雪と骸

 もうすぐ、春が来る。雪が融け、凍った川が流れだし、泥の隙間から微かに緑が覗き始める。そんな季節がやってくる。芽吹く命には祝福の歌を。土の下の亡者たちには上滑りな祈りの言葉を。誰かがそれを口の端に乗せては儚く忘れ去られ、やがて季節は巡っていく。結局はこれも、巡り続ける営みのうちのほんのひと欠片でしかない。

 薪の弾ける音で目が覚めた。暖炉を見れば、記憶にある炎より随分勢いが衰えている。道理で冷えるわけだった。かじかむ指先を擦り、火かき棒で暖炉をかき回し薪をいくらか追加する。少し炎が大きくなって一息つくと、背後から大きなため息が聞こえた。
「サナ。あんたまた寝てたのか」
「叔母さん」
 前掛けを外しながら部屋に入ってきた叔母は、呆れたように名を呼んだ。いつから見られていたのだろうか。いたたまれなくなって目を逸らすが、サナの思考などお見通しというように先に視界に回り込まれてしまった。
「もう夕餉の頃合いだからと思って呼びに来たら、寒い部屋で暖炉を弄ってるんだ。居眠りしてことくらいすぐ分かるんだよ」
「ごめんなさい。繕いものは今日中に終わらせるから」
「別にそれはいいけどね。最近ずっとこんな調子だろ。具合でも悪いのか」
「そういうわけじゃ……ただ少し、寝不足なの。それだけ」
 白々しい言い訳に叔母は眉を顰めたが、それだけだった。代わりに睨むようにサナの手元を見つめる。サナの指先はひどく荒れてひび割れていて、爪は欠けて色も悪くところどころ黒く汚れていた。隠すように両手を握り締めると、叔母がまた溜息を吐いた。
「……そういえば、何をしたんだか知らないけど、あんたの靴がだいぶ傷んでいたね。穴が開いていたし、泥がこびりついて取れないし。今年はまだ寒いからあれじゃ辛いだろう。私の古いので良ければやろうか」
「大丈夫。まだ使えるから」
 頭を振ると、叔母は諦めたように踵を返した。早く飯食べちゃいな、とだけ言い残して。その背中が扉の向こうに消えるのを待って、サナはストールの内側に隠していた瓶を取り出した。手のひらにちょうど収まるくらいの硝子の中に、白い欠片がいくつか転がっている。瓶を右へ左へと傾けると、欠片はチリチリと硬質な音を立てた。
 瓶を持ったまま、窓際に立つ。今年の冬は深く、いつもなら雪融けの季節だというのにまだ木々が白く染まったままだった。白い世界と、手元の欠片の色を見比べる。同じ白。それでいて決して交わらず、なのに雪の中に欠片を落とせば分からなくなってしまう。白は、雪は、冬の世界は理不尽だ。サナはそっと瓶をしまうと、窓の外から目を背けた。

 息の凍てつく早朝に、サナは森へ向かっていた。空はまだ黒に近く、まばらに散らばった星と霞んだ月が頭上から見下ろしていた。村からほど近いこの森には、聖域がある。生い茂る針葉樹の合間に、吹き抜けのような広場があるのだ。春になれば競うように花が咲き、動物たちが自然と集いはじめ、周辺の木々は豊かに実る。森の命たちは勿論のこと、その命を食べて生きる村の人間も、聖域の恵みによって生かされていた。
 雪で平らに均された聖域に辿り着くと、サナは木の幹に立てかけたままにしてあったショベルを取り出した。無造作に地面に突き刺し、足掛けに体重を乗せて深く抉る。梃子のようにして柄を押し下げれば、雪の下に隠されていた黒い土が少しだけ顔を出す。白と黒のまだらを脇に投げ捨て、また同じようにショベルを突き刺す。あてはなかった。目に付いた場所を闇雲にショベルで掘り返すという無為な行動を、サナは雪が薄くなり始めた時期から繰り返していた。サナの他には聖域に誰も近付かない。雪が融けるまでは足を踏み入れてはならないというのが、村の不文律だった。それを破って、サナは人目を盗んでは穴を掘っている。奇異の目で見られようが、ひどく罵られようが、そうせずにはいられなかった。
 辺りの雪をどれほど汚した頃だろうか。ショベルの先に硬い感触があった。カツ、という微かな音が聞こえた瞬間、サナはショベルを放り出し穴に取り付いた。服に泥がつくのにも爪が割れるのにも構わず、掘り当てたものの土を払う。やがて姿を現したのは、雪とは異なる白だった。もう一度ショベルを持ち直し、周りの土をどけて出来る限り表に露出させる。それはサナが探していたものよりは少し小さいようだった。けれど、遠い昔にサナと同じような衝動に駆り立てられた人間がいたかもしれない。肉の削げ落ちた指に、愛を意味する指輪がはめられていたから。
「……貴女は、いつの『巫女』さま?」
 サナの求めていたものではなかった。それでも、過去に引き裂かれた誰かに思いを馳せて、サナは小さな骨のひとかけらを拾い上げる。硝子瓶の中身が、また増えた。

