小さな炎 3

 瞼を開いた瞬間、ユイエステルは困惑した。目を覚ました場所が、あまりにも想像と違っていたからだ。
 屋内なのは、解った。己の身体か横たわる床には赤地に金の刺繍がされた絨毯、部屋に置かれた華やかな装飾の調度品。そこそこ身分のある貴族の屋敷、といった印象である。確か自分は神殿の外壁近くで気を失った筈だ。ならば気絶したその場で目覚めるか、そうでなけれは神殿の中へ運ばれているものだと思っていたが、一体ここは何処なのだろうか。
 そして何よりユイエステルを戸惑わせたのは、真上から突き刺さる冷ややかな視線だった。
「ねぇ、あんた誰?」
 その声を発したのは、ユイエステルの傍らに立つ少女だった。首筋を流れる銀髪は青味を帯び、大きな青紫の瞳は驚くほど透き通っている。あまり見かけない、不思議な色合いだった。幼さを残した顔立ちは、ふわりと微笑めばさぞ愛らしいだろう。フリルをふんだんにあしらった純白の衣装も、彼女の魅力を引き立てている。しかしその容姿とは裏腹に、ユイエステルを見つめる眼差しはまるで氷のようだった。
「私、は」
 状況が全く解らなかった。ひとまず身体を起こし口を開いてはみたものの、言葉が続かない。少女の様子からして、倒れていたところを助けてくれたという訳でもないらしい。ならばユイエステルを害するために連れてきたのかというと、恐らくそれも違う。貴族の中にはユイエステルを邪魔に思う者も居なくはないが、それならばわざわざ『誰だ』と問いかける必要もない。ますます混乱してきたところで、新たな人物がその場に現れた。
「メネ、どうしたの」
 声のした方向を振り向くと、そこには灰色のドレスを纏う淑女が居た。こちらは濡れ羽色の短い髪に、深みのある赤紫の瞳だ。扉を開く所作さえ洗練され、優美で落ち着いた印象を受ける。色彩も雰囲気も、まるで少女と対になるかのように正反対だった。
「ノヴァ」
 メネ、と呼ばれた少女が黒髪の女性に駆け寄り、その腕にしがみつく。どうやらこちらの女性の名前はノヴァというらしい。
「ねぇ、あれ誰?」
 そう言ってメネが指差したのは、紛れもなくユイエステルだった。そんなものは此方が訊きたいところだったが、どうやらこの場所にある異物は自分側のようだ。ユイエステルとて女性相手に不覚を取る程か弱くないが、下手な言動は慎んだ方が無難である。
「あれ?」
 ノヴァの視線が、メネの指先が示す方へと向けられる。赤紫の瞳に、静かにユイエステルの姿が映し出された。その瞬間、なぜか硬直したように身体が動かなくなった。全身が緊張に強張り、呼吸さえ難しく思える。敵意や悪意は感じられない。しかし周囲の空気を従えるような、見る者にじわりと畏怖を与えるような――人にあらざる存在を目の前にしているようだった。そう、例えば、精霊と対峙した時の感覚に酷似している。
「……漂流物でしょう。人間とは珍しいけれど」
 ノヴァの目が逸らされるのと同時に、ユイエステルは全身の力が抜けていくのを感じた。どうやら、自分は害の無いものと認識されたようだ。
「時柱(ジチュウ)じゃないの?」
「いいえ、違うわ。確かに精霊の気配はするけれど、違う」
 なんだ、とメネはつまらなさそうにそっぽを向いた。ユイエステルの事を話している筈なのに、本人は完全に蚊帳の外である。聞き慣れない単語があったが、なんなのだろうか。そもそも、最初から謎だらけなのだ。場所も、時間も、彼女達のことも、ユイエステルは何一つ現状を把握できないでいる。
「貴女達は、いったい」
 何者なのか、という問い掛けは、ノヴァによって封じられた。
「知る必要はないわ」
 そう言いながら、ノヴァはおもむろにユイエステルに向けて手を翳した。その瞬間、ユイエステルの視界がぐにゃりと歪む。
「早々に帰ることね、ユイエステル・メレク。時の歪みを抱える人間に、此処の空気は良くないわ」
 ノヴァの言葉に、ユイエステルは瞠目した。
「待て! なぜ私の名を知って――」
 その叫びも虚しく、周囲の景色は変形し、遠ざかる――やがて世界が暗転し、ユイエステルは意識を手放すことを強制されたのである。

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