犠牲 9

「イルファ!」
 鋭い叫びに応えるようにして、巨大な蛇のように炎がうねった。爆煙を巻き起こし、顎をあけてヴァルトたちに襲い掛かる。それを避けようとした二人の隙間を狙って炎は軌道を変え、片方だけを取り囲むようにしなったかと思うとユイスを巻き込んでとぐろを巻いた。出来上がったのは火炎の檻だ。囲い、閉じ込めるための場所であり、闘技場でもある。ユイスとヴァルトが戦うためだけの舞台だ。相手を倒して外に出るか、二人諸共に燃え滓になるか――もっとも、ユイスが倒れたとしてもイルファが炎を解かなければヴァルトは抜け出すことはできない。
「……なるほど。捨て身の分断とはね」
 感心したような台詞と共にヴァルトの剣が閃く。受け止めた剣筋は存外に重い。身体をよじってそれを受け流すと、ユイスも己の剣を構え直した。言うだけあって油断ならない実力のようだった。だが、この状況ならシルも手出しし辛いだろう。風は炎を煽るし、視界も悪い。下手を打てばヴァルトも巻き添えだ。イルファがこの場を背にするようにして立ち回れば、ある程度はシルの動きを抑制できるはずだ。
「こちらもなりふり構っていられないから、な!」
 言いながら、今度はこちらから打ち込む。一合、二合と切り結んで互いに身を翻した。合間に重く空気が唸る音がする。狙い通り精霊同士でやりあっているようだ。
 ユイスは祈るように剣を握り締めた。こんな小手先だけの作戦がいつまでも通じる相手とは思わなかった。相手が精霊王であることは忘れていない。これは短期決戦が前提の決断だった。長引けばユイスも危うい。
 更に何度か打ち合っては離れてを繰り返す。僅かに頬の皮膚が裂けたが、構わす得物を振るった。剣戟の最中で刀身に照り返す炎が目を焼く。噴き出す汗で手は滑り、火の粉と煙は不愉快に喉を刺激する。直接触れたわけではなくても、取り囲む炎はじりじりと身体を焙った。イルファが早々に決着をつけられなければ共倒れだ。最悪、時柱が取り戻せればそれでも構わないかもしれないが――そうなれば、レイアはどうするのだろう。
 カキン、と耳障りな金属音がひときわ大きく響く。辛うじて受け止めた剣先は舌打ちとの音と共に離れていった。ヴァルトの額にも幾筋もの汗が浮かぶ。早く勝負をつけたいのはお互い様だ。再び攻め姿勢に転じるため、ユイスが構える。しかし、その瞬間のことだった。
「ヴァルト! 避けて!」
 悲鳴にも似た叫びが聞こえたのと、炎の檻に亀裂が出来たのはほぼ同時だった。目に見えぬ刃が空気を引き裂き、鋭く地面を抉った。ちょうどユイスとヴァルトの間を縫うように通り過ぎた衝撃は、直撃こそしなかったものの強烈な風で身体を殴りつけていった。特に、紙一重の場所にいたヴァルトは明らかに体勢が崩れていた――好機だ。これを逃すわけにはいかない。
 瞬時に傾いだ身体を立て直し、一気に距離を詰めて剣を弾き飛ばした。次いで柄で首筋を打ち、腹に膝蹴りをお見舞いする。くぐもった呻き声を上げ地面に倒れこんだ。伏した体躯に膝を乗せて体重をかけ押さえ込む。意識を失ったようには見えたが、念のためだ。
「イルファ、炎を!」
 叫ぶと、一拍の間を置いて徐々に周りの炎の勢いが弱くなっていく。やがて視界が晴れると、小さな影が空を飛翔するのが見えた。向こうもこちらの位置を見定めたようで、すぐさま傍に舞い降りる。
「……死んだかー?」
「いや、気を失っているだけだ。生きている」
 そう告げると、ヴァルト――否、エルドの姿を見つめるイルファの表情が心なしか緩んだ気がした。だが安堵した以上に疲労が色濃く滲んでいる。彼の働きを労ってやりたいところだが、それは後回しだ。
「レイアは無事だな?」
「あっちの離れたところにいるー。もう少ししたらこっち来るんじゃないかー」
 訊ねてみると、イルファは期待していた以上に明確な答えをくれた。上空から様子を見ていたらしい。炎の壁が消えたのを見計らって戻ってきているのだろう。彼女と合流する前に話をつけたいところだ。ユイスは剣を握り直し、切っ先をヴァルトの首筋に突き付けた。
「さて……状況はご覧の通りだが、どうする?」
 前方へ視線を向ければ、膝をつく風の精霊王の姿があった。あまり表情がないと思っていた顔が僅かに歪む。優雅に広がっていた緑髪は不揃いに焼け焦げ、白い肌は埃と煤に塗れくすんでいた。イルファ以上に消耗しているのが見て取れた。それこそ、攻撃を放つのに手元が狂う程度には。
「貴方が敵対するのは、この男の望みだからだろう。私たちも進んで戦いたいわけではない。貴方が身を隠し、時柱を人の世界に返してくれるのなら、これ以上彼を傷つける真似はしないと誓おう」
 言下に、剣の角度を変えてみせる。逆に言えば、受容できないならこの場でヴァルトを切る――そういうことだ。相手が精霊王といっても、力を使う素振りを見せた瞬間に首をかき斬るくらいは出来るだろう。シルは勿論、エルドを案じるイルファやレイアの恨みを買うことにもなりかねない行為だが、綺麗事ばかり言ってはいられなかった。
