歪み、映すもの 4

 トレルの森、とそこは呼ばれているらしい。町を出て更に西、然程遠くはない場所にある。地の精霊王はその奥深くに住まい、人々の営みを見守っているという。目的地へ向かう道すがら、使者として訪れた青年が語った。
「聖殿――我々の場合は聖域と呼んでいますが、最深部に御神木があるんです。そこに地の精霊王は宿るとされています」
 ルオと名乗った赤毛の使者は、馬の背に揺られながらも淀みなく話を続ける。レナードの使者というからどんな人物が来るかと思えば、存外にルオは純朴な人柄であるようだった。大幅な遅刻は別の仕事が長引いたためだったのだと、こちらが申し訳なく思うほどに頭を下げられてしまった。こざっぱりと整えた容姿に、真面目な態度。年の頃はレイアと同じ程だろうが、ルオはレナードよりよほど立派な聖職者に見えた。
「いやぁ、それにしても感動ですよ。噂に聞く聖女様にお会いできるなんて!」
 説明する合間、ルオは瞳を輝かせうっとりと呟いた。図らずもその発言は聖女本人に聞こえ、同じ馬に跨がるユイスの耳に苦笑が響いた。
「そんなに、大層なものではないんですよ」
「何を仰いますか! 実際にこうやって精霊を侍らせているではありませんか。常人に成せることではありませんよ!」
 レイアの言葉に、ルオは猛然と反論する。彼の有するエレメンティアの力はなかなかのものらしく、朧気ながらもイルファの存在を知覚しているようである。侍らす、とは随分な言いようだが、当のイルファはどこ吹く風といった様子である。しかし、ルオの仰々しい物言いは不思議に思うらしく、ユイスの顔の横で首を捻った。
「おれ、ビスケットくれるって言うから着いてきただけなんだけどなー。大袈裟なやつだなー」
「……黙っててやれ」
 確かに彼にとっての最重要はそこなのだろうが、わざわざ若人の夢を壊す必要もあるまい。そう思ってひっそりとたしなめるユイスだったが、幸い今の言葉はルオに届かなかったようだ。
「一部では、精霊と心を通わせ人々を導く神の遣いだとも言われているんですよ。私も大仰すぎやしないかと思っていたのですが、今日そのお姿を見て確信致しました! 春の花のように可憐なお姿に、精霊を伴った凛とした佇まい……正に聖女と呼ぶに相応しい!」
「……そ、そうですか」
 レイアの困り顔など全く視界に入らないようで、ルオは馬上で熱弁を振るい続けた。レイアのエレメンティアとしての力が尋常でないことに異論はない。が、その実態を知っている者から見れば、少々その印象は美化され過ぎている。実際はただのじゃじゃ馬娘だ。精霊に好かれている分、厄介とも言える。本人にも実際との差についての自覚はあるらしく、弱々しく笑みを返すばかりである。そろそろ、助け船を出してやるべきか。
「ルオ殿。そろそろ、森に着くようですが」
 ユイスの指摘に、はっとしたようにルオは真顔に戻った。その仕草から見て語り足りないのであろうことは察するが、今は聖域への案内をしっかりとこなして貰わねば困る。
「――ああ、失礼しました! そうです、あれが“聖域”トレルの森です」
 ルオが示したのは、一見なんの変哲もない森だった。さして大きくもない、概ね似たような高さの木々が群れを成している。ただひとつ不思議に思ったことがあるとすれば、その丁度中央あたりがこんもりと盛り上がり、緑の山となって見えることである。
「森の中央に盛り上がって見えるのが、精霊の化身として祭られている御神木です。他の木々と比べて一際大きいので、あんな風に見えるんですよ」
「……なるほど」
 まさにその疑問に答えるかのように、ルオが補足した。確かに、言われてみれば大樹が葉を広げているように見えなくもない。改めて森を眺めながら歩を進めていると、斜め前を行くルオの馬が足を止めた。
「ここからは徒歩になります。道が狭くて馬が入れないんです」
 彼は早々に自身の馬から地面へと降りると、ユイス達にもそう促した。言われるがままにユイスは下馬し、続いてレイアが降りるのを支える。彼女の足がしっかり地面についたのを確かめると、ルオの先導でまばらに生えている木のひとつに手綱をくくりつけた。
「また後でよろしくね」
 声をかけながらレイアが首筋を撫でると、承知した、とでも言うように栗毛の馬は鼻を鳴らした。よく言うことを聞く賢い馬だったので、案外本当に解っているのかもしれない。
「さぁ、行きましょう」
 僅かばかり残っていた平坦な道を行き、ユイス達はトレルの森へと進入した。
 一歩その領域に踏み入った瞬間から、濃密な緑の匂いが鼻を突く。湿った腐葉土、岩に生える苔、生い茂る草木。それらが作り上げた清浄な空気を肺いっぱいに吸い込めば、身体の毒が浄化されていくような感覚を覚えた。辺りは高木が惜し気もなく枝葉を広げているお陰で薄暗いが、合間から差し込む木漏れ日が穏やかに足元を照らしている。その光を受け、腐って土に還る落葉の隙間に覗く新たな芽がきらめいていた。
 緩やかに流れる静寂の中でも、時折鳥の囀りや小動物の足音が聞こえてくる。それらは此方に近寄ってくるような真似はしなかったが、怯えて逃げ惑うといった様子でもなかった。まるで滅多にない訪問者を物珍しく眺めているような、そんな雰囲気さえ感じられる。そしてその中には人とよく似た形の小さな住人――地の精霊達の姿もあった。そのせいなのか、少々居心地が悪そうにイルファがユイス達に寄り添う。
 ――大地の恵みと、地の精霊の加護。それを体現したような、この上なく豊かな森だった。
「……ここは、閉ざされてはいないんだな」
 不意に、疑問が唇からこぼれ落ちる。炎の神殿では、精霊王の居所は最も厳重に閉ざされていた。聖域と称するからには、この森もさぞや厳しく出入りが規制されているのだろうと考えていたのだ。しかしその予想は見事に裏切られ、ルオに案内されるままあっさり森へ入ってきてしまった。これでは誰でも出入り出来てしまいそうだが、良からぬことを企む輩はいないのだろうか。

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