雪解けに微睡む

 温暖なエイリム王国には珍しく、その日は雪が積もっていた。冬とはいえ、王城の中庭は常に手入れされていて美しい。瑞々しい緑を湛えた低木が囲む、赤銅色の煉瓦道。丁寧に刈られた柔らかな芝生。寒さの中でも控えめに色づく、小さな花々。しかしそれらも、今は雪化粧の隙間から微かに顔を覗かせるばかりだった。鮮やかな色彩はなりを潜め、目に映るのは日差しを受けてきらめく一面の白。国内では滅多にお目にかかれない光景に少なからず感嘆の念を覚え、ルカーナ・ワレン・エイリムは深く息を吐いた。
「凄いわね。道理で夜中に冷えるはずだわ」
 跡ひとつない新雪にそっと足を踏み出すと、僅かに身体が沈んだ。吐息も、独り言も、足音も、全てが緩やかに凍って雪に埋もれていく。そう感じるほどに、辺りは静寂に満ちていた。人の声も物音もない。中庭の周辺は徹底的に人払いがされているから、尚のこと静けさが際立つのだろう。
 なぜそのような事になっているのかといえば、ひとえに女王たるルカーナの休息のためである。王としてのあまりに繁忙を極めた日常を危ぶみ、休養を勧められたのだ。提案してきたのは数少ない味方である壮年の騎士団
長で、彼による様々な根回しのお陰でようやく公務から離れられたのである。確保できた時間は今日の午後半日。あまりのんびりは出来ないが、いっときだけでも煩わしい取り巻きから解放されるのは有り難かった。
 ――この国の王として即位してから、そろそろ三ヶ月が経つ。教養もなければ人脈もない、名ばかりの王女。成り行きとはいえ、そんな自分が王位を継いだのは一部の臣下の思惑ゆえであるのは解っていた。ルカーナの周りにいるのは、取り入って傀儡として操ろうとする者、己の血縁者と結婚させて王位に近付こうとする者。そうでなければ、何かと理由をつけて玉座から引きずり下ろそうと目論んでいる者だ。ただでさえ不慣れな公務に加え遅れた分を取り戻すための勉強時間で参っているのに、城の中はそんな連中ばかりだ。付け加えるなら、彼らはルカーナの政に不満があるというより私利私欲を優先し行動する。いかにこれまでの内政が腐敗していたのか、ルカーナはこの三ヶ月で嫌というほど痛感していた。
 木の長椅子に積もった雪を適当に払い、腰掛ける。一度座ってしまうと急激に身体が重くなり、自覚していた以上の疲労感がルカーナを襲った。肉体的な疲労は勿論のこと、自分が即位してからもあまり代わり映えのしない内情に溜息が出る。こうなった以上は自分がこの国を変えてやる、と啖呵を切ったものの、そう上手く物事は運んでくれなかった。
「寒い……」
 一人ごち、ガウンの前を掻き合わせる。厚手のものを羽織ってきてはいたが、もう少し着込んできた方が良かったかもしれない。しかし碌な防寒具も持てない民も多いのだと知った今では、これでも随分な贅沢だと感じられた。
 エイリムは裕福な国だ。だがそれは目に付きやすい部分だけの話であって、今日の豊かさのために数多の人々が虐げられてきた――否、今でも多くの民が苦しんでいる。失ったものを嘆く声、そして貧困の喘ぎ。しかしその中でも強かさを失わず育まれた、絆や温もり。かつて目にした光景を眼裏に浮かべては、王としての覚悟を確かめる。良い国にしてみせると誓った彼らは、この寒さの中をどう過ごしているのだろう。確かめに行きたくとも、今となっては簡単に城を抜け出すわけにはいかない。好き勝手に城下街を歩いていたのはそう昔の話ではないのに、既に懐かしく思えた。
 だが国を揺るがしかねない事件の記憶は、簡単に薄れはしない。一緒になって巻き込まれた二人の人物は、常に気にかかっていた。
「……会いたいな」
 口に出してみると、尚のことその気持ちが強くなる。一段落した後の動向は耳にしていたが、全く顔は合わせていない。今の自分を見て、彼らは何と言うだろう。
 瞳の奥が熱い。雪の白さに目が眩んだのだろうか。それから逃れるように瞼を閉じると、あっという間に世界が暗く遠退いていった。

