Prologue

 何かが壊れる音を、確かに聞いた。聴覚ではなく、身体の奥深く、自身ですら触れることのできない不可視の繋がりがそれを捉えていた。何かが起ころうとしている。いや。もう起きてしまったのかもしれない。微かな胸騒ぎを抑えながら扉を開き、歩を速める。果たしてその予感は的中していた。
「ああ……やはり」
 呆然と見上げた先にあるのは、巨大な結晶である。青と緑が淡く混じりあった水晶のようなそれは、聖堂の最奥を一面覆いつくし瀑布のごとき存在感を放っていた。不自然なのはちょうど中央に位置する箇所だ。真っ直ぐに伸びた結晶の流れを遮るように、人間ひとり分ほどの穴が開いている。まるで、その部分だけをむりやり抉り取ったかのようだ。
「奪われた」
 呟きながら、穴の縁を撫でる。脆くなっていたのか、薄い破片が足元に落ちて砕け散った。床には同じような欠片が散乱している。意図的に踏み砕かれたように、或いは自然に崩れ落ちたように、哀れなほど粉々になっていた。まるでこの場所の結末を暗に示しているようだった。このまま事態を放置すれば、ここにある全ては塵と化すだろう。結晶はあくまで支えるものであり、外殻だ。『核』がなければ意味を成さない。その核が今誰の手にあるのか――ある程度対象は絞れるだろうが、自分の手で取り戻すことは難しいだろう。
「これ、どうするの」
 不意に、自分以外の声が聞こえた。振り返った先にいつの間にか立っていたのは、自分の片割れだった。同じ感覚を得てやってきたのだろう。自分達の在り方そのものに関わることだ。空白を見つめてばかりの彼女といえど無視は出来なかったようだ。だが関心があるのかどうかとは別のようで、その瞳には焦燥も怒りも浮かんではいなかった。それはそうだろう、思う。自分もまた、似たような表情をしているに違いないのだ。覇気のない、諦念に満ちた眼で、自らのさだめを見据えている。
「そうね……」
 曖昧に応じながら、周囲を見渡す。世界の楔ともいえる巨大な結晶。それが安置されているのは祈りの場だ。整然と立ち並ぶ円柱は細かな彫刻が施され、天井や壁の装飾も色褪せることはない。色硝子の窓からは緩やかに光が注がれ、静かに辺りを照らし出す。訪れる人々を厳かに受け入れる空間だった。しかしもう昔の話だ。いくら美しいままの形を保っても、祈る人はいない。ここは時に置き去りにされ、忘れられた場所だ。遅かれ早かれ朽ちていく。自分達も末路を共にすることになるだろう。結晶の核が戻らなかったところで、少々時期が早まっていくらか形が変わるだけだ。ならば、答えは決まっている。
「どうにもならないし、する必要も感じない。私達は今まで通り過ごして……終わりを、待つだけよ」
 そう告げて踵を返すと、ほどなくして片割れも後に続いた。世界の秩序は破綻した。それを修復せしめんとする者が現れるのか――そんな人間がいたとして、この世界の真実に何を思うのか。それも全て、どうでもいいことだった。

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