光と影と 11

 街は、酷い有り様だった。人々は混乱し、叫び、あてもなく逃げ惑う。光の下に溢れ出した“影”達は狩るというより弄ぶかのようにそれを追い立て駆け回っていた。家屋に立てこもって身を守ろうとしても、漆黒の獣は臭いを嗅ぎつけ窓や扉に身体をぶつけ破ってしまう。内側に侵入されては、もうなす術はない。中には武器を携え応戦しようとした者もいたようだが、元々外灯に守られ“影”を目にしたことも無いような人々だ。太刀打ち出来ずに虚しく奴らの腹へ納まってしまうことの方が多かった。
 あまりにも非現実的な状況に身を置き続けると、感覚も麻痺してくるものらしい。ゼキアはそれを身をもって実感していた。妙に冷静に周りを観察している自分に違和感を持ちながらも、ゼキアはルアスと共に動乱の最中を駆けた。貴族街を遡って行くほどに、見える風景の凄惨さが増していく。砕け散った硝子、壊れた馬車、地面に残る血痕。絶え間なく、悲鳴や呻き声が聞こえる。助けてやりたいが、いちいち立ち止まっていては切りがなかった。自分達の道を阻むものだけを切り捨て、元凶たる化け物を目指す。
「いた! あれ!」
 ルアスが声を上げたのは、夜明けに必死に逃げた道を殆ど逆走し終えた辺りのことである。学院からさほど離れてはいない広場で、二人は足を止めた。
 花壇は慎まやかながらも鮮やかに整えられ、中央にある優美な噴水は朝日にきらめく。市民達の憩いの場であった筈のそこも、今や殺戮の舞台と化していた。水を放出していた少女の像は壊されて水は茶色く濁り、花壇は踏み荒らされ、周りは血の臭いが立ち込めていた。微かに聞こえるすすり泣くような人の声と、それを掻き消すような獣の咆哮。砕けた噴水の縁を椅子代わりに“影”が人肉を貪る様を、一人の男が愉快そうに眺めていた。傍らの異形の化け物の前には人間のものと思しき肉片がいくつも転がり、既に食事を楽しんだ後のようだった。
「――やぁ、わざわざ食べられるために出向いてくれたのかい?」
 新たな獲物の登場に気付き、男が顔を上げる。まるで朝の挨拶を交わす時のような、軽い声音だった。それに反比例して言葉は不穏極まりなく、彼の衣服には赤黒いものがこびりついていた。辺りの地面には擦れたような血の跡。
「シェイド……」
 苦しげに、ルアスが呟く。かつての恩師の視線を正面から受け止め、ルアスは一歩前へと進み出た。反射的に引き留めかけたゼキアだったが、ルアスがそれを制する。目線だけで大丈夫、と告げると、再びシェイドに向き直った。
「一応、人の中で暮らしてたのに、よくこんな真似できるね。一緒に研究してた人間だっていたでしょう。あの人達も、殺したの」
 毅然としてルアスは問い掛けた。そこに頼りなさは感じられなかったが、握った拳が微かに震えている。シェイドは肩を竦め、そんなルアスの姿を嘲笑うかのように言った。
「私に情を求めるだけ無駄だよ。これが我々の正義だ」
「少しくらい、良心の呵責とか無いの……エルシュを、殺したことも」
「無いね」
 酷薄な笑みを浮かべながら、シェイドは即答した。ルアスは俯いて唇を噛みしめ、小さく頭を振る。その心中の全てを理解は出来ないだろうが、憤りが苦悶か悲しみか――彼が自分の中で渦巻く感情を制御しようとしていることは分かった。
「言ったはずだよ。最初に奪われたのは我々の方だ。居場所をなくし、虐げられ、人間は自分達に都合のいい神話を作り上げてのうのうと生きている――いつまでもそれを許してなるものか!」
 シェイドは更に捲し立てた。徐々に口調は荒くなり、吐き捨てられた言葉は切実な響きを伴ってゼキアの耳に響いた。どこか掴めない飄々とした雰囲気は影を潜め、漆黒の瞳には明確な憎悪の炎が揺らめいていた。視線が憎しみの矢となって、ルアスを、ゼキアを射抜く。