   ※

 ぬるま湯のような温度を感じた。凍えることはない、という程度のささやかな温もりが身体に馴染む。それが心地よくてすり寄るように身を捩ると、骨張ったような硬い感触がした。そこでようやく、ルカーナは違和感に気付く。暖かい。雪の積もる庭にいる筈なのに、なぜ。 
「やっと起きたか。こんな場所で寝てたら凍死するぞ、馬鹿」
 間近で低い声が響き、ルカーナは慌てて飛び起きた。いつの間にやら隣に人がいて、そしてどうやら自分はその肩を借りて眠りこけていたらしい。由々しき事態である。どう取り繕おうか――焦る内心を隠しつつ傍らの人物を見上げ、ルカーナは目を見張った。
「……ゼキア?」
「他の誰に見えるんだよ。寝ぼけてんのか?」
 思わず疑わしげに名を呼べば返ってくる、呆れたような皮肉。しかしそれが口先だけのものであることはよく知っていた。以前に会ったときと何ら変わらない、ぶっきらぼうな言動の裏の優しさと気遣いがそこにはあった。
「……実物?」
 会いたい、と願ったばかりの人物の一人が都合良く隣にいるなんて、唐突すぎて実感が湧かなかった。夢でも見ているのかと思わず青年の仏頂面に手を伸ばす。両手で包み込んだ頬は、じわりとルカーナの手を暖めた。
「え、なんでいるの?」
「なんでも何も仕事だっての。手、離せ」
 触れていた手を押しのけつつゼキアが言い放った答えに、ルカーナは得心した。人払いをするといっても現状で王の身を一人にするのは危険だ、信頼できる護衛を置いておく――確かそう言われていたのだった。まさか彼だとは思わなかったが、確かにゼキアなら事情も把握しているしルカーナも気安い。様々な根回しをしてくれた騎士団長には、流石と言うしかない。
「……なるほど。ああそっか、さっきからなんとなく暖かいのも貴方ね。ありがと」
「……お前が倒れて困るのは周りの人間だからな」
 突き放した口調で返された言葉に、ルカーナは小さく微笑んだ。彼は騎士だが炎の魔法も使う。ルカーナに原理はさっぱりだが、何かしらの魔法を用いていたのだろう。不機嫌そうに目を逸らすのは照れ隠しのようなもので、自分の身を気遣ってくれていたのは明白だ。
「なんだよ」
 ルカーナの視線に気付くと、ゼキアはきまりが悪そうに呟いた。その様子がおかしくて、ますます口元が緩む。
「別に? こんな所で会ってるのが不思議だなぁって思っただけ」
 正直に吐いたところで喧嘩になるだけなのは分かっているので、当たり障りのない言葉を口にする。嘘は言っていない。ゼキアと知り合ったのは城下街での些細な事件が切欠だった。彼は貴族の血統でもないし、当時はこんな風に王城で顔を合わせるようになるとは思いもしなかった。考えてみれば奇妙な縁である。
「まさか、貴方が城に上がるとは思ってなかったしね」
「俺も思ってなかったけどな」
 貧民街の青年も今や正式な騎士の一人だ。伸ばしたままだった黒髪は短く揃えられ、騎士団の白い制服もなかなか様になっていた。彼自身の纏う雰囲気も変化したように感じる。以前は時折風に煽られて熱を増す熾火のようだったものが、今は煌々と燃え盛る篝火のようだ。彼の中でも何かが変わったのだろうか。夕暮れの中で最後に交わした言葉で、ルカーナがそうであったように。思い返せば、あの時も何かが違ったような――。
「……おい?」
 呼び掛けるゼキアの声がどこか遠い。とっさに俯き顔を隠す。あの日の記憶を詳細に辿るべきではなかった。鮮明な映像が脳裏に蘇ると同時に頬に熱が集中する。別れ際のゼキアを思い出してしまったのがいけなかった。騎士の忠誠を表す、その行為。彼があんな行動にでるなど思いもよらず、動揺で言葉も出なかった。ただ、真摯な眼差しと不器用な誓いだけはよく覚えている。あれがゼキアなりの誠意の示し方だったのだろう。手に触れた感触はやけに生々しく、落ち着かなかった。
「おい、ルカ」
「な、何?」 
 いよいよ訝しんだような声に、ルカーナは慌てて面を上げた。心なしか鼓動が早い。顔が赤くなってはいないかと不安がよぎるが、例えそうなっていても寒さのせいだと思いたい。
「何、じゃねぇだろ。人のことじろじろ見てたかと思ったらいきなり固まるし、頭の中まで凍ったのかよ。馬鹿が加速するぞ」
「少しぼーっとしただけだし、馬鹿馬鹿って言わないでくれる!? 騎士らしくなったのかと思ったけど変わらないわね貴方!」
「それは悪かったな。へりくだった方が良かったか?」
 不遜な物言いを悪びれるでもなく切り返したゼキアに、ルカーナもつい閉口した。彼が殊勝に自分に跪く姿など想像し難く、見たいとも思わなかった。王と臣下として褒められたものではないのは理解するが、今更他人行儀に振る舞われるのは嫌だった。そしてルカーナも自分を取り繕うようなことはしたくない。そんなことをしても意味はないからだ。ルカーナが虚勢を張っていることなど彼はとっくに知っている。
