歪み、映すもの 5

「特別、出入りは禁じられてはいません。そんなものがなくても町の人間は森を荒らすような真似はしませんから。管理のために神殿の者が時々立ち入るくらいですね」
 豊かな土地は、森に御座す精霊の加護あってのもの。町の住人達にはその概念が骨の髄まで根付いているのだと、ルオは語った。実際、そういった事件の記録は全く無いらしい。確かに、森には全くと言っていいほど人の手が入った痕跡はない。今歩いている道も、殆ど獣道のようなものである。ルオの虚言というわけでもなさそうだが、ユイスには少々引っ掛かる部分があった。
「だからと言って、甘過ぎるのでは……?」
 思わず疑問が口を衝く。町の人々の信仰心には感心するものがあるが、これからもそうであるという保証はどこにあるというのか。第一、相手が余所者だったらそんなものは関係ないだろうに。
「ん?」
 唐突に、ルオの足が止まる。訝しむような声に口が過ぎたかとヒヤリとしたが、どうやらそうではない。
「どうかなさいましたか」
「いえ、その……道が」
 口篭りながら、ルオは首を捻った。道が、という言葉に身体をずらして彼の前方を見ると、ただでさえ狭い道が繁茂した蔦や低木に覆われてしまっている。とても先へ進めるような状態ではない。まるで、これ以上の侵入を森が拒んでいるかのようだ。
「他に道は?」
「いえ、ここだけです。ですから、神殿も最低限の手入れは定期的に行ってるんですが……この前来たときは通れた筈なのに」
 最後に人が通ったのがいつなのかは分からないが、ルオの様子から見てそれほど前のことではないのだろう。余程の短期間で道が塞がれたのだ。自然にこうなったとは考えにくい。草木に人為的な不自然さは無い。だとすれば――。
「すみません、失礼します」
 ユイスと同じ結論に至ったのだろう。後ろからレイアが進み出ると、絡み合った茂みを前に跪いた。
「森に住まう精霊達よ、我が呼び掛けに応え、姿を現し給え」
 胸の前で手を組み、祈りの言葉を捧げる。それに呼応して辺りの木々が一瞬ざわめき――何も、起こらなかった。
「……珍しいものを見たな。レイアの呼び掛けに精霊が応えないなんて」
「いないわけでは、ないみたいなんでけど……ざわついてるのは伝わってきますから。でも、こっちに近寄ろうとしないんです。さっきまでその辺にいた子達もいなくなってますし」
 閉じていた瞼を開き、レイアは困惑したように告げた。そう言われて周囲を見渡せば、つい先程まで小動物に紛れていた精霊達の姿がない。なんの前触れもなく、消えてしまったのだ。
「何か、不興を買うようなことがあったか……?」
 森に入ってからの行動を振り返ってみるが、特に思い当たる節はない。決して荒らすことの無いよう、細心の注意を払って移動してきたつもりだ。
「イルファ」
「おお、なんだー? 燃やすかー?」
 レイアの傍で大人しくしていた精霊に呼び掛けると、彼は心なしか嬉しそうに宙へ飛び上がった。
「冗談はよしてくれ。何か分からないか?」
 不穏な発言にはしっかりと釘を刺しつつ、状況を尋ねてみる。精霊同士なら、何か分かることがあるかもしれない。
「さぁなー、なんかこの近くに来たら急にいなくなったぞー。おれ、向こう側見てきてやろうかー?」
「……そうだな、頼む」
 芳しい回答は得られなかったが、ここまでが退屈で仕方なかったらしいイルファは非常に協力的だった。向こう、と彼が指差したのは道を塞ぐ茂みの先である。人が通るのは無理でも、イルファなら隙間を抜けていける。ユイスが是と返すなり、早速イルファは蔦の隙間をすり抜けようと近付いた――その瞬間、突如として植物達は変貌を遂げる。
「うぁああっ!?」
 素っ頓狂なイルファの叫び声が響いた。地面に蔓延っていた蔦が、蛇のように蠢き始めたのだ。蔦は素早くその手を伸ばし、慌てて飛び去ろうとしたイルファを捕らえる。そしてその小さな身体を高々と掲げたかと思うと、叩きつけるように彼を投げ捨てた。
「ぎゃああー!!」
「イルファ!」
 レイアの悲鳴も空しく、イルファは勢いよく地面に衝突した。素早くレイアがその場に駆け寄ったのを見て、ユイスそれを庇うように彼等の前に立つ。茂みの草木はそれ以上何かを仕掛けてくる様子は無かったが、やはり風もないのに身体を揺らしていた。
「一体、なんなんだ……?」
 暫くすると、イルファを襲った蔦は何事も無かったようにするすると元の位置に収まった。緑達は静寂を取り戻し、まるで今の出来事は見間違いだっかと思える。しかし、ユイスは確信した。森の草木はイルファを――延いてはユイス達を、拒絶している。
「……あ、ユイス様! 危ないです!」
 引き止めるレイアも顧みず、ユイスは茂みへと歩み寄った。草木は何の反応も示さない。ならば、と複雑に絡んだ蔦に触れようと手を伸ばす。するとその途端茂みは様相を変え、勢いよく蔦がユイスの腕を絡めとった。更には、それ以上動かせぬようにとギシギシと音を立て締め付ける。一瞬の出来事に、背後でレイアの悲鳴が聞こえた。
「大丈夫だ。騒がなくていい」
 視線を目の前から逸らすことなく、ユイスは声だけでレイアを諌めた。これはただの勘だったが、恐らくこの植物達は必要以上に攻撃はしてこないだろう。相手が害を成すのでなければ――エル・メレクの精霊は皆そうだ。それはレイア、そして同行しているルオも知っているはずだ。無駄に騒ぎ立てれば、余計に精霊達の反感を買うかもしれない。それに、あからさまな程に精霊の力が加えられたこの草木。その意志の大本など解りきっているではないか。まさに、そこに用があるのだ。
「この道は、森の王の意思とお見受けする! 私達に森を害する意図はない! どうか通してはもらえないか!」
 未だ動揺から立ち直れていないレイア達を差し置き、ユイスは声を張り上げた。応える声はなく、腕を拘束する蔦が緩む気配もない。しかし、声が届いていないとは思わなかった。どこかでこちらを認知しているからこそ、拒絶の力が働いているのだから。
「私達は、人の手に余る病についての手掛かりを求めて此所へ来た――地の精霊王の助力を請いたい。どうか、聖域への道を」
 背後でルオが息を飲んだのが分かった。そういえば聖域への案内は頼んでいたが、精霊王に拝することは伝えていなかったかもしれない。だが今はそんなものは些末事だ。どの道知られていた事実である。特に振り返ることもせずに耳を澄ますが、やはり精霊は応えなかった。ユイスの声がただ四方に霧散しただけ――そう、思った時だった。

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