光と影と 10

 眩しい。隠し通路から抜け出して真っ先に思ったのは、そんな事だった。すっかり暗闇に適応していた瞳に、日の光が痛いほどの刺激となって突き刺さる。何度か目をしばたかせて明るさに慣れてくると、最初に感じたほど陽光は強くなかった。うっすらと朝靄に透ける太陽は未だ低い空にあり、辺りの空気は冷たくて瑞々しい。夜が明け、人々が目覚め始める時間だ。光の恩恵を受け、街には生気が満ち溢れる。その中では“影”もなりを潜める。あの化け物達に常識がどこまで通用するかは分からないが、地下の環境から見ても彼等が暗闇を好むのは間違いない。そう簡単に光の下へ出てはこないだろう。それに、向こうも国民に極秘で作っていた化け物を衆目に晒したくはない筈だ。そのことにささやかな安堵を覚えるが、同時に苦い気持ちも込み上げる。
 後ろめたい、と表現するのが一番正しいだろうか。自分達が化け物から逃れる代わりに、エルシュは犠牲となった。彼女は、断じて自ら進んで食われたわけではない。それでも最期の瞬間までゼキア達を――ルアスを案じていた。未だ幼さを残す歳の少女があんなにも身体を張っていたのに、何もしてやれなかった。悔やんでも悔やみきれない。三人共が少なからず似た思いを抱えているのか、徐々に明るさを増す空を眺める目はどこか別の場所を見ているようだった。
「行こう。いつまでもここにいるわけにもいかない」
 やがて視線を空から地上に戻すと、ゼキアは意を決してそう告げた。沈黙はそのままに、残りの二人もぎこちなく頷く。晴々しいとはとても言えない表情だったが、あえて気付かないふりをした。悲嘆に暮れるのも、憤りに叫ぶのも、全て片付いた後の話だ。そのためにはここを離れなければならない。どうするべきか、という具体的な手段は見当もつかなかったが、敵地のすぐ傍でのんびりしていても良い事などあるはずもない。

 マーシェル学院といえど早朝は人影も疎ら、と思いきや、意外にも敷地内は頻繁に人が行き来していた。なんでも、昨夜裏門側の建物で不審火があり、その後始末で大わらわらしい――通りかかった人々の会話から、ゼキア達はそれを知った。ゼキアが火を放った建物は期待以上に盛大に燃え上がってくれたようで、残骸の片付けやら出火原因の調査で外部の人間の出入りも多かった。これはゼキア達には非常に好都合で、解体作業をする人々に紛れて堂々と学院を脱出することが出来た。そのさなか、軽い怪我人が出た程度で済んだという話を耳に挟み、抱えていた不安の一部が僅かながらも解消された。加減したとは言っても細かい調整などしている暇は無かったので、必要以上の被害が無かったか密かに心配していたのである。
 学院から離れ、這々の体で貴族街を抜ける。あとは目の前にある幅広の階段を下ってしまえば市街地だ。そこまで行って、どうにか落ち着ける場所を探さなくては。そんな事を考えていると、半歩後ろを行くルアスが唐突に膝から崩れ落ちた。
「ルアス!? 大丈夫?」
 ルカの問い掛けに応えようとしたようだったが、ルアスの口からは掠れた吐息が漏れただけだった。呼吸が不規則で荒い。額には冷や汗が浮かび、四肢は小刻みに震えてる。顔色も悪かった。考えてみれば、数日に渡って空気の悪い地下に閉じ込められていたのだ。体調を崩していてもおかしくない。更には目の前でかつての友人を亡くしたのだ。体力的にも、精神的にも参っているはずだ。ここまで気を遣ってやる余裕さえ無かったのが悔やまれる。
「少し休んだ方がいいな。昼間の街中なら、あいつ等もそうそう手出ししてこないだろ」
 とはいえ今すぐ身体を横たえられるような場所はなく、仕方なしに階段に腰を下ろした。足を伸ばせば多少は楽な筈だ。その隣にゼキアも腰掛け、背中をさすってやる。それだけでも多少はましなのか、ルアスの呼吸は少しずつ穏やかなものへと変わっていった。
「……ぼくの、せい」
 ふと、掠れた声が響く。風に紛れてしまいそうなごく小さな呟きは、やけにはっきりとゼキアの耳に届いた。
「ルアス?」
「エルシュは僕を逃がしてくれたのに、僕は全然それを解ってなかった。ううん、もっとずっと前から……もっと早くに気付けてた筈なのに。そしたら、エルシュはあんな事に……」