「……いいわよ、そのままで」
 呟いた声に、おう、と短く返された声に安堵する。流石に公でこうはいかないが、他の臣下が要る場で一介の騎士と王が言葉を交わすことなどそうは無い――などと誰にともなく心中で弁解するが、結局のところただの我が儘であることは解っている。それでも、彼が変わらず『ルカ』と呼んでくれる喜びには代え難かった。そう呼んでもらえることで、王でも何者でもない自分自身を見失わずに済む気がする。ゼキアも、ルカーナがその方が気楽だと解っての態度なのだろう。その気遣いが胸に染みる。
「納得したならもう少し休め。寝てないんだろ」
 不意に、こめかみを小突かれる。そういえば不覚にも眠りこけていたのだと、ルカは今更思い出した。自分は随分間抜けな顔をしていたのではなかろうか。ゼキアがなんでもない風に振る舞っているのが、逆に羞恥心を煽る。
「大丈夫よ、少しうとうとしたら頭もすっきりした気がするし……そろそろ戻らなきゃ」
 ぶり返してきた熱を振り払うように頭を振る。本音を言えばゼキアの言葉に甘えたいところだが、休みすぎても気が急いてしまうし、この状況で彼と二人きりというのがどうも気恥ずかしい。しかしゼキアは、まるでルカの心境を見透かしたかのように深く息を吐いた。
「大丈夫な顔色には見えねぇけどな。お前が倒れたら、それこそ大臣たちが好き放題やり始めるぞ」
 ゼキアの指摘に、ルカは思わず押し黙った。容易に想像できる展開である。今まで通り甘い汁を吸い続けたい貴族達としては、ルカは邪魔者でしかない。いっそ倒れてくれた方が好都合、とでも考えていそうである。ただそれでも、無理をしたくなる理由がある。
「……意地でも倒れないわよ。私に付いてくれてる臣下がみんな無理してるのに、肝心の主君がのんびりしてられないでしょ。貴方だって、風当たりきついでしょうに」
 ルカの女王としての立場は非常に危うい。少数の味方が奔走してくれているお陰で何とか現状を維持してはいるが、小さな綻びが一つ明あればたちまち崩壊してしまうだろう。味方をしてくれる人々とて、一枚岩というわけではない。例えばゼキアの所属する騎士団だ。団長が女王を支持しているとはいえ、騎士の殆どは貴族の出身だ。ルカの指針に反発する者も少なくない。
 そんな騎士団の中で、平民上がり、かつ貴族嫌いのゼキアがどう扱われているかは想像に難くない。今日のように団長から密かな任務を言い付かったりしていれば、尚のこと目の敵にされるだろう。そんな彼に、自分が弱音を吐くわけにはいかないのだ――そんなささやかな決意を込めた言葉だったのだが、ゼキアから返ってきたのは何度目かになる溜め息だった。
「だから、そういう所が大丈夫じゃねぇんだろ。臣下も自分の体調管理さえ出来ない奴に気を使われたくないっての」
「う……」
 容赦のない反論に二の句が継げず押し黙る。それをいいことにゼキアは更に畳み掛けた。
「大体、俺は全面的に新女王を支持してるわけじゃない。今後次第だからな。これまでと同じ人間が政やってても国がまともになるとは思わないだけで」
「……そうだったわね」
 ゼキアの言に、思わず苦笑が漏れる。元々彼は王族を敵視していた。憎んでいる、といっても間違いではない。しかし、ルカのことはそれとは別に個人として認めてくれている、と思う。でなければこんな風に気遣ってくれはしないだろう。そう考えると、幾ばくか気も緩んだ。少しだけなら――構わないだろうか。
「わかった、休む。だから肩貸して」
「は? なんでそうなる」
「だって長椅子に寝そべるのもどうかと思うし、部屋に戻ったら誰かしらに捕まるし。これが最適じゃない」
 言うやいなや、答えを聞かずにゼキアの肩に頭を預ける。怒るだろうか、と微かに不安がちらつくが、結局ゼキアも拒否することはなかった。
「……今回だけだからな」
「はぁい」
 呆れ混じりの声に、おざなりな返事をする。潔く瞼を閉じると、睡魔はすぐにルカを襲ってきた。心地良い気怠さに身を任せれば、眠りの国はすぐそこだ。

 微睡みの中で、軽く柔らかな音を聞く。温まった雪が木から滑り落ちたのだろう。元の緑の庭に戻るのにそう時間は掛からないはずだ。
 雪が溶けるのと同じように、この国に積もった憂いが消え去って真の豊かさが芽吹けばいい。傍らの温もりが共に歩んでくれるなら春はそう遠くないと、ルカは信じた。

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