状況がある程度落ち着いたところで、ユイスは神官たちに後を任せ町を離れることを決めた。時柱を早く取り戻さねばならない現実に気が急いたのもあるが、住民たちの反発が強くなってきたことが大きい。いくら弁明したところでユイスたちは彼らにとって異物に過ぎず、不幸な事件を連れてきた災厄の種なのだ。長居することにいい顔はされなかった。
目的の遺跡はリエドから山脈に沿って五日ほどの場所だった。滞在中に出来る限り集めた記録によると、発見された当初は様々な調査の手が入ったらしい。結果、いくらか建造物の跡は残るものの保存価値は低いと判断された。維持しようとすれば人手も費用も掛かる。当時の国にそこまでの余裕はなかったようだ。更には土地も痩せていて、精霊に嫌われた土地、とさえ呼ばれた記述もあった。精霊信仰の厚い民がそんな場所に近付きたがる訳もなく、時が経つにつれ人々の記憶からは忘れ去られていった。
「……それが、在りし日の王国の名残とはな」
遺跡と呼ぶにも寒々しい光景を前に、ユイスは一人ごちた。横にそびえる山脈は青々としているのに名もなき遺跡はあまりにも荒涼としていた。立ち枯れたような細い木と、渇いた土の上に点在する崩れた壁やその痕跡。それすらもやがて風化によって消えゆくのだろうと、容易く想像できた。
ひとしきり辺りを見渡して歩き出すと、それに合わせて足音がついてくる。一歩遅れて進むレイアは、相槌をうつことも、特に目の前の景色について感想を述べることもなかった。彼女とはあれ以来気まずいままだ。呼びかければ応じはするが、声音も表情も硬い。それでも出立にあたって別行動をとる、ということはなかった。今回はヴァルトとの交戦は避けられないだろう。二人の間の空気は別として、レイアだけでも安全な場所に、と提案したのだが、彼女は頑として譲らなかった。少なくとも道中で精霊の力を借りるのには役立てる、と強く主張され、ユイスが折れる形となったのだ。実際、野営を挟みつつの道のりであったので、飲み水の確保などでレイアには大変世話になった。しかしそれ以上に、彼女との仲がこじれることを恐れて拒絶できなかったのは否定できない。
――情けない。
心中で呟きながら、ユイスは何度目かの溜息を吐いた。これから大きな敵と対峙するというのに、仲違いをしている場合ではないことくらい分かっている。だが謝罪しようと話し合っても言葉が上滑りにしかならないのは実証済みだった。一度これまでの関係に罅が入ってしまった以上、修復するのは容易なことではない。根本的な問題を解決するほかに道はないのだ。そのためにはやはりここまで来ざるを得なかっただろう。そう思い直して顔を上げた瞬間、ユイスたちの間を殴りつけるような風が吹き抜けた。
「こんな時に喧嘩かい? そんなことで大丈夫なのかな」
風がやむのとほぼ同時に揶揄するような声が響く。誰何する必要もない。視線を向けた先には歳に不相応な笑みを浮かべた少年と、それに寄り添う若草色の風の精霊の姿があった。彼らの背後には巨大な結晶が見える。こちらが取り返しに来たと分かっていて隠す気もないとは、大した自信である。
「同じ台詞を返そうか。悠長に構えていては足をすくわれるというものだ」
「そんなことはないさ。余裕がないからこそ大切な物は手元でしっかり守らないと」
結晶に向けられた目線に気付いたのか、ヴァルトは振り返って大事そうにそれを撫ぜた。おどけた風を装ってはいるが、レニィから聞いた話を踏まえれば聞こえ方も違って来る。それだけ彼は時柱に執着しているのだ。
「――話は聞いた。それを手元に置いていたところで蘇りはしないだろうに、どうするつもりだ」
説得できると思ったわけではないが、彼らの動機を知って芽生えた疑問を投げかかる。結晶に閉じ込められ、時柱となった状態がどういうものなのかは分からない。だが人の身体は、指一つ動かせず、飲みも食べもしないまま生命を維持できるようには出来ていない。たとえ精霊の加護があろうともそれは揺るがない。次の時柱となるレイアを殺め、結晶の中から少女を救い出したとしても、彼女が生前と同じように微笑むことはないだろう。ヴァルトはそれを理解した上で行動しているのだろうか。
しかしそんなユイスの懸念は、ヴァルトの哄笑によって掻き消された。
「何か勘違いしているようだが、『これ』は私の娘ではないよ。時柱はもって百数十年だ。ノヴァたちの力をもってしてもね。私の可愛い姫は、とうの昔に塵芥になったことだろうさ」
垣間見た父親の悲哀に、息が詰まる。世界のために犠牲になった大事な存在の末路。過ぎたものとして語っても、ヴァルトの表情には影があった。無意識のうちにそこに自分を重ね合わせる。レイアを時柱として差し出した暁には、ユイスも同じものを抱えているのかもしれなかった――あるいは、その行動をなぞることもあり得るのだろうか。
だが沈痛な空気はほんの一瞬のものだった。一転して、ヴァルトはユイスの胸中を悟ったように嘲笑で青を歪めた。
「言っただろう。これは復讐だ。娘の犠牲で歴史を刻んできた世界など滅べばいいと思っている。それだけの話だ……さて、エル・メレクの王子。お前はどちらを取る?」
「……既に死人のお前と違って、私は今を生きている。心配されなくとも、馬鹿げた結論は出さないさ」
腰に佩いた剣に手をかける。これを持ち出すのはトレルの森以来だ。あの時に以上に、この刃に預ける決意は重い。誰も傷つかず終わることはきっとないだろう。それでもこれは避けて通れない道だ。ならば早々に片を付けるべきだろう――惑わされないためにも。
「これ以上は問答無用、か。平和な国の王子の腕が、戦乱の時代を生きた人間にどれほど通じるかな」
ユイスの挙動を見て、ヴァルトも動く。その手にはいつの間にか片手剣が握られていた。古めかしい装飾だが、その鋭利な刃には一点の曇りもない。これもしるがヴァルトのために与えたものだろうか。
「これでも鍛錬はしている。そちらこそ自分の身体ではないのだから、思う通りに動けないんじゃないか」
挑発を返しながら、こちらも剣を抜く。レイアが数歩後ろに下がるのが分かった。イルファもそれに従う。ユイスがヴァルトを抑え、イルファはレイアに危害が及ばないようにしながらシルの相手をする。事前に話し合っていた、作戦とも言えぬ作戦だ。イルファの負担が大きいが、どう足掻いても人の身で精霊王の相手は無理だ。ヴァルトとシルを引き離し、人間同士で相手をするのが一番堅実に思われた。
視線が絡む。容貌は町で慎ましく暮らしていた少年のものであるはずなのに、纏う空気は様変わりしていた。周囲を押し潰すような、見えない針で肌を撫でられているような。
それは、殺気と呼ばれるものだった。
コメント