 とつとつと話す声が、徐々に湿ったものになっていく。途切れ途切れ吐き出す言葉の合間に、嗚咽が混ざり始めていた。声を詰まらせた拍子に、金色の眼から透明な雫が溢れ出す。一度噴き出してしまえば悲しみは留まるところを知らず、涙はとめどなく頬を伝った。
「ごめん。ごめん、なさい……」
 あてもない謝罪を繰り返す背中を、ゼキアはただ黙ってさすり続けることしか出来なかった。気にするな、とは言えない。彼の懺悔も、全くの見当違いというわけでもないのだ。長く、真実に気付けなかったのも事実。だが、ルアスもまた被害者である。到底責められるものではないし――彼を慕っていたエルシュも、それを望まないだろう。
 なじればいいのに、と思う。あの場でエルシュを捨てて行く選択をさせたのはゼキアだ。例え手遅れだったとしても、なぜ捨て置いたのか、それ以前になぜ守ってくれなかったのか――そうやってゼキアを責めておけばいいのだ。きっと多少は気が紛れる。物分かりのいい少年は頑なに自分の事ばかりを非難し続けた。その傍らで、ゼキアはぼんやりと己の過去を思い出す。全て失った時の自分はどうだっただろうか。あの日のゼキアより、ルアスの方がよほど己を律しているように思えた。だが、華奢な身体に憤りと悲しみを抱え込んでしまった姿は、あまりにも痛々しい。
「……これから、どうするの?」
 静かに嗚咽だけが響く中、沈黙を破ったのはルカだった。今後の身の振り方についてである。目的であったルアスの救出はとりあえず成し遂げた。しかし、これでめでたしめでたしというわけではない。ひとまず敵を撒くことに成功したものの、問題の化け物は健在なのである。再び狙われるのは必至だった。
「さぁ……どうするかな。見当もつかねぇ」
 あやふやな返答にルカが僅かに眉を顰めたが、これが正直な所だった。
 家には、もう戻れない。シェイドに既に目を付けていたし、レオナや他の住人達まで巻き込んでしまう。安寧を得ようと思うなら、そもそもの元凶を排除するしかない。しかし、あの化け物達にどんな手が打てるだろうか。シェイドは人と同じように知恵を持ち思考するし、長年魔力を溜め込んで肥大化した“影”は見たこともないほど強力だ。自分達だけで対抗出来るのかは疑わしい。ならば、どこかへ助けを求めるか――そう考えかけて、ゼキアは頭を振る。この街の誰が手をさしのべてくれるというのだろう。本来助けてくれるはずの組織は、どこまでも腐っている。他の街に縋るにしても、どこも状況は似たようなものだ。
「……当面は逃げるしかないな。お前はどこかあてがあるのか」
「……私、は」
 はぐらかすように質問で返すと、ルカもまた口篭った。その瞬間、言うべき台詞ではなかったとゼキアは後悔する。恐らく、自分以上に行くあてが無いのはルカの方だ。立場を無視してルアスを助けようと無茶をし、王城の周辺は敵だらけである。元々騎士に追われていた上に、王は死んでしまった。弑逆の濡れ衣を着せられかねない。事情を話したところで分かってくれる相手でもないだろう。勿論、シェイドに狙われる可能性も残ったままだ。
「……あー、今のは」
 悪かった、と言おうとしたまさにその時、突如として轟音が響き渡った。雷鳴にも似たそれは辺りを押し潰すように空気を震わせ、地面はそれに呼応するように身体を震わせた。次いで、切り裂くような誰かの悲鳴。そう遠い場所ではない。
「おい、まさか――!」
 地震だろうか、という甘い考えは一瞬のうちに捨てた。尋常な事態ではないと直感で悟る。あまり考えたくはなかったが、恐らく自分達に関わることだ。
 俄かに立ち上がって階段を駆け上り、来た道を振り返る。今いる場所からでも、マーシェル学院の姿の一部を望むことができた。その上空に、細く灰色の煙が立ち上っていた。火事か、と一瞬頭によぎり、すぐにそれを否定する。少なくとも、昨夜のものに関しては火は消し止められていた筈だ。それに、あの轟音は。
「なんか、嫌な予感」
 同じ光景を見たルカも顔をしかめた。少し遅れて、ルアスも立ち上がった。まだ目は赤かったが、どうにか涙は止まったようだ。
