘れかけていたのかもしれない。自分のすぐ傍に死神がいることを。改めて突きつけられた現実を前に、これほど動揺してしまう程度には――自分は死を恐れていた。
「……いや。違う、な」
己の考えに違和感を覚え、ユイスは頭を振った。死、事態が恐ろしいのではないのだ。苦痛を伴うものだろうが、遅かれ早かれ人は死ぬ。その時が来れば、きっと自分は受容するだろう。
きっと本当に恐れているのは、この命が尽きるまでに何も果たせないことだ。王にも臣下にもあれだけ啖呵を切っておきながら、未だに何一つ成果はない。イローが言った通りなのである。国も神殿も手を尽くしているといっても、それは過程でしかない。結果を出さなければ、民は救われないというのに。時間は限られている。これしきで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
――そう、覚悟が足りなかった。何事にも屈さず、揺らぐことのない精神が、自分にはまだ足りない。
「……私の名はユイエステル・メレク。我が心は国に仕え、我が血肉は民に捧ぐもの」
自分はエル・メレクの王子だ。国に、民に報いることが出来なければ何の価値があろうか。
揺らぐな。揺らいでは、ならない。
「……ユイス様」
思考に沈んでいたところへ不意に声が掛かり、ユイスは肩を震わせた。慌てて振り返ってみれば、そこあったのは不安気に佇むレイアの姿だった。
「すみません。外にいらっしゃるのが、見えたので……」
「……いや、私の方こそすまない。少々考え事をしていてな」
動揺を悟られぬよう、努めて平静を装いユイスは言葉を返した。先程までの行動を見られていたなら無意味な抵抗である気もしたが、これ以上の無様を晒したくはなかった。レイアはそうでしたか、と小さく呟くと、とユイスの隣へと歩み寄った。それ以上の追及をされなかったことに安堵しつつ、彼女の表情を窺う。
「眠れないのか」
「……はい。ユイス様も、ですか?」
「そうだな、私は……月見をしつつ感傷に浸っていた、というところかな」
誤魔化すようにおどけて言うと、レイアはあやふやに微笑んだ。しかしその笑みは、一瞬で消えてしまう。
「戻ってきてから、ずっと考えてたんです。クロック症候群のこととか、色々と」
ややあって、どこか心許なさそうにレイアは話し始めた。
「森で、精霊達は私の声に応えてくれませんでした。町に戻っても、クロック症候群で亡くなった人を目の当たりにして……何も、出来ませんでした」
俯き、華奢な手を胸の前で握り締める。全て言い終えぬうちから、彼女の瞳は今にも雫が零れ落ちそうな程潤んでいた。
「亡くなった人のことは残念だった……が、お前が責任を感じることはないぞ。クロック症候群の件は、私がお前を振り回しているようなものなのだから」
何も出来なかった責任というなら、自分が背負わねばならない。彼女はあくまでもユイスが協力を要請しているだけに過ぎないのだ。しかしレイアは、ユイスの拙い励ましにゆっくりと首を振った。
「そうじゃ、ないんです。いえ、確かにそれもありますし、こんなことを言うのは不謹慎なのかもしれませんけど……私は」
言葉の途中で、唇がわななく。必死で押し込めようとしたのであろう感情が溢れ、とうとう彼女の頬を涙が伝い始めた。
「もしこのまま原因も治療法も解らなかったら、ユイス様もああなってしまうんだと思って。今までもずっと不安だったんです。でも死者の祈りを捧げる自分を想像して、怖くなって」
所々引っ掛かりながらもレイアが吐露した内容に、ユイスは僅かに瞠目した。まさか自分のことでそこまで思い詰めているとは、思いもしなかったのである。情の深いレイアが身近な者の死と重ね合わせることなど、容易に想像出来そうなものだったが――思った以上に、周りが見えていなかったのかもしれない。自分のことで手一杯とは、本当に情けない話である。
「……レイア」
柔らかく波打つ髪を撫で、そっと彼女と額を合わせた。こつり、というその感触に妙な懐かしさを覚える。幼い頃、泣きじゃくるレイアをよくこうして宥めたものだ。
「少しばかり想像力が豊かすぎるぞ。私はこの通りまだまだ元気だ。それに、そうならないように旅に出たのだから……あまり、心配するな」
言い聞かせるように、ゆっくりと声を掛ける。最初こそ驚いたように目を見張ったレイアだったが、特に抵抗することもなくされるがままだ。やがて少しは落ち着きを取り戻したのか、上目遣いにユイスを見上げる。その仕草も、幼い頃と変わらない。
「それは、無理です。心配はさせてください。何かあってからじゃ遅いんです」
「そうか。じゃあ好きなだけ心配してるといい。後で馬鹿馬鹿しかったと思うはずだから、それだけは信じてろ」
「……わかりました」
小さく頷いたレイアの表情が、ようやく少し和らいだ気がした。あやすように再び彼女の頭を軽く撫でると、突き合わせていた額を離す。
「さぁ、部屋に戻るか。治療法を探そうとしていて自分が体調を崩しては、洒落にならないからな」
肩を叩いてレイアを促し、ユイスは踵を返し歩き始めた。半歩遅れてレイアが着いて来るのを、顔だけ振り返って確かめる。とりあえずは、彼女も大丈夫そうだ。後は部屋へ戻って、充分に休んで、それから。
「……どうする、かな」
背後までは届かぬように、口の中で呟いた。現状が手詰まりであることに変わりはない。これからどうするべきか――歩みながら、ユイスはひたすらにそれを考え続けた。
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