小さな炎 1

 厳かな空気の漂う空間に、二人の男がいた。いや、一人は少年と言うべきだろうか。段上の玉座に向かって膝を折り、深々と頭を下げていた。果たして、彼がそうしてどれほど経っただろうか。少年は決して体勢を崩さなかった。肩口で揃えられた黒髪が、僅かに揺れることさえない。
「……もう一度、訊こう」
 顎髭を撫でながら、エル・メレク王ユーグは重々しく口を開いた。
「ユイエステルよ。旅に出るというのは、まことか?」
「はい」
 ユイエステルと呼ばれた少年は、躊躇うことなくはっきりとそう答えた。ユーグの唇から、何度目かの深い溜め息が零れる。
「……何もお前が行く必要はないだろう。神殿の協力を仰いで、臣下達に任せればよい」
「いいえ、私が行かねばならないのです」
 十代半ばにしか見えない外見に似合わぬ程に落ち着いた、しかし強い口調でユイエステルは言い切った。そしてようやく顔を上げると、青玉の瞳で玉座を見据える。理知的で強い意志を宿したその眼は、玉座の王と酷似していた。
「この件が人間の手に余るものだということぐらい、陛下も既にお気付きでしょう。精霊達に助力を乞うのに、私ほどの適任者が他におりますでしょうか?」
 淀みなく、ユイエステルは更にこう続けた。
「聡明な陛下のことです、私などが進言するまでもなく“精霊王”に拝謁することを考えるでしょう……ですがそのようなことは耳に入ってきません。もしや、上手く事が運んでいないのでは?」
 ――まったく、その通りであった。彼が知っては何を言い出すかわからぬと箝口令を敷いたものの、無駄な徒労に終わったようだ。ユイエステルの見立ては正しい。何度も使者を遣り、ユーグ自身が神殿を訪ねたこともあったが、未だに芳しい成果は上げられていなかった。相手は神にも等しいとされ、そもそも人の前に姿を現すことは滅多とないという存在だ。ただの人間がそう易々と接触できるはずもないのは、解りきったことだった。かといって、簡単に断念するわけにもいかぬ現状がある。少しでも可能性があるのなら縋りたい。
 その点では、確かにユイエステルは適任と言えた。エル・メレクの頂点にある血族であり、“精霊の声を聞く者”である彼ならば、或いは。しかし、ユーグは素直に頷けずにいた。
「……私はお前の身体を心配しておるのだ」
 絞り出すようにそう言うと、ユイエステルは穏やかに微笑んだ。
「確かに、私の身体はいつ朽ちるとも知れません。ですが、だからこそ今のうちに出来ることをしたいのです」
 事も無げに言ってのけるユイエステルに、ユーグは溜め息を吐くことしか出来なかった。心配する方の身にもなって欲しい。そんなユーグの胸中を察してか、ユイエステルは付け加えるように言った。
「それに、何も私一人で全て解決しようとは思っていません。フェルレイアを訪ねようと思っています」
 フェルレイア、という名を聞き、ユーグは一人の少女を思い浮かべる。
「……“聖女”か。彼女ならば確かに力になってくれるだろうが……」
 言葉を濁しながら、眼前の少年を見遣る。その眼差しに、揺らぎはない――とうとうユーグは自分が折れることを決めた。
「――分かった。どうせこれ以上言ったところで聞かぬだろうしな。頑固は誰に似たのやら……」
 顔を覆って嘆く王に、まるで面白がるかのようにユイエステルは告げる。
「それは私が間違いなく貴方の子ということですよ、父上」
 ――こうして病中の王子ユイエステルは、強引に旅の許可を取り付けたのである。

   ※

「……さて」
 自室に戻って早々に旅支度を整え、ユイエステルは息をついた。旅といっても、大した荷物はない。身軽な方が良いのだ。出立は明日にした。それを告げるとやはり王は目を丸くしていたが、善は急げと言うではないか。どうせ城に留まっていたところで出来ることは何もない。何か仕事をしたくとも、臣下達がそれを許してくれなかった。身体を気遣ってくれての事とは理解しているが、いつまでもその状態が続くのには堪えかねる。城を離れて自分が動くことに、躊躇はなかった。