「……あの化け物が暴れ出した、とか?」
 ぽつりと呟いたルアスに言葉を返す者はおらず、三人共が口を閉ざし最悪の事態を想像した。
 街は、既に明るい。爽やかな朝を打ち壊した轟音に、皆が何事かと首を巡らせていた。市場に荷を運ぶ商売人や、朝の空気を楽しみながら散歩する人々の姿も少なからず見受けられる。もしあの異形の“影”が光を恐れず、地下から抜け出し街で暴れようものなら――恐ろしい、ことになる。
「う、うわぁあああ!」
 確信を得るより先に、再び叫び声が響いた。今度はすぐ近くだ。大事そうに荷を背負っていた商人がそれを取り落とさんばかりに慌てふためき、驚愕に目を見開いていた。視線の先には、予想に違わず暗闇の化身が闊歩していた。漆黒を固めたような、獰猛に喉を鳴らす獣。狼にも似たそれは、今にも獲物に飛びかかろうと牙を剥いていた。
「“影”……! くそ、こんな時間だってのに!」
 咄嗟に駆け寄り、漆黒の獣を切り捨てる。剣は意外にもあっさりと敵を葬り、“影”は塵へと返っていった。襲われていた男は助かったと見るや一目散に逃げていったが、間髪入れずにまた別の悲鳴が上がる。一匹だけではない。辺りを見渡してみれば、似たような獣が街中に散在し、それぞれの獲物を見定め目を光らせていた。通行人達もその姿に気付き、方々で声が上がる。ただでさえ市街地の住人は“影”を見たこともないという人間が多い。それが日の高い街中に出現したとあって、余計に恐慌状態に陥っていた。混乱が混乱を呼び、恐怖は瞬く間に伝播していく。
「冗談はよしてくれ……」
 シェイドが動いた。もはや疑う余地もなかった。地下で獣の姿をした“影”は見かけた記憶がないが、あれだけおぞましい気配に満ちた場所だ。何を飼っていてもおかしくない。それが今、街に噴出しているのだ。
「ゼキア!」
 張り詰めた声で名を呼ばれ背後を振り向くと、今まさに自分に襲い掛かろうとしている“影”の姿があった。半身を捻ってかわし、先程と同じ様に一太刀で斬り伏せる。
 ――どうする。
 他の個体からの攻撃に備えながらも、ゼキアは必死で思考を巡らせた。向こうがどんな手段を使ってくるのかは分からないが、ルアスを狙ってくるのは確実だ。ひとまず彼を安全な場所に隠すべきだろうか。幸い街に溢れ出した獣はさほど強くはなく、単体ずつなら相手にしながら駆け抜けられないこともない。だが、囲まれてしまえば終わりだ。それに安全な場所など、どこにあるというのか。光を恐れないというなら、イフェスは“影”共の手に落ちたも同然だ。ならばいっそ、イフェスを出るか。
 己の考えに、ゼキアは舌打ちする。仮にルアスを守って逃げおおせたところで、街にいる人々はどうなる。今はこの周辺だけだったとしても、今に“影”は街中に散らばっていくだろう。イフェスに暮らしているのは憎たらしい富裕層の人間ばかりではないのだ。貧民街にいるレオナやネルやルピ――家族のような人々を、見捨てて行くのか。エルシュも守れず、彼らのことも犠牲にするのか。
「……ゼキア、あの“影”なんだけど」
 不毛な思考の奔流をせき止めたのは、ルアスの声だった。我に返って振り返ると、暴れる“影”を見据えるルアスの横顔が目に入る。意外なほどにその口調はしっかりしており、金の瞳は何かを吹っ切ったように強い光を宿していた。憔悴の色はまだ残っていたが、既に鬱屈とした影はなりを潜めている。
「多分、あの化け物が生み出してるんだと思う。漏れ出してる黒い靄が“影”の形になっていくのを見たから」
「そんなこと出来るのかよ……なら、あれは無尽蔵か?」
 ルアスの証言に、応える声が思わず上擦った。対してルアスの方は至って冷静で、ゼキアの疑問に緩やかに頭を振る。
「そこまでは分からないけど、あの化け物を倒してしまえば街に出て来た“影”も消えると思う」
「……って言ってもどうする? 向こうは魔法の炎でも焼けないし、手下を使いたい放題なわけだろ」
 無闇に突っ込んでいっても、返り討ちが関の山だ。じっくり策を練っている時間もない。しかし、及び腰のゼキアを叱咤するかのようにルアスは言った。