 シェイドの目的については、道すがらルアスが話してくれた。その動機は今から遥かに遡り、神話の時代の因果であるらしい。現代に生きる者から見れば、あまりにも現実味のない話だ。しかし、もしそれが事実なのだとしたら同情の余地も無くはない。何もかもをなくして、世界への恨み言を吐きながら這いつくばるように生きる――その感情はゼキアにも覚えのあるものだった。だからこそ、シェイドの言う理由が全くの作り話ではないのだと感じていた。
 だが、それとシェイドの行為が許せるかどうかは別の話である。
「だからって、こんなことする必要があると思えないよ」
「ルアスの言う通りだな。神話の時代の話を今に持ち出すなよ。それに、そっちだって散々やってくれてるじゃねぇか」
 ルアスの言葉にすかさず同調する。“影”に家族や友人を奪われた者などごまんといる。今この瞬間においても、奴らは人の命を食らっているのだ。ゼキアの反論にシェイドはふと憎悪の炎を鎮め、失笑した。まるで憐れむかのように。
「では、知りつつ同胞を見殺しろと言うかい? かつて故郷を救えなかった、君のように」
 微かに、顔が引き攣る。どういうわけか知らないが、彼はゼキアの過去を盗み聞きしていたらしい。話を摩り替えるのにそこをつついてくるとは、随分な悪趣味である。たが、こちらも色々と腹を括ってきているのだ。これぐらいで取り乱してはいられない。自分でも不思議なほどに、ゼキアは平静を保っていた。
「生憎、故郷が無くても今大切にしてるものが有るんでね」
 口に出してみて、妙に得心がいく。そう、昔の記憶にに振り回され今あるものを失うなど、本末転倒なのだ。そのためなら、目を背けたかった過去も何もかも抱き込んで、前に進んでみせる。
「あんたみたいなのと一緒にされたくねぇよ……まぁ、話すだけ時間の無駄だな」
 言下に魔力を掌に凝縮し、指先まで巡らせる。ルアスには悪いが、本人が言うようにシェイドに人らしい感情があるとは思えなかった。意志の疎通は不可能だ。
「ああ、私もそう思うよ。そこだけは意見が合った、ね!」
 言い終えるか否かというところで、唐突にシェイドが語気を強める。それを合図にゼキアの足元で黒い影が盛り上がり、太く鋭利な針となってゼキアの腹部を狙った。僅かの差で身を捩って躱し、ルアスを抱えて飛び退く。
「随分と唐突だな、この野郎!」
 すかさず、ゼキアは凝縮した魔力の塊を針に向かって解き放つ。手から離れた瞬間から魔力は膨大な熱量を持ち、影と衝突して凄まじい爆発を起こした。鼓膜が破けそうな程の轟音を伴って、砂埃と火の粉が舞う。その煙幕を目くらましにして、間を置かず蛇のようにうねる触手が眼前に迫る。今度は化け物の方だ。すんでの所で薙払うようにして再び火炎を放つと、触手は灰と化し風に散っていった。
「残念、仕留め損ねた」
「そう簡単にやられるかよ!」
 言い返しながら、攻勢に転じる。瞬時に魔力を練り上げて片手を振るえば、シェイドと異形の化け物は見る間に炎に呑み込まれた。だがそれは彼らの皮膚を焼くことは叶わず、シェイド達は薄い黒の紗によって熱から身を守られていた。
「――くそ!」
 思わず悪態が口をつく。せめてもう少し隙が作れればいいのだが、どうすべきか。
「そうそう、忘れてるようだけどこの子達もいるからね」
 次の手を考える暇もなく、シェイドは周りの獣達をけしかける。各々の獲物を貪っていた筈の“影”の下僕達は、シェイドの一声で一斉に向きを変えて飛びかかった。
 獣達を振り払うように力を振るいながら、ゼキアは密かに舌打ちした。
 やはり、厳しい。覚悟の上でルカに預けたが、愛剣が手元に無いというの想像以上に堪えた。物理的な攻撃手段がもそうだが、ゼキアの剣は魔法具としての役割もある。無くても魔力は使えるがやや安定性に欠け、常以上の集中力が必要だった。強い魔法を使おうとするだけ隙が出来てしまう。出来る限りの炎を叩き込んではいるが、相手は涼しい顔だ。ゼキアの傍でルアスも獣達に応戦するが、元々彼の力は戦闘向きではない。対処できる範囲にも限界があった。考えがある、と言ってはいたが、これでは反撃もままならない。このままでは――。
