Bright blue 6

 じりじりと、まるで臓腑が蝋燭で炙られているようだった。熱を孕んだ不快感と言い様のない不安感に襲われ、ルアスは目を覚ました。
「目、覚めたか」
 いったいこれは何なのかと、そう思考を始める暇もなく声をかけられる。重い身体を引き摺るように起こすと、すっかり出掛けるための準備を整えたゼキアがいた。
「……悪い予感、的中?」
 気怠さに負けそうになりながらも、ルアスはそう問い返した。皆まで言わずとも何を指しているかは通じたらしく、すぐに溜め息混じりの肯定が返ってくる。
「みたいだな。ほら」
 ゼキアはルアスの上着を投げて寄越すと、身支度を促した。
「さっさと行くぞ。治療係が必要かもしれないからな」
「――うん」
 その言葉に、頭が冴え渡っていく気がした。急がねばならないだろう。最悪の事態になる前に。慌ただしく上着に袖を通すと、会話もそこそこにルアス達は店を飛び出した。
 悪い予感、というのはルカのことだ。別れ際に彼女へ渡した『お守り』は、特別製である。持ち主を守るための魔法を二人で施した物なのだ。もしその身に危険が降りかかれば、動揺による僅かな魔力の揺らぎを感知して作動する。大小の差はあれど、この世界の人間は誰でも魔力を持っている。それを利用した仕掛けだ。そして発動すれば魔法の主――ゼキアとルアスにそれが自然と伝わる。先程の不快感がそうだ。つまり、現在ルカに何らかの危機的状況にあることが考えられる。元々は時間を忘れがちな近所の子供達に、と作り始めた物だったが、先にこんな形で使われる事になるとは。
「――この辺だな」
 自らの魔法だ、その軌跡を辿るのはそう難しくはない。込めた魔力の比率が高かったこともあり、その役目を担っていたゼキアは労することもなくその場所を特定した。
「居ない、ね」
 やって来たのは、市街地に戻る道からはやや外れた場所だった。魔力で作り出した光球を高く掲げ、辺りを見渡す。しかしあるのは寂れた貧民街の景色ばかりで、人の気配は感じられなかった。
「ルアス、これ見ろ」
 その代わりにゼキアが何かを見つけたらしく、足元を指差した。駆け寄って見てみると、奇妙な痕跡があることに気付く。地を掻いた獣の爪痕のようなものと、その程近くにある黒ずんだ地面。それらが意味する事に、ルアスは眉をひそめた。
「……ルカ、大丈夫かな」
「とりあえず、その辺を探してみるしかないな」
 ルアスは無言で頷くと、ゼキアの後について歩き始めた。魔法の発動からそれほど時間は経っていないはずだ。ルカがまだ近くにいる可能性は高い。
 どんな手掛かりも見逃すまいと、じっくりと周囲を見回しながら路地を行く。ルアス達が住んでいる場所も大概酷いものではあるが、この辺りは住む人も居らず、ほとんど廃墟のようなものだった。それだけに“影”の住処になっているとも聞く。わざわざ夜に足を運ぶ人間もそう居ないので噂の域を出ない話だが、危険であることは確かだった。ルカも、“影”に遭遇したのだろう。先程見たのは、恐らく襲われた痕だ。
 しばらく歩くと、小さな空き地に辿り着いた。閑散としたそこは、普段と何ら変わりはなかった。あちこちに散らばる石礫と、風に舞い上がる砂埃――しかし、見慣れないものが一つだけあった。
「……あ」
 すっかり風化した煉瓦の壁の下にうずくまり、微かに身動ぎする何か。暗闇ではっきりとは見えないが、間違いない。
「ルカ!」
 気付いた瞬間、ルアスは駆け出していた。後にゼキアも続く。ルカも此方の存在に気付いたようで、弾かれたように顔を上げた。
「ルアス……!? ゼキアも……なんでこんな所に」
「それはこっちの台詞だっての。街に帰るなら随分と道が違うぞ」
 嫌味のように言いながらも、ゼキアの声には安堵が滲んでいた。一先ず変わりのなさそうな様子に、ルアスも胸を撫で下ろす。ルカはと言えば、ゼキアの言葉に気まずそうに顔を背けた。
「……迷ったのよ」
 予想の範囲内の答えだった。ルカにとっては不慣れな道である。無理もないとは思うものの、啖呵を切って別れた結果がこれでは、苦笑するしかない。
「……そんなことかな、とは思ったよ」
「お前、実はバカだろ」
「う、うるさいわよ!」
 苦々しい顔をしながらも、ルカが反論してくる様子はない。自分の行動が浅慮であったことは理解してくれたようだ。
「それで、貴方達はなんでこんな時間に出歩いてるのよ」
 その代わりに、ルカは話を違うものにすり替えた。彼女を責め立てたいわけでもないため、特に言及することもなくそれに応じる。
「帰るとき、お守り渡したでしょ? あれが――」
「……あぁ! あれ!」
 お守り、という単語を聞いた途端、ルカは叫んだ。驚いて口を閉じたルアスを気にする素振りもなく、次々と捲し立てる。
「あれ一体どうなってるのよ、火吹いたわよ!? びっくりしたじゃない!」
 火達磨になるかと想ったじゃない、と非難するルカに、少々面倒臭そうにしながらもゼキアが説明を始めた。
「危険が迫った時の微妙な魔力の動きを察知して作動するんだよ。持ち主は巻き込まれないように調整してある」
「髪の毛、焦げたんだけど?」
 不服そうにつまんだ毛先を見ると、確かに炎が掠めたであろう痕があった。もちろん細心の注意を払って調整していたのだが、完璧とは言えなかったようだ。
「――他に、怪我は」
