歪み、映すもの 7

 フェルダの町へ帰還したのは、夕刻と呼ぶにはまだ少し明るいかと思われる時刻だった。仕事が一段落した住民達が、思い思いに寛ぎ始める頃である。緩やかな安息に満ちた町の中で、それとは正反対にユイス達の足取りは重かった。町と森との往復による疲労、そしてそれ以上に森での出来事が自然と陰鬱な空気を作り上げる原因となっていた。
 ――精霊王は、人と交わることなど無い。それは今更確認するまでもないことだった。精霊は人間に対して好意的とは限らないが、余程のことがなければ危害も与えない。しかし己に向けられたのは明らかな拒絶と、敵意と、殺意である。今回はその“余程”の部分に触れてしまった。精霊王と接触するというのは、そういうことなのである。最初から予想出来たことだというのに、驚くほど気落ちしていた。間接的とはいえ炎の王から助力を得たことで、浮き足立っていたのだろう。
「……私は、神殿へ戻ります。レナード司教に報告へ行かなくてはなりませんので」
 始終無言だった帰路で、最初に沈黙を破ったのはルオだった。気付けば町中の別れ道で、神殿とユイス達の宿とは別方向である。
「……ええ。どうぞ、ルオ殿もお気を付けて」
 頷きながらユイスがそう返すと、ルオは軽く頭を下げて背を向けた。その顔色があまり思わしく無かったのは、きっと気のせいではないだろう。唐突に信仰する精霊王の声を聞き、何も解らぬままに敵意を向けられたのだ。此方にも事情があったにせよ、彼には悪いことをしてしまった。少しずつ遠ざかるルオの姿を複雑な心境で見送り、ユイスが次に目を向けたのは隣の少女である。
「私達も、宿に戻ろう。今日はもう休んだ方がいい」
「……はい。そうですね」
 言い聞かせるように紡がれた言葉に、レイアは静かに頷いた。それを見て、ユイスもまた歩みを再開した。幸い『イローのねぐら』はここから程近い。乗馬に慣れないレイアは早くから疲労の色が見え隠れしていたし、イルファも未だに眠りこけたままだ。しっかり休息すれば、思考も多少は切り替わるだろう。そう考えると、自然と宿へ向かう歩調は早くなっていった。民家を二軒ばかり通り過ぎ、次の角を右へ曲がる。目指す建物が見えてきた。
「……ん?」
 しかし、目に飛び込んできた場景にユイスは酷く違和感を覚えた。一瞬、道を間違えたかと思ったがそうではない。周囲の道や建物は見覚えのあるものだった。異様なのは、人である。あれほど閑散としていた宿屋の前に人だかりができている。服装を見れば、皆この町の住民であることが判った。旅人の団体客、ということでもなさそうだ。そして彼らの醸し出す、あまりにも沈鬱な空気。誰もが俯き、涙を流す者もいた。
「……なにか、あったんでしょうか」
 宿に入るに入れず、ユイス達は数歩後ろでその様子を見つめていた。時折、人々が顔を寄せあった何事か囁き合っている。可哀想に。だがあれでは仕方ない。次がもし身内の者だったら――具体的な内容までは流石に聞き取れなかったが、大体そういったものだった。ますます首を捻っていると、輪の中に居た一人が此方に気付き歩み寄ってきた。白髪混じりの髪を一つに纏めた、恰幅のいい老女である。
「あんた達、昨日泊まってた客じゃないかい? 朝に食堂で見た気がするけど」
 問われて否定するような理由もなく、その通りだとユイスは首を縦に振った。近所の住人が冷やかしに飯を食いに来る、とイローが零していたので、彼女もそんな一人なのだろう。滅多にない余所者の姿をたまたま記憶していたとしてもおかしくはない。老女は深々と息を吐いたかと思うと、苦々しげに再び口を開いた。
