Bright blue 5

 少々、自分の方向感覚を過信していたかもしれない。月明かりを頼りに歩を進めながら、ルカは思った。
「……完全に迷ったわね、これは」
 昼間に市街地へ戻った時と比べて、優に二倍近い時間を歩き続けている。そんなことはない、と自分を誤魔化し続けていたが、いい加減に道を間違えたと認めざるを得ない。
「はぁ……どうしよう」
 ついにルカは足を止め、頭上を仰いだ。際限なく広がる黒い空の中、淡く銀色に輝く月と、まばらに散った星々が下界を照らしている。しかしその光は非常に朧気で、灯りを持たない人間が歩くには頼りないものだ。貧民街の道は存外に入り組んでおり、土地勘のないルカが道に迷うのも無理のない話であった。
「いっそ、その辺で野宿でもしようかしら」
 エイリム王国は一年を通して温暖な国だ。例え外で一晩明かしたところで、凍死することは無いだろう。朝になれば道もしっかり見えるし、人影も出てくるはずだ。まさか路上で眠る羽目になるとは思わなかったが、仕方がない――諦めにも似た心境でそう決めた時、ふとルアスの言葉を思い出した。
 “影”が出ることもある、と。
 正直なところ、ルカは半信半疑であった。そのような話は街で聞いたこともなかったし、それが本当なら騎士団が対応しているはずだ。彼らは街を、人々を守るために存在するのだから。
「……大丈夫、よね?」
 どこか漠然とした不安を振り払えないながらも、己の中の常識を確かめるようにルカは呟いた。
 それと、ほぼ同時のことだった。
 カタリ、と背後で音がした。何か硬いものを蹴飛ばしたときのような音だ。道端に老朽化して崩れた煉瓦があったので、それだろうか。しかし、この場にルカ以外の人間はいない。ならば風が余程強いのかといえば、そうでもない。
 背筋に冷や汗がつたう。得体の知れない不安に振り向けずにいると、次に聞こえてきたのは低く唸る獣の声――とても犬や猫の可愛い類いとは思えない。
「冗談、よしてよねっ!」
 咄嗟に横に跳び退ったのは、身を守るための本能だったと言えるだろう。直後、ルカが立っていた地面は鋭い鉤爪によって抉られた。
「一体なんなのよ……!」
 そのまま後方へと距離を取ると、ルカは腰に差していた剣を抜き、相手を見据えた。
 そこにいたのは、狼によく似た獣だった。ただひとつ普通ではなかったのが、頭部だ。首の先から二股に分かれ、二つの頭が獲物を睨み付けていた。子馬ほどあろうかという体躯は黒い毛並みに覆われている。いや、毛並みだけではない。瞳も、爪も、口元から覗く牙も――すべてが夜の闇の中にあっても、黒々と異様な存在感を放っていた。その異形の姿が意味することは、一つしかなかった。
「……“影”」
 言葉だけでは信じきれなかった現実が、たった今、目の前にあった。
 ――こんなことなら、素直に忠告を受け入れておくべきだったか。一瞬頭をよぎった考えに、ルカは頭を振った。あのランプは彼らにとって唯一の灯りだった。間違ったことをしたとは思わない。それよりもこの事態をどう切り抜けるかが先決だ。努めて冷静を保ちながら、ルカは双頭の狼と向き合った。
「……随分と可愛くないワンちゃんね」
 四つの黒い視線がルカに突き刺さる。獣は獲物を仕留め損ねたことに苛立ったように、前足で地面を掻くと短く吠えた。此方が剣を持っていることを一応は警戒しているのか、すぐには襲い掛かってこない。だが殺気立ったその様子を見ていれば、目を逸らした瞬間にでも喉笛を噛み千切られるのは確実だ。
 さぁ、どうする――。
 ルカは剣の柄を握る手に力を込めた。そうでもしなければ、汗で滑り落としてしまいそうだった。剣の腕には自信がある。それは嘘ではない。しかし“影”との対峙はルカにとって未知の世界だ。一歩間違えれば命取りになりかねない。
 張り詰めた静寂の中、先に痺れを切らしたのは双頭の狼だった。猛々しい咆哮と共に後ろ足で跳躍し、ルカへと飛び掛かった。
「――早いっ!」
 辛うじて横に跳び、避ける。巨大な見た目に反し、動きはかなり素早い。最早あれこれ思案している暇はなさそうだ。獣は攻撃を外したことを悟ると、今度は間をあけずに再びルカを襲う。
「くっ……この!」
 どうにか免れたものの、先程より距離が近い。避けると同時に剣を振るうが、切っ先が相手の毛足を掠めただけだった。暗闇で上手く間合いが計れない。
 そんなルカを見て、獣は嘲笑うかのように喉を鳴らした。己の優位を確信したのだ。彼にしてみれば、ルカは抗う術もない子兎にでも見えているのかもしれない。くるり、と獣はその場で小さく回り、佇まいを直して見せた。まるで少し猶予をやろう、と言っているかのように。
 完全に、侮られている――それに気付いた時、どうにか保っていた冷静さが吹き飛んだ。
「……舐めてんじゃないわよ、ただのでっかい犬のくせに!」
 一気に正面に踏み込み、距離を詰める。まさか自分から飛び込んでくるとは思わなかったのか、獣は僅かに怯んだ様子を見せた。
「もらった!」
 その隙を見逃さず、ルカは下段に構えていた剣を思い切り右の首筋に突き立てた。
 ざくり、と肉を抉る感触が掌に伝わってくる。やがて、耳を塞ぎたくなるような断末魔が闇を震わせた。
 ――仕留めた、と思った。しかし勝利の味を噛み締めていられたのは、ほんの刹那の出来事であった。
 まず理解したのは、両手が剣の柄から離れたことだった。強い遠心力に耐えられず、自分の意思とは無関係な方向へよろめく。程なくしてガシャン、という無機質な音が聞こえた。突き刺した剣ごと、振り払われたのだ。
「嘘でしょう……!?」
 どうにか体勢を立て直したものの、時は既に遅かった。
 唐突に、肩を鋭い痛みが襲う。次いで背中が地面に打ち付けられた。衝撃に激しく噎せ込みながらも目を開けると、眼前にあったのは怒りに燃える四つの漆黒の瞳だった。
 獸にのしかかられ身動きがとれない。反射的に剣を求めた手はただ砂利を掴んだ。愛剣は、彼方の地面に置き去りのまま。
 ――喰われる。
 腹部に走った熱に悲鳴を上げることもできないまま、ルカは補食されることを覚悟した。

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