 とはいえ、当分戻ることがないと思えば寂寥感もあった。ユイエステルは名残惜しむように自分の部屋を見渡した。落ち着いた雰囲気で統一された調度品、異国の風景を描いたという絵画、踏み締める感触の心地よい絨毯。さして部屋の装いになど頓着しないユイエステルだったが、見栄を張るのも王族の仕事なのだと、どれも周囲の人間が整えたものだった。世話焼きで心配性な使用人たちとも暫しお別れである。今回の出立を知ったら皆は驚くだろうか、慌てるだろうか。特に長年の従者である青年などは、顔を真っ赤にして説教を始めそうである――そこまで思いを巡らせたところで、ユイエステルの思考は中断された。
「――殿下! いったいどういうことです!」
 けたたましい怒号と共に、壊れそうな音を立ててドアが開いた。突如として現れた乱入者は、息を切らしながらユイエステルを睨み付ける。千し草の色の短い髪に、銀縁の眼鏡の奥にある神経質そうな栗色の瞳。まさに、たった今思い描いていた彼の従者だった。
「……やぁ、ティムト。そんなに慌ててどうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃありません! 旅に出るというのは本当ですか!?」
 ティムトはずかずかとユイエステルに詰め寄ると、勢いのままに捲し立てる。予想通りすぎる反応である。
「さぁ、なんのことだ?」
「……殿下、その荷物はなんです?」
 しらを切ってはみたものの、背後にある旅の荷物を見逃す彼ではなかった。最後まで誤魔化しきれるとは思っていなかったが、せめて出発までどこかに隠しておけば良かったかもしれない。
「……一応、父上には口止めしておいたんだがなぁ」
 どこで耳にしたものやら、この青年は存外に早くその情報を掴んでいたらしい。流石に長年ユイエステルの従者を務めるだけのことはある。
「伊達に貴方の従者をやっているわけではありませんので。本当なんですね?」
「そうだな」
 開き直ったように、あっけらかんとユイエステルは答える。こうなっては隠そうとするだけ無駄である。その態度が逆にティムトの癪に障ったらしく、ついに彼は爆発した。
「……こんの馬鹿王子! お前は自分の現状だとか立場だとか考えてんのか!?」
 もはや敬語を使うことさえ忘れたティムトは、青筋を立ててユイエステルの胸ぐらを掴むとがくがくと揺さぶった。一応先程までは王子と従者の体裁を保とうとしていたようだったが、完全に地が出ている。なけなしの敬意もどこかへ吹き飛んだらしい。
「わかった、わかったから取り敢えず手を離せ! 不敬罪だぞ?」
「これっぽっちもそんなこと想ってないくせに、よく言うな」
 それはそうだ。ティムトはユイエステルの従者であるのと同時に、幼馴染みであり、大切な友人なのだから。むしろ変に畏まるなと頼んでいるのはユイエステルの方だった。公の場でこそ丁寧な態度を崩さないものの、普段のやり取りなどこんなものである。
「……大体の話は聞いたがな」
 幾ばくかの沈黙の後、ティムトはようやく手を離した。かといって、怒りが治まったわけではなさそうだ。眉間には随分と深い皺が刻まれている。
「だったら今更説明しなくても大丈夫だろう? そういうことだ」
「それで納得すると思ってんのか?」
 再度、栗色の眼がじろりとユイエステルを睨む。その視線がティムトの苛立ちと憤りを鮮明に物語っていた。ただ、そこに憂慮の色が滲んでいることにユイエステルは気付いていた――彼が自分の身を案じてくれていることは、充分に理解しているつもりだ。
「……自分の身体のことくらい分かる。体力が有り余ってあるくらいだ。心配ないよ」
 ティムトの言わんとするところを先回りすると、みるみる彼の表情が曇っていくのが分かった。その様子に申し訳なさが募るが、こればかりは自分の主張を曲げるつもりはなかった。
「一度倒れただろうが」
「最初だけだ。それに随分と前の話じゃないか。お前は大袈裟すぎる」
「何が大袈裟なものか! 万が一の事があったらどうする!?」
 堪り兼ねたように、ティムトは声を荒げた。ただ憤慨するのではなく、どこか悲痛さを含む物言いだった。これではまるで自分が死出の旅に向かうようだ――この身を蝕む病を思えば、違うとも言い切れないのが辛いところである。
「……ティムト。クロック症候群は、私だけではないんだ」
