気が、急いていた。今日はやけに時の流れが遅く感じられる。早く仕事を終わらせて一人になりたい。そんな思いが如実に言動に現れ、この日のティムトは一挙一動が忙しなかった。ペンで綴る文字は乱れ、いつもは丁寧に整理されている書類も雑然としている。とはいえ決して手落ちの無いあたりは、流石ユイエステル王子の忠実な従者といったところだろうか。
ようやく目の前の仕事が一段落したところで、ティムトは残った雑事を放り出し足早に執務室を後にした。時は夕刻、日が落ちるにはまだ早いが、そろそろ夕食の準備が始まる頃だ。顔見知りの兵士とすれ違い、そんなに腹が減ったか、などと揶揄されたが、適当に受け流し先を急ぐ。
何をこんなに慌てているのかといえば、朝のうちに手元に届けられた物が原因だった。結局、自室に帰り着くまで辛抱出来ず、ティムトはそれを取り出した。
『ティムト・グラード様』
几帳面な筆致で記された自分の名前。差出人の名前は無かったが、決して見間違えることはないだろう。ユイスからの手紙だった。
手近な柱に凭れかかると、ティムトは改めて周囲に人の気配がないか確かめた。足を止めたのは使用人達の居室がある別棟に繋がる回廊だ。今時分は人通りが少ないが、王子の不在は機密事項だ。わざわざ人の手紙を覗き込むような暇人はいないだろうが、警戒するに越したことはない。慎重に封を開け、中から便箋を取り出す。それだけの行為なのに、妙に緊張した。
柔らかな風が、ティムトの干し草色の髪を撫でる。中庭から吹き抜ける空気に混じった緑の匂いは、ユイスが旅立った頃より随分濃くなったように思えた。彼は、火の点いた爆弾を抱えて旅しているようなものだ。身体に変調はないか、何か治療法について進展はあったのか――考えるほどに、不安は募った。手紙を読むことにある種の恐怖感を覚えるのは、そのせいだろう。
一呼吸置いて、ティムトは手元の便箋に目を落とした。さして長い手紙ではなかった。城の様子に変わりないか、皆は息災でいるかという内容に始まりこれまでの経緯が簡潔に纏められている。ルーナにて聖女フェルレイアと合流して火の精霊の協力を得るに至り、フェルダの町で手に入れた情報を元に次はイルベスの町へ向かうという。そして最後に、苦労をかけてすまない、という一文で締めくくられていた。
「……そう思うならさっさと治療法を見つけてこいというんだ」
苦々しく呟きながらも、それが簡単なことではないとティムトも理解していた。ただ待つしか許されない身であることがもどかしく、毒づく他に思いのやり場がないのである。彼のことだから、自分が心配するような要素は敢えて手紙に書くことはしないだろう。折角の便りも、心にわだかまった靄を払うには些か物足りないものだった。
密かに嘆息して便箋を仕舞い直そうと折り畳むと、ふとティムトはもう一枚手紙が重なっていたことに気が付いた。ぴったりと重なっていたそれをずらし、改めて文面を確かめる。一枚目とは明らかに筆跡が違う、伸びやかで丸みのある文字。内容は一枚目と同じく旅の経過について綴られたもののようだった。一体これは、と首を捻り、暫くしてフェルレイアのものであろうと思い当たった。彼女がユイスと親しくしているのは、ティムトも知るところである。ただ、自分自身はあまり交流はない。彼らの親交があったのは主にユイスがルーナの神殿で過ごしていた時代であるため、その後従者となったティムトは精々顔を合わせたことがある程度である。何故わざわざ自分に手紙など――そう思いながらも文章を読み進め、その中身にティムトは拳を震わせることとなった。
書かれていた主旨自体は、ユイスのものと大差はない。ただ、フェルレイアの手紙にはより詳細な経緯が記されていた。曰わく、火事の最中に飛び込んだり、地の精霊王に喧嘩を売ったり、随分と大立ち回りをしているようだった。恐らく本人は伝えないだろうから、という言葉も添えてあった。彼女もユイスの性格をよく解っている。宛名を見てひっそりと自分が書いた物を紛れ込ませたのだろう。
ユイスの体調についても付け加えられており、今のところ悪化の兆しはないとのことであった。その一点のみについては安堵を得られたものの、今後も同じような無茶を続ければどうなるか分からない。少しは心配する方の心境を慮る気はないのだろうか。
「あの野郎、目の前にいたら締め上げてるところだぞ……!」
「――何を読んでおる?」
