歪み、映すもの 1

 ルーナを出立した一行の旅路は、極めて順調なものだった。天候にも恵まれ、これといって厄介事もなく、次の目的地にも恙無く到着することができた。
 ――だというのに、なぜこんなに気を揉まなくてはいけないのだろうか。前方を歩く少女と精霊の様子を見ては、ユイスは頭を抱えたくなる衝動を必死に堪えていた。
「なーなー、あれなんだー? 変なのがぐるぐるしてるぞー」
「あれは水車だよ。水の力を使って麦を挽いて、粉にするの」
「ふーん? なー、じゃああれはー?」
 周りに見えるものに逐一興味を示すイルファの言葉を拾い、レイアは一つ一つ丁寧に答えていく。それだけ見れば微笑ましい光景なのかもしれないが、残念ながら和んでいられるような状況ではなかった。なぜならここは町の中、そしてイルファは精霊である。
「……イルファ、はしゃぐのは程々にしてくれ。レイアも少しは周りを気にしろ。そろそろ視線が痛い」
 放っておけばいつまでもやっていそうな二人を見かね、ついにユイスは苦言を呈した。先程から、こちらを見ては町の住人が何事か囁き合っている。大抵の人間の目には精霊は映らない。つまり端から見ればレイアは一人で何もない空間に向かって喋っており、まるで心を病んだ哀れな少女なのである。ユイスの指摘でようやく周囲の様子に気付いたのか、レイアは慌てて咳払いをして俯いた。
「なんだよーつまんないなー」
 不服そうなイルファの声に今は応えず、ユイスは神殿へと向かう歩調を早めた。
 大陸の西、地の神殿を擁するフェルダの町は、その精霊の加護ゆえか飛び抜けて肥沃な土地を持つ。それを活かした農畜産業が盛んで、町に広がる畑では作物の手入れをする住民の姿が頻繁に見受けられた。これといって見所があるわけでもない、いわゆる田舎町といった雰囲気だ。流れる空気もどこか緩やかで、同じ神殿の所領といえどもルーナとはまるで違う。そんな風景が、イルファには物珍しかったのかもしれない。
「あ、ユイス様、あそこでしょうか?」
 不意に立ち止まると、レイアは前方を指し示した。その先にあったのは、町で一番大きな建物である。緑の溢れる町に映える、白い壁。神殿の紋章が刻まれた門の奥には、精霊をかたどったであろう石像も見える。目指す地の神殿に間違いない。
「おー、あれかー? 行くぞー!」
「ちょ、ちょっとイルファ! 待って!」
 確信するなり飛び去ったイルファに続き、レイアも走り出す。彼を制止しようとする叫び声に、参拝帰りとおぼしき通行人の視線が集まっていく。
「……まったく、人の話をちゃんと聞いていたのか、あいつらは」
 密かに嘆息すると、ユイスもまた彼等の後を追って駆け出した。

   ※

 出発に先駆けてジーラスが文を出してくれたお陰か、神殿での取り次ぎは非常に速やかだったと言える。本来必要である七面倒な手続きも省かれ、客室で責任者である司教を待つこととなった。
「……遅いな」
 しかし、その後からは全く事が進む気配は無かった。部屋に通されてどれくらいの時間が経っただろうか。そう思って窓の外を見れば、空のほぼ頂点にあったはずの太陽の位置が大きく傾いている。未だに、司教が訪れる気配は無い。手持ち無沙汰で手近にあった本を開いてみたが、内容は神殿の成り立ちやら教義やらといった、今のユイスには必要のないものばかりだった。
「こんなことなら、神殿の蔵書を見せて貰えるよう先に頼めばよかったな」
 そうぼやきながら、ユイスは音を立てて本を閉じた。この神殿の司教は、確かレナードと言ったか。壮年の、少々肉付きが良すぎる男だったと記憶している。ぼんやりと顔を覚えている程度で殆ど話をしたことはなかったが、臣下達への横柄な態度を咎めたことがあった。尊大で高圧的な、聖職者らしからぬ人物である。
「そうですね……ああっ、イルファ、触っちゃ駄目!」
「むー、暇だぞー! シキョウとやらはいつ来るんだー?」
 一応はおとなしくしていたイルファも、そろそろ限界らしい。レイアの言葉になど微塵も耳に入らない様子で、落ち着きなく飛び回っては辺りにあるものを弄り始めた。そこかしこに配置された装飾や調度品は見るからに華美な贅物で、ユイスの美的感覚からすると悪趣味としか言い様のないものばかりだった。天井の鮮やかな絵画や、部屋の大きさに不釣り合いなほど豪奢な照明。それに加え金や銀のきらびやかなテーブルなど、過剰なまでに装飾された室内は、権勢を誇示しているかのようだ――否、実際にその通りの意図なのだろう。なまじ外観は最古の神殿に恥じぬ荘厳さだったため、余計にそれが際立っている。
「まったく、人柄が滲み出る部屋なことだ……ここまで派手だと税金の使い道が疑わしいな」
「……ユイス様?」
 知らず口に出していた内容をレイアが聞き咎め、首を捻る。その困惑した表情を見て、ユイスは漸く我に返った。咳払いをしつつ、静かに頭を振る。
「なんでもない、気にするな。それよりレイア、司教との交渉は任せたからな」
 仕切り直すようにレイアに声を掛けると、彼女は眉尻を下げきゅっと身を竦めた。
「……その事なんですけど、やっぱり私が話すんですか?」
「当然だ、そういう『設定』だからな。何、ジーラス殿も手を回してくれている。形式的なものだから、そう心配するな」
 不安気なレイアの言葉をすっぱりと切り捨てると、間を見計らったように扉を叩く音が聞こえた。直後にレイアは慌ただしく席を立ち、ユイスはそのすぐ後ろに控える。待ち兼ねた司教のご登場のようだ。

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