「だからって、このまま放っとけないでしょ。……それに、考えがあるんだ。逃げてばかりいられないよ」
 静かに、しかしはっきりとルアスは断言した。引き下がる気は毛頭ない、と言外に告げているようだった。こうまで言われてはゼキアも立つ瀬がない。これでは自分がただの臆病者のようだ。
 ――否、正しくそうなのかもしれない。先程から情けない発言ばかりしている。ほんの少し前まで悲嘆に暮れていた少年の方が、よほど勇敢に思えた。
「……向こうはお前のこと殺そうとしてるんだぞ」
「分かってる。あっちが見つけてくれれば手間が少なくていいじゃない。シェイドにも色々言ってやりたいしね。それに、ゼキアもいるでしょ?」
 少々面食らって、ゼキアは一瞬の間を置いて息を吐いた。そうするのも辛いであろうに、ルアスは無理に軽口を叩く。しかし付け加えられた台詞は全幅の信頼を意味するものに他ならず、それを無視することなどゼキアには出来なかった。何より、この状況を放って置けないのは変え難い事実である。
「……仕方ねぇな、付き合うよ。お前にばっかり格好つけられるのも癪だしな」
 言いながら軽く肩を小突くと、ルアスは微かに微笑んだ。逃げたところで状況は悪化するばかり、ならば無茶を承知で抗うべきだ。ゼキアも、ようやくそう結論付けた。何より、ルアスが信頼してくれているのだから自分も彼を信じるべきだと思った。進めば、道も見えてくるだろう。
「……私は、騎士団が動くように掛け合ってくる」
 話が纏まるのを見計らったように口を開いたルカを、思わずゼキアは凝視する。確かに、それが叶えば一番いいに決まっているが――。
「奴らが動くと思うか?」
「町の住民を守る人が必要でしょう。流石に私達の手には余るもの。動いてもらわなくちゃ困るわよ」
 ルカはそう言い切ったが、ゼキアとしてはそれを疑わざるを得なかった。彼等が下々をどのように見ていたか、かつてその人々の危機にどのような行動をしたのか――身をもって知っている。城下の者など見殺しにして、己の身の保身に走る姿が容易に想像できた。なんなら、火事場泥棒よろしく金目の物を持ち出して遁走するかもしれない。
 そんなゼキアの思考を見透かしたように、ルカは更に言い募る。
「レミアス王は死んだわ。一応、その次の位にいるのは私よ。城の大臣なんかは私が何を言ったところで聞く耳持たないでしょうけど……オルゼスなら」
 不意に彼女が口にした名前に、微かに胸の奥が疼いた。遠い日にゼキアを救い、そして深い傷跡を残していった男だ。彼なら……この状況をどうするだろうか。
「お父様はオルゼスのことを随分煙たがってた。色々嫌がらせとか、圧力もあって思うように出来ないことも多かったみたいだけど……でも、もう王はいないもの」
 王女の言葉の下になら、オルゼスも己の心に従って動けるはずだ。そう、ルカは言う。彼は変わっていないのだろうか。大切な人を守るために騎士になれと、そう言ってくれたあの日から。
「……あんまり期待しねぇで待ってるよ」
 ひとつ、溜め息を吐き、ゼキアは郷愁を打ち払った。騎士団が動くにしろ動かないにしろ、やるべきことは変わらない。正しく現状を把握しているのは自分達だけなのだ。そう思考を切り替えると、ゼキアはおもむろに自分の剣を鞘に納め、ルカに差し出した。
「持って行け。丸腰じゃ、騎士の詰め所に着く前に食われるぞ」
「……貴方は?」
「俺は魔法が使える」
 有無を言わせずに剣を押し付け、踵を返す。そのままルアスに声を掛けようとして、ふと思い立ってルカを振り返る。
「そうだ、オルゼスに言っといてくれ。次に馬鹿な真似するようなら、今度こそその剣返上してぶっ飛ばすって」
 それを聞いたルカは一瞬きょとんとして目をしばたかせると、小さく噴き出した。
「分かった。じゃあ、後でね」
「ああ、生きてたらな」
「ルカ、気をつけてね」
 視線を交わして頷き合うと、それぞれが向かう場所へと駆け出した。風を受けて走り抜けるほどに、不思議と胸に溜まっていた澱が消えていくような気がした。

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