「ここのところ、もうずっと雨が降らないでしょ?そのせいでどこの村も不作なのよ。家畜も死んじゃうし、飲み水を確保するのもやっと……だから」
ちよは先程のにぎり飯を再び雷に押し付けた。
「白米も貴重なの!有り難く食べなさいよね」
反射的に受け取ったそれを数秒見つめたあと、雷は口を開いた。
「お前の村もか」
「え?」
「水不足。お前の村もか」
ちよは少し躊躇いがちに頷いた。
「うん……うちは少しだけ蓄えはあるけど」
「ならお前が食えばいい」
「でも、天青草のお礼もきちんと出来てないし……」
ちよはなおも食い下がった。金も物もない生活の中、自分にできる精一杯の礼がこれなのだ。
「場所を教えただけだ。気にされることじゃない。母親にでも持っていってやればいい」
母が病気なのだ、と彼女は言っていた。良くなっているのかもしれないが、病気後の体力が落ちた体なら、尚更栄養が必要だろう。
「……母さまに。そうね、ありがとう」
呟くようにちよは言い、今度こそ納得した様子で包みを仕舞い始めた。
「それに、生憎食い物には困らんのでな」
「……そうかなーとは思ったんだけどねぇ」
ちよは苦笑した。これだけ山の緑が深ければ山菜や木の実も豊富だろうし、それを食べる動物もいる。水もあるだろう。食糧難には程遠い。
「不思議ね。全然雨が降らないのに、こんなに豊かな場所があるなんて」
「お前に見えないだけで実は枯れ山かもしれんぞ」
それを聞いたちよは、思わず吹き出した。
「あはは!流石にわかるわよ。葉の擦れる音とか、湿った土の感触とかね。見えないけど、とても綺麗。やっぱり天狗様が守ってるからかしら」
「……天狗、な」
ちよは、まさか自分の隣に居るのがその天狗とは思いもよらないだろう。雷も普通の人間であるかのように接しているが、今更打ち明けるのも妙な気がして何となく渋い顔をした。言ったところで信じるのかも分からないが。
「ねぇ、雷はいつからこの山に住んでるの?」
そんな雷の様子には気付かず、ちよは話を続けた。
「さぁな。気付いた時からずっとここが俺の住処だ。どうしてそんなことを訊く?」
「うーん……なんていうか、神さまが住むから近づくな、って言われてる山なのに、人が居るのが不思議で」
今更な疑問である。それなら最初に雷と出会った時点で何も思わなかったのか――ちよにしてみれば、薬草を探すのに必死でそれどころではなかったのかもしれないが。
しかし、雷から返ってきたのは意外な言葉だった。
「……そんなことになっているのか。初耳だ」
「知らない、の……?ずいぶん昔からよ?むやみに立ち入ったら罰が当たるって」
どこか恐る恐る、といった様子でちよは言った。
「知らんな。下の人間達が勝手に言っているだけじゃないのか」
山に天狗――雷が守り神として住んでいるのは事実だ。雷はそこに居るだけで大地に力を与え、葉を潤し、山を育む……山が豊かなのは雷が居てこそなのだ。
しかし雷自身は人間の立ち入りを禁止した覚えはない。そもそも人と関わることが殆ど無く、あまり関心がないのである。荒らされるのは困るが、別に狩りをしようが山菜をとろうが、どうでもいいのだ。詳しいことは分からないが、人々の信仰から定められた決まりなのだろう。
「……ところで、それならお前はなぜ毎日ここへ来るんだ?立ち入るなと言われているんだろう」
「……やっぱりそうなるよねぇ」
もっともな雷の疑問に、ちよは少々気まずそうに笑った。
「最初は母さまを助けたくて必死で……罰が当たっても何でもいいって思ってた。今は雷と話してるのが楽しいから、つい……かな。今のところ罰も当たらないしね」
そこでちよは一旦言葉を切り、雷に向き直った。
「けど、やっぱり駄目?……迷惑?」
そう尋ねるちよからは、いつもの勢いが見当たらなかった。
「別に……禁止なんてしてないんだから、勝手に来ればいい。暇つぶしくらいにはなるからな」
自分で言った言葉に、雷は少し驚いた。確かに禁じてはいないが、まるで来るのを促しているようで……自分で思っている以上に、雷は彼女を気に入っていた。
ちよはそれを聞くとぱっと顔を明るくし、いつもの調子を取り戻した。
「良かった!駄目って言われたらどうしようかと思ったよ……さて」
言うのと同時に、束ねた黒髪を揺らし座っていた岩から飛び降りて、ひとつ伸びをした。
「ずいぶん話し込んじゃった。そろそろ日も暮れる頃だし、今日はもう帰るね」
そう言われて見上げると、徐々に西の空が橙色を帯び始めていた。見事な時間感覚だ。
「ああ、早く帰らないと夜行性の獣の餌食だな。」
「もう、どうしてそういうことを言うのよ!」
頬を膨らませるちよは、やはりそれほど怒っているようには見えない。二人のやり取りもすっかり山の景色に馴染んでしまった。
「……また明日ね」
「ああ」
手を振り駆けていく少女を、雷は木々に埋もれて見えなくなるまで見送った。言わなくてもどうせ毎日来るんだろう、と確信しながら――。
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