 家に戻る頃には、銀雪の世界の際から太陽が顔を出していた。出来るだけ音を立てないように慎重に足を運び、少しだけ開けたドアの隙間から家の中に身を滑り込ませた。この時間なら叔母は厨房だろうし、他の家族はまだ眠っている筈だ。気付かれないうちに部屋に戻って身なりを整え、何食わぬ顔で叔母の手伝いに向かう。そうすれば何も言われない。たとえサナが何をしているのかを察していたとしても。
 だが今日に限っては、いつもと家の様子が違った。
「――今年は春が遠い。雪が深すぎるんだ。これじゃあ種も撒けないし、村の備蓄も限界がある。死人が出るぞ」
 居間に入ろうとしたその時、誰かの声が聞こえてサナは足を止めた。男の声だ。しわがれた響きには聞き覚えがある。恐らくは村長のものだ。更に誰かの声が重なる。数人が密かな会合を開いているようだった。
「巫女が不出来だったせいだ。あいつは祈りもろくにしなかったし、最後まで巫女の役目を嫌がった。冬の神様がお怒りになったんだ」
「もう一人巫女を捧げるか……しかしそれを繰り返していては村に女がいなくなる」
「それよりルイを掘り返すべきだ。神様がお気に召さなかったものをいつまでも置いとくからいけないんだ。あれは焼いて川にでも流すべきだ――」
 一人の男が自分の意見を押し通し、周りが覇気のない同意を返したところで、サナは後退り来た道を振り返って駆け出した。まだ会話は続いていたようだが、どうでもいい。外気の冷たさとは対照的に、身体中の血が沸騰したように熱かった。不出来だなんて、焼いてしまうだなんて、村の男たちはどれだけ彼女を侮辱する気なのだろう。何度、私達を引き裂けば気が済むというのだろう。

 冬が近くなると、この村では聖域に女を埋める。年に一人、冬越えのまじないとして、巫女として選ばれた誰かが生きながらに死の国へ落とされる。あの聖域の恵みは、代々の巫女の死肉を糧に実っていた。それを食らって、この村は生きながらえている。
 今冬の巫女はサナの双子の姉だった。優しくて気が弱く、けれど決して俯かない人だった。不出来なわけがない。サナはずっとルイに支えられてきた。毎年、土をかぶせられる女たちを互いの手を握って見送った。母が埋められた時は二人で三日三晩泣き明かし、互いに助け合って生きていこうと決めた。傍らにルイがいたからサナは立っていられたし、ルイもきっとそうだった。なのに今ルイはいない。サナに黙って、男たちが土に埋めてしまった。
 頬が引きつる。いつの間に溢れていた涙が凍り、皮膚に張り付いていた。ルイは紛れもなくサナの半身だった。引き裂かれたこの身は、もはや屍と同じようなものだ。それくらいなら、一緒に埋めて欲しかった――だからサナはルイを探すと決めた。片割れを取り戻すために。
 取って返した森は薄暗かった。早朝は晴れていたはずなのに、空には分厚い雲がかかり急激に気温が下がっていた。吹雪くかもしれない。そうなればまた、ルイが覆い隠されてしまう。その前に見つけなくては。
 過去に掘り返した箇所は、土と雪が混じりあい跡が残っていた。ショベルを持ち出し、その部分を避けてひたすらに掘る。指先が変色しても、肩に雪が積もり始めても、一心不乱に掘り続ける。やがて硬いものがショベルの先にあたる。覚えのある感触に、サナは穴の傍に屈みこんだ。土を払う。少しずつ元の形が明らかになっていく。見覚えのある服の刺繍を認めると、ショベルを振るうのももどかしく濡れた土を手でかき出していく。
「ああ、やっと……」
 久方ぶりに見る片割れの姿は、思っていたよりは変容していなかった。どす黒く変色し、皮膚は腐り落ちていたけれど、互いに結いあった髪も、名前を呼んだ唇も形が残っている。
 深い安堵に包まれるのが分かった。彼女から引き離されることほど恐ろしいことはない。姿が変わろうとルイはルイだ。そうである以上、もう何も案ずることはなかった。全身から力が抜けていく。重力に任せて倒れ込み姉の亡骸に覆いかぶさると、サナは腐りかけの唇にそっとくちづけた。
「一緒に眠ろう。もう置いて行かないでね」
 呟き、目を閉じる。ないはずの温もりを、どこかに感じた気がした。
 二人の身体を、雪が覆いつくしていく。二度と離れることないようにと、二つの骸を凍らせ何者からも隠すように。春はまだ遠く、それが訪れる頃にはもう誰も双子の姉妹のことなど覚えていないことだろう。

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