「……ゼキアっ!」
 焦ったようなルアスの声が耳を打つ。だが、その呼び掛けの意味に気付くのが僅かに遅かった。
 ゼキアが相手取っていた一匹が倒れたのを機に、仲間の屍を飛び越え別の“影”が襲いかかる。完全に不意をつかれた。普段ならいざ知らず、疲労と焦燥で動きの鈍った身体では反応しきれない。獣の強靭な四肢に蹴りつけられ、ゼキアは地面に倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
 振り解こうともがくが、ゼキアが怯んだ一瞬の隙に獣は体勢を整えていた。首筋に生暖かい吐息を感じた。
 ――やられる。
 もはや成す術もない。喉笛を引き裂かれると確信した時だった。
 大きく空を切る音が聞こえた。次いで、鈍い音と甲高い獣の悲鳴。身体を押さえつけていた重みが消えた。辺りでうるさいほどに獣達の咆哮が響く。但しそれは獲物を狩るための鬨の声ではなく、苦悶の呻きだった。
「起きろ、ゼキア。居眠りするにしても場所は選べ」
 己の名を呼ぶ声に、ゼキアは耳を疑った。親が子を諭すような、記憶に染み付いた低い声音。胸の底に押し込んでいた激情が駆り立てられ、同時に郷愁にも似た暖かさが湧き起こる。
 半信半疑のままに身体を起こすと、眼前に何かを突きつけられた。金の土台に、赤い石の埋め込まれた柄、黒く塗られた鞘。ゼキアの剣だった。微かに瞠目したゼキアに、灰髪の騎士は言う。
「剣は己と守る者の命に等しいものだと教えただろう。簡単に手放すな」
 妙に懐かしかった。昔もよくこうやって説教されたものだった。お互い同じことを考えていたのか、男の口元が僅かに綻ぶ。
「……今更来てうるせぇぞオルゼス。仕方ないだろ、こうでもしないとあんたの所の姫さま丸腰で街を突っ切る気だったんだぜ」
 彼が、助けに来た。その事実が嬉しいような、腹が立つような、複雑な気分でゼキアは反論する。
「そうだったな。礼を言う」
「全くだ、感謝しろよ……俺も、助かった」
 内心の葛藤はともかく、救われたのは事実である。最後に小さく付け加えると、ますますオルゼスは笑みを深めた。それが何もかも見透かしているようで、どうにも憎たらしい。
「こんな状況で余裕だな……本当に腹立つ奴」
 奪い取るように剣を受け取り、ゼキアは立ち上がる。刃を抜き、まさに襲いかかる直前だった獣の一体を切り捨てる。刀身から力が逆流してくるようだった。すっかり手に馴染んだ感触に、自然と背筋が伸びる。
 そこでゼキアは初めて周囲の戦況を認識した。純白の制服を身に纏った騎士達が、“影”を相手に善戦している。攻撃の手が緩まったのは彼等のお陰だったらしい。本当に、騎士団が動いたのだ。
「ゼキア! 大丈夫!?」
 慌てて傍に駆け寄って来たのはルアスだった。彼も無事のようだ。大丈夫だ、と声を発しようとして、ゼキアは少年の後ろに立つ人物を見つけて閉口した。
「無事で良かった。流石に私もひやひやしたわ」
「……なんでお前まで戻ってきてるんだよ」
 目的は達したのだから、大人しくしていれば良かったのに。そんなゼキアの呟きに、ルカは不適に微笑み己の愛剣を示した。
「すぐに動かせる騎士は少ないってオルゼスが言うから。戦力は多い方がいいでしょ?」
「どっかで聞いたような台詞だな……」
 ちらりとオルゼスに視線を投げると、彼は軽く肩を竦めて苦笑した。やはり同じような理由を並べ立てて強引に付いてきたのだろう。その光景が目に浮かぶようだ。

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