小さな炎 2

 目的地であるルーナの街は、王都から馬車を乗り継いで約二日ほどの所にある。幸いにして天候もよく、途中で足止めを喰らうこともせずに済みそうだった。これならば当初の予定通りに着けるだろうと、ユイエステルは安堵の息をつく。窮屈な乗り合い馬車から眺める景色は穏やかだ。街道は完璧に整備されているし、盗賊の被害なども聞かない。 時々魔物の出没はあるようだが、普段からの堅実な対策のお陰で大事には至っていないようだ。 現王の善政が国の隅々まで行き届いているのが分かる風景だった。
「坊やは、どこまで行くんだい?」
 なんの脈絡もなくユイエステルに話しかけてきたのは、隣の席に座る老婆だった。次の街に着くまでの暇潰し、といったところだろうか。
「ルーナの街まで。神殿に行くんですよ」
 本来なら坊やという歳でもないのだが、という思いはさておき、ユイエステルは老婆の暇潰しに応じることにした。流れていく街道を眺めるのにも飽き始めていたのである。
「あぁ、お参りかい? 私も精霊様にお祈りしにいこうかねぇ。最近腰痛が酷くて」
 そうなんですか、と老婆のぼやきに適当な相槌を打ちながら、ユイエステルは“精霊様”という言葉を噛み締めていた。微かに違和感のようなものがあるのは、恐らく自分の感覚と一般的な“精霊様”の認識に差があるからなのだろう。
 およそ八百年前の大陸統一戦争以降、エル・メレクは精霊信仰のもとに繁栄してきた。精霊は創造神によって生み出された世界の礎であり、全ての力の源である。ありとあらゆるものに精霊は宿り、世界を支えている。エル・メレクの人間なら誰もが知っている事だった。中でも地・水・炎・風の精霊は根源精霊と呼ばれ、各地に神殿が作られ人々の信仰の拠り所となっている。これから向かうルーナの街にあるのは、炎の神殿の総本山だ。そこに行くと言えば、老婆の言うように祈りを捧げに行くと思うのが普通だろう。人々にとって精霊とは神とほぼ同義であり、別世界にあるとも思えるほど遠い存在なのだ。
 ――しかし、そうではない人間もごく一部に存在した。精霊の姿をその目に映し、その存在を感じ取る力を持つ者がいる。精霊の声を聴く者――俗に“エレメンティア”と呼ばれる人々に限っては、精霊を身近なものとして捉えていた。それぞれに力の差はあれどエレメンティアは例外なく敬われ、神殿で高い地位を持つ者も多い。
 ユイエステルもまた、エレメンティアの一人であった。王の嫡子であり、“精霊の声を聴く者”である。エレメンティアの存在自体が希少である上、これはエル・メレクの歴史の中でも片手で数えられるほどにしか前例がない。だからこそ、自分なら“精霊王”に相見えることが出来ると考えたのである。確証があるわけではない。それでもやらねばならない。それが自分の務めなのだ。
「あら、着いたみたいねぇ」
 馬が嘶(いなな)き、馬車の振動が止んだ。老婆の話を聞き流すうちに、目的地へ到着したらしい。
「ごめんなさいね、たくさん喋っちゃって。気を付けてね」
「ええ。ご婦人も」
 ユイエステルは馬車を降りると早々に老婆に別れを告げ、ルーナの街を歩き出した。あの老婆も、たまたま声をかけた少年が本気で“精霊様”に会いに行くとは思わないであろう。
 ルーナは王都メレクに次いで大きな街だ。炎の神殿のお膝元というだけあって、街は参拝客で賑わっている。ただ、華やかな雰囲気の王都とは違い、ルーナはどこか厳粛な印象を受けた。白を基調とした街並みと、人々の信仰心が作り出す空気ゆえだろうか。
「……懐かしいな。こうやって歩くのは久しぶりだ」
 辺りを眺めながら、ユイエステルは呟いた。一時のことではあるが、ユイエステルもこの街で過ごしていたことがある。十を過ぎたかどうかの年頃だっただろうか。エレメンティアとしての在り方を学ぶという名目で、神殿で生活していたのである。聖女フェルレイアと知り合ったのもその頃の話だ。昔と比べて彼女と話す機会も随分と減ったが、元気にしているだろうか――今の自分の姿を見て、なんと言うだろうか。
 ユイエステルがクロック症候群であることは、当然神殿の関係者にも伏せられたままだ。久方ぶりに会うフェルレイアがそれを知る由もない。なんと説明したものやら――そんなことを思案するうちに、いつの間にか神殿の門は目前にあった。
「すまない、王都からの遣いの者なのだが、大司教殿にお会い出来るだろうか」
 礼拝堂に向かう人々の流れから外れ、門番に声をかける。彼は不審そうにユイエステルを見つめていたが、一通の封筒を手渡すと顔色を変えた。
「お待ちを」
 短く言葉を残し、門番は慌てた様子で神殿へと駆けていった。驚くのも無理はない。封筒に押されている白百合と牡鹿の刻印は、紛れもなく王家のものだ。まさかそんな物を渡されるものとは思いもしなかったのだろう。更には手渡した本人が王子である知れば、彼はとても心穏やかではいられなかった筈である。
 門番の背中を見送ると、ユイエステルは眼前に聳え立つ神殿を見上げた。白亜の壁に覆われた荘厳な出で立ちは、ユイエステルが過ごしていた頃と何ら変わらなかった。炎の精霊を模した像も、人々が出入りする礼拝堂も、その姿を保ち続けている。郷愁が込み上げてくるのに任せて周囲を見渡していると、ふと外壁に見慣れないものを見つけた。足元も危うい高い壁の上、風に流されて金色がふわりと靡く。もの、ではない。人だ。しかも、あれは――。
「……フェルレイア?」
 間違いない。緩やかに波打つ金髪に、司祭の白い法衣。ユイエステルが記憶する幼馴染みの姿に相違なかった。よく見ると何か胸に抱えているようだが、何なのかは遠くてはっきりとは判らない。
「なんであんな場所にいるんだ、あいつは」
 思わずそんな台詞がこぼれ落ちる。一体何をしているのか。そもそもどうやって登ったのか。ユイエステル頭の中は疑問符で埋め尽くされていたが、次の瞬間急激に意識が冴え渡った。
 狭い足場に座り込んでいたフェルレイアの体が、ぐらりと傾いたのである。強風に煽られたその身はバランスを崩して宙に舞い、急速に地へ落ちる。
「――まずい!」
 考えるより先に、ユイエステルは走り出していた。あの高さから落下して無事に済むわけがない。騒ぎに気付きどよめき始めた人混みを駆け抜ける。全力で駆けているというのに、思うように縮まない距離が煩わしい。
「きゃぁああ!!」
 徐々に悲鳴が近付いてくる。彼女が落ちてくるであろう場所まであと僅か。間に合えと懸命に手を伸ばし――結果、ユイエステルはその身をもってフェルレイアを受け止めた。彼女の下敷きになる、という形で。
「……あ、あれ? きゃー! だ、大丈夫ですか!?」
 落下の衝撃を全身で緩和したユイエステルの意識は、暫し闇の中を彷徨う事となった。

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