 焦げた毛先を見たゼキアの顔が、僅かに強張った気がした。問い掛ける声も、心なしか先程とは調子が違う。ルカもそれに気付いたのか、どこか戸惑ったように答えた。
「他は……大丈夫だけど」
「……そうか。悪かったな」
 視線を逸らしながらも、ゼキアは素直に謝罪した。
「ごめんね。最後の調整したの、僕なんだ」
 急に神妙になったゼキアがどうも腑に落ちなかったが、ルアスも続けて詫びた。こちらに手落ちがあったのは確かだ。
「え、えっと、そんなに謝らなくていいんだけど……」
 立て続けに謝られ、ルカは居心地が悪そうに二人の顔を交互に見た。気まずい雰囲気を取り繕おうと言葉を発しても、徐々に語尾が萎んでいく。
「……ああ、もう!」
 やがて沈黙に耐えかねたように、ルカは声を上げた。
「違うのよ、別に責めたかったわけじゃないの! ただ、色々混乱して……むしろ“影”がどっか行ってくれたから、お礼を言わなきゃいけなかったんだけど」
 最後に「ごめんなさい」と小さく呟くと、ルカは肩を落とした。先程まで怒っていたはずだったが、その勢いは既にない。
「……怒ったり凹んだり、忙しい奴だな」
 どこか重苦しい空気の中、ゼキアがおもむろに口を開いた。
「無事なら、それでいいんだよ」
 ぶっきらぼうではあったが、それは確かにルカへの気遣いの言葉だった。そして、一番重要なことだ。何はともあれ、最悪の事態は免れたのである。まずはそれを喜ぶべきだろう。“影”を撃退できたなら、お守りは最低限の役割は果たしたのだ。
「うん、ルカが無事でよかったよ」
「……ありがとう」
 安心させるように微笑むと、ルカも僅かに口角を上げた。張り詰めていた空気も、少しだけ和らいだようだ。
「とりあえず、早く街まで戻った方がいい。また“影”が出るかもしれないしな」
 ゼキアの言うことは正論だった。ルカの無事を確認できたのは良いが、再び危険に晒されるのは遠慮したい。
「そうだね。早く戻ろう」
「ええ、そうね」
 ルカもまた同意し、それに頷いた。それを見て、ゼキアが手を差しのべる。
「立てるか」
「……うん」
 ルカがおずおずとその手を取ろうとした、その時だった。
「いたっ……!」
 ルカの表情が、苦痛に歪む。伸ばしかけた手は力なく落ち、代わりに庇うように反対の手で肩を押さえた。
「ルカ? どうしたの?」
「な、なんでもない――」
 言い終えるより先に、肩を押さえる手をゼキアが捉えた。ルカの抵抗も虚しく露になったそこには、切り裂かれた服とその周囲に滲む赤。
「何が大丈夫だ、この馬鹿!」
 真新しい傷口を見て、ゼキアは声を荒げた。暗がりで視界が悪いことと、壁に凭れてかかっていたことで今まで気付かなかったが、それは明らかに“影”に襲われた事で負ったものだった。
「あ、でもこれくらい大したこと――痛い、痛いってば!」
 慌てたようにルカは釈明し始めるが、それもゼキアに遮られた。負傷している方の腕を軽く引っ張ったのである。それだけでもかなり痛むようで、ルカは涙目になりながら訴えた。
「……ルアス」
「うん」
 ゼキアは深く息を吐くと、ルアスに視線を向けた。すぐにその意図を理解し、ルアスはルカの傍に座り込む。治療は自分の役割だ。
「頼んだぞ。俺はあっちの相手してくるから」
「……あっち?」
 入れ替わるように立ち上がったゼキアに、ルアスは首を傾げた。
「少し、騒ぎすぎたみたいだからな」
 背を向けたゼキアの視線の先を追うと、漆黒に塗り潰された空間に微かな違和感があった。
 闇夜に溶け込みながらも全てを隠しきれない、揺れる影。気配を殺しながら、それは確実にこちらに殺意を向けていた。
「まさか」
 その存在に気付いた瞬間、ルカが息を飲んだのが分かった。ルアスも反射的に身構える。
「こっちまでは来させねーよ。明かり、しっかり保っとけ」
 そう声を掛け、ゼキアは闇へと歩き出す。ルアスはただそれに頷くしか出来なかった。
「……大丈夫、なの?」
 それを見て、不安気にルカが問う。腕には自信がある、と自負していた彼女も“影”には歯が立たなかったのだ。一人で向かうゼキアが心配にもなるのだろう。
「ゼキアは、強いから……」
 大丈夫、と首肯しながらも、どこか曖昧な口調でルアスは答えた。
 決して、不安なのではない。もちろんゼキアの身を案じていない訳ではないが、剣も魔法も彼の実力が申し分ないことは知っている。そう簡単に負けるとは思っていない。それに、いざとなれば自分も出来る限りの援護はする。気にかかっているのは別のことだ。
「大丈夫、かな」
 どうにも、ゼキアから妙な緊張感が伝わってくる気がしてならないのだ。“影”がいつ襲ってくるかという状況で、気を張詰めているのはもちろん解る。だが、それとは違うのだ。お守りの発動がうまくいかなかった事を知ったあたりからだろうか。ルカの怪我を見て、余計にそれが強くなったように思う。
 それは悲観か、焦燥か、あるいは怯えのような――そういった感情の入り交じった、何か。名前をつけようにも、うまく言葉が見つからなかった。
「……ルアス?」
 ルカの呼び掛けに、ルアスはハッと我に返った。今は彼女の治療が先だ。
「ごめん、なんでもないよ。傷、見せて」
 誤魔化すように微笑むと、癒しの魔法を紡ぐべく意識を集中させた。何事もなく、ゼキアが戻って来ることを祈りながら。

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