主に対し無礼極まりない悪態をついたところで不意に声を掛けられ、ティムトは戦慄した。誰か文官でも通りかかったかと振り向き、ティムトは更に驚愕する。
「陛下!? なぜこのような所に……」
そこにいたのは、紛れもなくエル・メレク王ユーグその人であった。慌てて膝をつこうとするが、手振りだけで構わない、と示され、ティムトは居住まいを正す。王自ら使用人達の別棟に赴いてきたことも驚きだったが、彼の後ろには供の者の姿すらない。通常なら有り得ないことだ。
「あちらで人払いをさせている。あまり堂々と話せることでもないからな」
訝しげなティムトに気付いたのか、ユーグはそう説明を入れた。人払いとは随分大袈裟な、と感じたものの、理由には心当たりがあった。王は最初から答えをくれている。彼はティムトの持つものを一瞥すると、おもむろに切り出した。
「……ユイエステルからの手紙だな」
「はい」
やはりかと得心しつつ、ティムトは頷いた。人前でユイスの不在を匂わせる会話は出来ないし、自分如きと国王が密談していたと知れたら要らぬ誤解を生みかねない。そのための警戒だ。
「神殿経由で私の元にも届いたのだが、ろくな近況報告も無くてな。お前なら何か違うかとも思ったのだが」
「残念ですが、私の方も似たようなものです。フェルレイア殿が気を利かせてくださいましたが」
言いながら、フェルレイアの手紙を差し出す。わざわざそれを訊くために来たのなら、余程ユイスが心配なのだろう。普段は厳格で知られるユーグ王も、人の親である。
ユーグは手紙を受け取ると、神妙に書かれた文章を追い始めた。その横顔を眺め、つくづくよく似ている、とティムトは思う。
王の頭髪には白いものが混じり、骨張った輪郭と蓄えた顎髭は厳めしい印象を受ける。実際、ユーグは普段の所作さえも洗練されていながらも重々しく、威厳に溢れるものだった。対して王子ユイエステルの仕草は優美で軽やか、顔立ちはどちらかと言えば王妃に似て甘やかだ、と姫君達に囁かれる。ともすれば真逆にも見られがちな親子であったが、何よりも似ているのは目だった。強い意志と聡明さを湛えた深い青。王者の資質を具現化したような双眸だけは、全く同じにも思える程に酷似していた。賢王と讃えられるユーグの後を継ぎ、ユイスも良き王となることだろう。
そして自分の役目は王となった彼を傍らで支えることだと、ティムトは確信している。その未来が違えることになってはならない――だからこそ、無茶をするユイスを罵りたくもなるのである。
「……成る程。これは悪態のひとつもつきたくなるな」
手紙を読み終えたらしいユーグが、ふと息をつく。やはり聞かれていたか、と一瞬竦み上がったティムトだったが、王は気にした風もなく苦笑する。
「お前には感謝しておるのだ、ティムト。これからも息子の良き友であってくれ。あやつは王族としての責務を考えるあまり、人を遠ざけるきらいがある」
叱責されるどころか礼を述べられ、ティムトは恐縮しつつも黙礼した。王の言うところは、ティムト自身も感じていたことである。ユイスは社交的で人望もある。しかしその反面、常に己を厳しく律し、反発する勢力を無理なくいなして、国と民の益の為だけに周囲との関係を築いてきた。その中で、本心から気を許す相手がどれほどいるだろうか。自分が数少ない彼の友人というのはこそばゆい事実だったが、心配の種でもあった。それはユーグも同じであったらしい。
「……私は案じておるのだ。使命ばかりを優先させて自らの大事なものも、己の身さえも顧みないのではないかと。だからこそ、このような旅には送り出したくなかった」
王の、そしてティムトの不安は概ね的中してしまっている。フェルレイアの手紙が証拠だ。この先、今まで以上の苦難が降りかかったなら、彼はどうするのだろう。
「……フェルレイア殿なら、きっと殿下を支えてくださるでしょう」
王の憂いを払拭するだけの台詞を思い付けず、苦し紛れに聖女の名前を口にする。フェルレイアも、ユイスが心を開く希少な人間の一人だ――少なくとも他の者よりは。彼女がユイスの拠り所となってくれることを信じたかった。
「そうであって欲しいな」
ユーグもまた、曖昧に言葉を濁す。今はまだ不安を振り払う術はなく、待つ者はただ遠い空を見上げるしか出来なかった。
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