「また間の悪い時に来ちまったもんだね……悪いが今日は宿は使えないよ。イローもしばらくは忙しいだろうし、自分達でどうにかしておくれ」
「宿で、何か?」
 どこか歯切れの悪い老女の言葉に、堪らずユイスは聞き返す。ただならぬ空気であることは確かだが、何が起こっているのか。老女は元々刻まれていた眉間の皺を更に深くすると、躊躇するように宿を振り返った。数拍の間を置いて再度ユイス達に視線を戻すと、老女は渋々といった体で話し始めた。
「……イローの奥さんが亡くなったんだよ。ここ最近ずっと具合が悪かったんだけどね。ちょうど昼頃の話だ」
 告げられた事実に、ユイスは息を呑んだ。同時に宿を出る直前の光景が脳裏に蘇る。イローが纏っていた憂いは、これだたったのだ。ユイス達に悟らせまいと思っての言動だったのだと、今なら理解出来た。しかし腑に落ちない点もある。妻の容態が悪く、心穏やかでは無かったのだろう。だがユイス達の旅の目的を話した時、なぜあんなにいきり立っていたのか――そこまで考えて、不意に全てが線で繋がった気がした。
「クロック症候群……」
 無意識に呟いた言葉を聞き止めた老女が、微かに目を見張った。それから訝しげに首を捻り、ユイスへと問い掛ける。
「なんだ。イローから聞いたのかい?」
「……いえ、はっきりとは。ただ朝にクロック症候群の話をしていたので、もしやと」
 やはり、と思いながら、ユイスは当たり障りのない範囲の真実を答えた。彼女が怪しむのも無理はない。クロック症候群に罹患した者やその家族は、大抵その事実を隠したがる。得体の知れない病であるだけに、あらぬ迫害を受けることも多いのだ。普通なら、進んで余所者に話すことは無いだろう。ユイスの言い分に納得したかどうかは定かではないが、老女はそうかい、と頷いた。
「とにかく、そういうことだから。やることも色々残ってるし、私はそろそろ戻るよ」
「……あの! 宿のご主人――イローさんにはとてもお世話になりました。私達もお祈りさせて頂けませんか?」
 踵を返そうとした老女を、レイアが引き留める。老女は僅かに顔をしかめたが、頭ごなしに拒否するようなことはなかった。
「……イローがなんて言うか解らないよ」
「はい、無理は言いませんので。一応、私も神殿に属する者なので、少しでもお慰めになれば」
 神殿という単語で、老女は得心がいったというように頷いた。聞いてみるよ、と言い残すと、老女は宿屋へと引き返していった。死者の弔いは、神殿の者が執り行う。エル・メレクの教えでは、死後の魂は精霊によって浄化され世界に還るとされている。そのために、埋葬前に神官が祈りを捧げるのだ。一人、若しくは数人の神官が神殿から派遣されるのが普通だが、直近の神殿以外の者が祈ってはならない決まりはない。もちろん正式な手順は正規に派遣された者が行うだろうが、死者と精霊を結びつけるための祈りは、多い方が良いのだ。
 しばらくして、半分ほど開いた宿の扉から老女が手招きするのが見えた。入れ、ということらしい。
「こっちだよ」
 老女に続くようにして扉を潜る。中を誘導されて辿り着いたのは一階の奥の廊下、それを更に進んだ突き当たりの部屋である。宿として使われる区画からは随分離れている。恐らくはイロー達の居住用の一室なのだろう。
「私は外に出てるからね。適当に話しておくれ」
 案内し終えるなり、老女はさっさと退散してしまった。その背中を黙って見送り、改めて目の前の扉に向き直る。幾ばくかの逡巡の後に控えめなノックをすると、入ってくれ、と短い返事が聞こえた。
「……ご主人」
 中へ足を踏み入れると、イローは部屋の端に置かれたベッドの傍で跪いていた。彼は俯き、何かを見つめたまま動かない。視線の先のやや膨らんだ上掛けが、そこに誰かが横たわっていることを示唆していた。
