千夜に降る雨 3

 その日、天青草を両手に抱えられるだけ抱えたちよは、深々と頭を下げ帰っていった……もう日が暮れるから、と半ば無理矢理麓近くまで送らせた分も含めて。天青草があれば彼女の母親の病気は治るらしいので、もうくることもないだろう。
 翌日からは、いつも通りの静寂が戻ってきた。鬱蒼とした緑が地を覆うなかで、ちよと出会った燦々と光の注ぐ場所を雷は気に入っていた。生まれ育った場所とはいえ、木陰ばかりではなく太陽の光も適度に浴びたいものである。大岩に腰掛けて日を浴びるのは雷の日課だった。心地よい静けさに身を任せ、目を閉じる……。
「あ、いたいた。雷ー!」
 木々の合間をぬって聞こえた声に、思わず雷は自分の耳を疑った。まさか、と振り返ってみれば、笑顔でこちらに手を振る少女――まごうことなき、ちよの姿があった。
「良かった、ここに居なかったらどうしようかと思ってたの」
「何の用だ……また天青草か?」
 それ以外に思い当たることもなく、雷はそう尋ねた。昨日結構な量を持ち帰ったと思ったが、足りなかったのだろうか。
「ううん、それはもういいの」
「なら、何なんだ」
 ここまで奥深い場所に来るには、相当な体力と気力が要る。めったと人が立ち入らない山ゆえに、人が通るような道が整備されていないのだ。まさに山そのものが自分の庭であり、人間ではない雷には関係の無いことだが、二十年も生きていないだろう少女、ましてや盲目。命がけと言っても過言ではないだろう。そこまでしてやってくるなら、それなりの理由があるのだろう……そう思った雷であったが。
「あなたと、友達になりにきたの!」
「……は?」
 あまりにも心外なちよの発言に、雷は思わず間抜けな声をあげた。
「だって雷、こんな山奥に一人で住んでるんでしょ?たまには喋らないと人間の言葉忘れちゃうわ。だから、私が友達になってあげる!」
「……わざわざこんな山奥まで来て、か?」
「大丈夫よ。道覚えたし!そうそう、さっきね……。」
 絶句する雷に気付いているのかいないのか、ちよはニコニコと話し始めた。森の静寂に慣れている雷には、まるで豪雨である。
「やれやれ……昨日だけ、のつもりだったんだがな」
 かくして雷の『暇つぶし』の期間は、少女によって強制的に延長された。 それからというもの、ちよは毎日やって来ては、隣のおばさんがとか、野良犬がとか、他愛のないことを話し続けた。定位置は大岩の上の雷の隣である。そして今日も。
「ねぇ、雷ってば!聞いてる?」
 数日もすれば飽きるか、山登りが嫌になるだろうと踏んでいたが、今日でもう十日目である。華奢なようでいて、ちよは中々の強者のようだ。日光浴に加え、ちよの話に相槌をうつのも雷の日課になりつつあった。
「あぁ……なんだ?」
「もう、聞いてないんじゃない!」
 そう言ってちよは肩をいからせた。しかしその声は言動ほどには怒っていないようだった。
「仕方ないわね。私ばっかり話してるのも何だし、雷の話も聴いてあげるわよ?」
「いや、特に何もない」
「……せっかく訊いてるのに。あ、そうだ!」
 拗ねたようにむくれてみせたちよだったが、突然何かを思い出したように手に持っていた包みをほどきはじめた。
「いいもの持ってきたんだ。はい!」
 そうして雷の前に差し出された、白くてつやつやした、三角形のそれは。
「……にぎり飯?」
「……感動薄いわね」
 それがどうした、という反応の雷に、ちよは口を尖らせた。
「まぁ、これだけ緑が豊かな所に住んでたら仕方ないかしら……」
 そう言って、木々の葉に囲われた空を仰いだ。今日も晴天。空は青すぎるほどに青い。目に映らずとも、ちよは自分を包む空気でそれを確信していた。
「雨、降らないわよね」
「到底降りそうもないな」
 それを聞いたちよはひとつ大きな溜め息をついた後、静かに話し始めた。

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