歪み、映すもの 6

『……全く、早々に引き返せばよいものを』
 大地が、唸る。そんな錯覚を覚えるような低い声だった。唐突に響いたそれは発せられた方向もあやふやで、妙にくぐもっている。それでいて畏敬の念を抱かずにはいられないような、強烈な存在感があった。
 ――同じような感覚に、覚えがある。炎の神殿の最奥。そこで炎の精霊王の声を聞いたときと、よく似ていた。
「トレル……?」
 呆然と呟いた声は、ルオのものだった。トレル、というのはこの森の名ではなかったか。なぜ彼がそれを口走ったのかは、疑問に思う間もなく声の主が答えをくれた。
『いかにも、我が名はトレル。この森の王にして、大地を司るもの』
 声の主――地の精霊王は、静かにそう名乗りを上げた。この森は、大地を司る王の名をそのまま冠していたのだ。それをルオは知っていたのである。まさか、こうして言葉を交わすとは思っていなかっただろうが。しかしユイスにとっては、ここで精霊王が出てきてくれたのは好都合である。厳かな声に威圧されそうになるのを堪え、ユイスは再び口を開いた。
「地の精霊王よ、私は――」
『名乗る必要はない。噂好きの風の精霊どもが、全部話して行きおったわ』
 さも煩わしそうに、トレルはユイスの言葉を遮った。こちらの素性もここまでの経緯も、すべて把握済みということらしい。随分と親切な精霊がいたものである。
「……ならば、余計な説明は省かせて頂きましょう。エル・メレクの民を救うために、どうか御力をお貸しください」
『断る』
 ――何を言われたのか、一瞬解らなかった。幾ばくかの時間をかけて、ようやく言葉の意味を理解する。寸分の隙もないほど断固とした拒絶。短く放たれた一言はどこまでも冷たく無機質で、僅かな怒気さえ孕んでいるように聞こえた。
『イフェンも言うておったのだろう、それが定めと。だというのに、己の眷属をも巻き込んで我が元へ送るとは……彼奴の気が知れぬわ。それに従う眷属も』
 今度は苛立ちも露に、トレルは言葉を続けた。炎の王
、そしてイルファへの悪態は辛辣だ。あくまでも此方に寄り添う素振りはなく、地の精霊王はどこまでも無慈悲だった。
 だが、それがどうしたというのか。ユイスは密かに拳を握りしめると、森の奥を睨み付ける。すんなりと事が運ぶわけがない。炎の神殿とてそうだった。トレルは未だ、クロック症候群について何も触れていない。知っていることがあるのか無いのか、それさえも、だ。否、定めなのだと繰り返すなら、その理由があるはずだ。簡単に退くわけにはいかない。姿すら見えない精霊王に威圧されながらも、屈することなくユイスは口を開いた。
「確かに、炎の王もそう仰いました。しかしなにゆえに人が滅びの道を辿らねばならないのか、その理由が解りません。定めというなら何故――エル・メレクの民に、何の罪があるというのですか」
 誠実に、切実に、ユイスは強く森の主に訴えかけた。民を救いたいのだと思いを込めて――しかし、その言葉が彼に届いた瞬間、森の空気が変わった。微かに頬を撫でていた風は止み、だというのに木葉は不気味にざわめき始める。今までは柔らかく足を受け止めていた土からは、氷のような冷ややかさが身体を這い上っていくような気がした。何かが、逆鱗に触れた。地の精霊王の感情に辺りは染まり行き、大気が変容する。
『解らぬ、と申すか。これだから人間は嫌なのだ』
 低い声が、重々しく響く。先程からちらついていた苛立ちと憤りが、一気に噴出したのだ。トレルの口調はあくまで静かだ。しかし、今にも押し潰されそうな程の圧迫感が、その怒りを物語っていた。ユイスが反射的に声を詰まらせた一瞬に、トレルは更に言葉を畳み掛ける。
『これ以上語ることはない。せいぜい怯えながら滅びを待つがよい』
「待っ――」
 徐々に、声が遠くなる。それを引き留めようと叫びかけた瞬間、ユイスはふと足元に違和感を覚えた。地面の下で何かが這い回っているような、迫り上がってくるような、小さな振動。
 頭の片隅で警鐘が鳴る。これは、危険だ。
「う、うわぁ!」
 悲鳴を上げたのはユイスではなく、後方にいたルオだった。本能的に身を翻したユイスの真横に、人の大きさ程の巨大な棘が突き出したのである。否、棘ではない。鋭利な木の根だ。周囲の木々が精霊の力を受けたものだろう。それが示すのは明確な殺意である。一歩遅ければ、今頃ユイスは串刺しだ。
『お主らと相見えるつもりはない。ゆえに道を塞いだのだ。立ち去れ――次は無い』
 物々しい警告を最後に、トレルの気配はふっつと途絶えしまった。残されたのは、拒絶の証とも言える突出した木の根。そして未だざわつく、不穏な森の空気だけだった。精霊の力は、まだ働いている。ユイス達が無理に進めば、次は周りを囲む無数の木々全てが牙を剥くだろう。命の保証はない。他ならぬ、それが精霊王の意思だ。
「……ユイス様、一度町へ戻りましょう。イルファも目を覚ましませんし、ルオ殿も」
 立ち尽くすユイスにおずおずと声をかけたのはレイアだった。見れば、彼女の手にはぐったりと気を失ったイルファの姿があった。外傷は無いようだが、すっかり目を回してしまったらしい。そして更に彼女の後方に目を遣ると、腰を抜かしたルオが地面にへたり込んでいるのが見えた。顔もすっかり青ざめており、これではとても動けそうにない。流石にこの状況で強行突破わ考えるほど、ユイスは愚かではなった。
「……仕方ない、それしかなさそうだな」
 様々な未練を残しながらもユイスは頷き、一行はトレルの森を後にするのだった。

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