「……紹介するのが遅くなって悪かったな。俺の女房だ」
 ややあってユイス達が入ってきたことに気付いたのか、緩慢な動作でイローが顔を上げた。彼のが示すままに、恐る恐るベッド上が見える場所まで近寄っていく。そして、言葉を失った。
 遺体は、見るに耐えないほどのものだった。全身が酷く痩せ衰え、四肢はまるで枯れ枝のようだった。土気色の肌には張りがなく、斑に皮膚が赤紫に変色している。眼窩は窪み、唇はひび割れ、毛髪は殆ど抜け落ちていた。そして、部屋に入った時から鼻につく臭い。腐臭、だろうか。働き盛りの年齢と言えるイローの妻にしては、随分と違和感があった。まるで、餓死した老人をそのまま放置したような状態なのである。しかし、それもクロック症候群ということなら全て説明がつく。恐らくは急速に老いて、身体が壊死していったのだ。
「去年の、今頃だったかな。おかしくなり始めたのは」
 折れそうな妻の手を握りしめ、イローはぽつぽつと語り始めた。
「最初は膝が痛いだとか腰が痛いだとか、そんなんだったんだ。その時は俺らも歳か、なんて笑ってんだけどな。見る見るうちに弱っていって……こんなになっちまった。これでも、元々は結構美人だったんだぜ」
 言いながら、イローは妻の顔へと視線を移す。冗談めかした台詞を付け加えながらも、その語尾は微かに震えていた。
「……力になれず、すまなかった」
 ――彼がどれほど切実な思いを抱えていたかなど、想像することしかできない。日に日に死が近付く妻を見て、イローは何を考えていたのだろうか。少なくとも、何か救う手立てがあれば、と感じたことはあったはずだ。でなければ、見ず知らずの余所者に、あのような剣幕で迫ることがあるだろうか。己の無力を噛み締め口にした謝罪に、イローは静かに首を振る。
「もう長くないのは解ってたんだ。今更どうにもなんねぇだろうことも」
 イローは赦しの言葉を口にする。しかしその表情はあくまで暗く、彼はでもな、と続けた。
「少しでも申し訳なく思うなら、早く治療法見つけてくれや。国も神殿も、何もしてくれなかった。治療法については模索中だって、そればっかりだ……本当そんなもんあるのかね」
 イローは決して口調を荒げるようなことはしなかった。しかしその内容は、ユイスの肩へと重くのし掛かる。端々に宿る深い嘆きと憤りが、ユイスの胸を抉っていく。そうだ。何もしていないも、同然だ。
「祈りを捧げるより、生きてる人間を助けてくれよ。なんで俺の女房は、こんなに苦しんで死ななきゃならなかった……?」
 最後は殆んど独り言のように呟くと、イローはそれきり黙り込んでしまった。時折、鼻を啜る音だけが響く。慰めの言葉など、掛けられる筈もなかった。そんな資格など自分には無い。彼の妻が死んだのは、未だ治療のひとつも行えない国と神殿と――ひいては、王子たる自分のせいなのだから。自分が森で手をこまねいているその間にも、ひとつの命が失われてしまったのである。
「――数多の精霊達よ、眠りについた彼の者を安息の地へと導きたまえ」
 痛いほどの沈黙の中、レイアが静かに遺体に歩み寄る。儀礼に乗っ取って胸に手を当て、紡ぐのは死者のための精霊達への祈りである。彼女に倣い、ユイスも礼をとって祈りの文句を諳じる。
「……彼の魂が解け、水に、土に、風に、炎へ還り、やがて再びひとつの命となるまでの安寧を授けたまえ。旅立つ御霊に、祝福あれ――」
 この行為が、イローの安らぎに繋がることはない。それでもユイスは祈りを捧げた。それしか、できなかった。

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