「……選択肢になっていない自覚はあるの? どちらにしても私はヴァルトを失う」
「無論。目の前で奪われるのと、自然の摂理に任せるのとどちらがいいか、という話だ」
 時柱を元に戻せば、クロック症候群の一つの現象として存在しているヴァルトは恐らく消えることになる。それが本来あるべき形なのだ。彼は遠い時代の、既に死んでいる人間だ。それはシルとて承知しているはずだった。
「彼の最期と、私との関係を知っていて言っているなら、酷い話ね」
 ふと、場の緊張感が和らいだ気がした。シルはおもむろに立ち上がると、緩やかに宙を滑り、ユイスの前に降り立った。目線を交わし、ユイスが静かに剣を収めると、彼女は伏した男の頭に手を伸ばした。煤けた髪に指を絡め、愛おしそうに撫でる。
「……さようなら。私の、哀れで愛しい王様」
 母のように、姉のように、恋人のように。万感の思いを込めるようにシルが呟くと、風が渦巻き始めた。惜しむように指先が離れていく。せめてもの敬意にと頭を垂れて見送ると、彼女は去り際に謎めいた言葉を残していった。
「へレスの書架には、彼女たちの物語も残っているかもしれないわね」
「何……?」
 問い返そうとした瞬間には、その姿は既になくなっていた。入れ替わりに、レイアの声が耳に届く。
「――ユイス様!」
 視線を上げると、存外近くで駆け寄ってくる姿が見えた。ヴァルトを抑えたままのユイスに代わってイルファが出迎え、頭上の定位置に納まった。それを見て、ユイスはようやく息をつく。
「どう、なったんですか」
「見ての通り、なんとか上手くいった。ヴァルトの身柄は確保、風の精霊王は退いた」
 簡潔に説明すると、レイアもまた安堵の息を漏らした。しかし、その表情がすぐさま強張る。
「お怪我を」
「ああ、これか。大したことはない」
 視線の先にあるものに気付いて、ユイスは乱雑に頬を拭った。少しずつ血が滲み、ふとした瞬間に痛みはあるが、本当に大した傷ではなかった。だから心配ない、と言いたかったのだが、次の瞬間にはレイアの目は逸らされていた。その仕草にユイスもつい溜息を吐く。ひとまず最善の形で収まったと思われたが、こちらはどうも上手くいかない。気まずい空気を誤魔化すように、ユイスは更に続けた。
「エルドには申し訳ないが、しばらくこの身体は拘束させてもらおう。その後はリエドに連れ帰ってから考えるとして……あとは、時柱か」
 薄緑色の結晶は、はじめ見た時と変わらずに荒れた遺跡で鎮座していた。幸い大きな破損は見られない。中の少女も変わらず瞳を閉ざしたままだ。喜ぶべきことだったが、なぜか心は重い。いっそ、壊れていたなら或いは。
「……これも持ち帰らなければならないだろうが、背負うのは厳しいな。シルの力を使って運んでいたんだろうが、こちらはイルファに頼ってどうにかなるものか」
 不吉な思考を振り切ろうと、ユイスは絶え間なく話し続ける。そんな考えは許されない。たった今、これがなくてはならないと必死に勝利をもぎ取ったのだ。
 ――だが、時柱を取り戻した後のことはどうするつもりだったのだろう。
 いつの間にか、問題の時柱が目の前にあった。喋りながら歩いてきていたらしい。今なら、どうとでもなる。否、自分は、どうしようというのだ。無意識に手を伸ばしかけた、その時だった。
「一応、ご苦労様と言っておこうかしら」
 空間が歪んだ。どこからともなく人影が現れ、荒んだ地には場違いに思える華やかな衣装が揺れる。花の衣装とレースがあしらわれたドレスを纏うのは、ノヴァだった。続けてメネの姿も現れる。時柱が、完全な形で揃った。その現実を見せつけるがごとく、ノヴァは冷淡に問い掛けた。
「それで、覚悟は決まったの?」
 唇を噛む。ユイスには、是とも否とも答えることが出来なかった。何の話だととぼけるのも白々しい。目を逸らし続けたものから逃れることはもう出来なかった。もっともらしいことを嘯きながら闇雲に進んで、辿り着いたのは奈落の淵だ。自分で落ちるか、突き落とされるか。ユイスも、ヴァルトとシルを笑うことは出来ないのだ。
「……私は」
「レイア」
 進み出ようとしたレイアを咄嗟に制するが、後が続かない。何か道はないのか。何か――。
「いいでしょう」
 暫しの沈黙ののち、不意にノヴァが小さく息を吐いた。
「私たちがこの結晶を取り戻せば、クロック症候群は一旦は収束するでしょう。でも、あまり長くはもたないわ。その気があるなら、会いに来なさい」
 言い終えると、ノヴァは惜しむ素振りも見せず背を向けた。景色に滲むように消えていくノヴァとメネ、そして時柱の結晶。それらを、ユイスはただ見ていることしか出来なかった。残されたのは僅かな猶予。一日なのか一か月なのか一年なのか、その間に何が出来るというのだろう。
「ユイス様、あの」
「とにかく町に戻ろう。話はそれからだ」
 レイアの言葉を遮り、ユイスは歩き出した。まだ終わりではない。一番大きな課題があった。ユイスは選ばねばならない。世界か、彼女か。

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