 ユイエステルが口にした単語に、ティムトの顔が強張るのが分かった。
 クロック症候群。今エル・メレクを脅かし、人々の心に影を落としている元凶である。身体が急速に老いる、或いは若返る奇病で、発症すれば例外なく死に至る。最初に患者が見つかったのは、三年程前のことだった。始めは国内に数人確認するだけだったものが、ここ一年で爆発的に発症者が増加し、看過出来ないものとなっていた。しかし原因も治療法も、未だに明らかになっていない。
「多くの民が蔓延する奇病に怯え、計り知れない不安を抱えている。それを解決するのに、のんびりしている訳にはいかないだろう。そのための条件が私に揃っているのだから」
 クロック症候群は、人の手に負えるものではない。それが医師や国政に携わる者達が出した答えだった。ならば精霊に救いを求めるしかない。ユイエステルには、そのための力が備わっていた。幸い自身の症状の進行は緩やかだ。外見は十ほど幼く見えるものの、身体的な問題はない。ならばどうして行動せずにいられようか。
 それに、とユイエステルは付け加える。
「俺だって死にたい訳じゃない。黙って治療法が見つかるのを待つより、自分で解決策を探した方が早そうだから行くんだよ。お前だって早く解決した方が心配の種が減るだろう?」
 暫しの間、沈黙が流れた。ティムトは頷くことも首を振ることもしない。短くはない付き合いだ。ユイエステルが引かないことくらい、彼も分かるだろう。それでも何か言わずにはいられない程度には心配してくれているのだ。毒づきながらもユイエステルを気遣うのは、昔から変わらない。
「――だったら」
 やがて、ティムトが重々しく口を開いた。
「だったら、俺も」
「却下だ」
 全てを聞き終える前に、ユイエステルは言葉を遮った。聞かずとも何を言おうとしたかは解る。
「……まだ言ってないだろ」
「連れて行けって言うんだろう? 身分を隠していくのに、仰々しく従者なんぞ連れて歩けるか」
 ユイエステルがクロック症候群であるという事実は、公には伏せられている。王位継承者が不治の病とあっては、民衆の不安を無駄に煽ることになるからだ。勿論いつまでも隠し通せるものではないだろうが、今の姿で“王子”が街をうろつこうものなら全て水の泡である。一人で行く、というのは王も渋っていた点だったが、最終的には了承済みだ。
「それに、俺が休んでいる分の仕事を回しているのはお前だろう。居なくなられては皆が困る」
 ユイエステルの仕事を支障がでないように手配しているのは、他でもない彼である。決して少ないとは言い難い量だ。ただでさえ臣下に負担をかけているのに、ティムトが居なくなっては彼らは更に悲鳴を上げる事となってしまう。
「そういうことだから、留守の間よろしく頼むぞ」
 そう締め括ってから改めてティムトを見るが、俯いていて表情はよくわからない。ただ、握りしめた拳が微かに震えているように見えた。
「――もう好きにしろ! いっそのこと帰ってくるな馬鹿王子!」
 ティムト唐突にそう叫んだかと思うと、何かをユイエステルに投げ付けて背を向けた。飛んできたものを咄嗟に受け止めると、なにやら布が折り畳まれたようなものだった。
「おい、ティムト――」
「定時連絡はちゃんと寄越せよ!!」
 帰ってくるなというわりには矛盾したような台詞を吐き捨て、ティムトは肩をいからせながらユイエステルの部屋を後にした。残されたユイエステルは、ティムトが去っていった扉を眺め呆然とするばかりであった。
「……そういえば何を投げていったんだ、あいつは」
 ふと我に返り、ティムトが投げつけた布を見つめる。広げると、どうやら旅用の外套のようだった。よく見ると、襟元には旅の安全を祈る紋様が描かれている。それに気付いた瞬間、思わずユイエステルは吹き出した。罵ると見せかけた激励だったということなのだろう。そう解釈しておくことにする。
「早々に解決して戻らねばならないな。心配性な従者のためにも」
 準備していた荷物と共に外套を置き、ユイエステルは明日からの旅に思いを馳せた。

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