水底に眠る 2

 人と物とでごった返す町の喧騒に混じって、甲高い海鳥の声が聞こえる。つられて空を見上げると、蒼穹を背景に白い影が視界を横切っていくところだった。その姿がどことなく満足気に見えるのは、港で魚のおこぼれを頂戴したからだろうか。
 エル・メレク西方、港町イルベス。ひしめき合う家々の橙に染まった屋根と、海と空の鮮やかな青との対比が印象的な町だった。半円状にせり出した港には市が立ち、その日水揚げされた魚や、他国から来た交易品など、あらゆる品が集う。当然、それに伴って人の往来も多い。更にイルベスは水の神殿を擁する町でもあり、様々な人間が、様々な目的を持って訪れる場所だった。
 そんな町のとある通りの飲食店に、ユイス達はいた。到着したのは太陽が空の頂点を少し過ぎた頃だ。真っ直ぐに神殿に向かってもよかったが、空腹を主張する声があったため先に腹拵えと相成ったのである。
「イルファ、喉に詰まらせないようにね」
「んー? 大丈夫だ、人間とは身体が違うからなー」
「……一番食い意地が張っているのが、本来食事を必要としないはずの精霊とはな……」
 目立たぬようテラス席の隅に陣取り、ユイス達はすっかり呆れ返りながらテーブル中央の皿を見つめていた。そこでは常人の目には映らない精霊の姿がある。燃える赤毛の炎の化身が、人間の幼子よろしく菓子にかぶりついていた。身体との比率を考えれば彼から見た菓子はかなり巨大な筈だが、己の半分ほどはあろうかという物体に向ける視線は嬉々として輝いているものだった。
 順調にイルファが菓子を腹に収めていく様を眺めながら、ユイスは溜め息を吐いた。もしこれが自分だったら、目にしただけで胸焼けを起こしてしまいそうだ。ちなみに、イルファが食べているのはパイ生地にクリームを挟んだこの町の名物菓子である。最初こそビスケットに似ているとパイ生地の方を好んでいたが、クリームの方も随分お気に召したようだ。今や顔中どころか手足までクリームまみれである。本来なら信仰対象である精霊のあられもない姿に、どこか白けたような思いを抱いてしまったのも仕方のない話だと思う。
「んあ? 何か言ったかー?」
「いや、何も」
 敬われる者としての体裁を気にするようなイルファではなかったが、ユイスの呟きの非難めいたような響きは感じ取ったらしい。誤魔化すように視線を外すと、ユイスはこの後の予定を頭の中で再確認することにした。
 ――古き水の都を訪ねよ。
 トレルが残したその言葉だけを手掛かりにして、ユイス達は手当たり次第に地の神殿の蔵書を紐解いた。あらゆる資料を漁るうちに、ふと目に付いた伝承があった。遥か昔、海に沈んだ街がある、というものである。しかも複数の資料で似たような記述がいくつも見つかった。多少の差異はあれど、そこから概ね場所の検討もついた。お伽話のようにも思えたが、精霊王が思わせ振りな言葉を残すくらいなのだから目的地がこれくらい大袈裟でもおかしくはない。しかし、結局地の神殿ではそれ以上の情報を得ることは出来なかった。
 ならば現地に足を運んだ方が早いと訪れたのが、ここイルベスだった。海に沈んでいるという遺跡から最も近い港があり、かつ水の神殿がある。当面はここで情報を集めるつもりだった。まずは神殿を訪ねて資料を探さなければならないだろう。最古の神殿であるフェルダでも見つからないというのに、水の神殿にそれ以上の物があるのか。そんな疑問は残るが、地元だけに伝わる話もあるかもしれない。出来れば遺跡も直接確かめたいから、どうにか船も調達したいところだ。場合によっては水の精霊の力借りなければならないだろうから、その時はレイアに頼ることになるが――。
 つらつらとそんな事を考えていたが、ユイスはふとテーブルの上の異変に気が付いた。誰も動かしてなどいないのに、傍らに置いてあるグラスが震えている。いや、正確に言うならば、グラスに注がれた水が不自然に波打っていた。不可視の力によって揺られ、凝縮し、音もなく宙に浮かび上がった。
「これは……」
 ユイスがたじろぐ間にも水球はふらふらと移動し、やがてテーブルの中央へ差し掛かる。そして、そこにいた人物――つまりイルファの上で水球は破裂し、小さな滝を生み出した。
「ふぎゃぁあああーっ!」
 まるで尻尾を踏まれた猫のような悲鳴を上げ、イルファが飛び上がる。あれだけ夢中になっていた菓子も放り出し、宙で手足をばたつかせ始めた。被った水を跳ね除けようとでもしたのか、周囲に火花が飛び散る。これは少々まずい。
「イルファ、少し落ち着け――」
 火事に発展する前に諌めなければ、と口を出しかけた時、再びイルファの頭上から水が降り注いだ。それも先程より勢いが強い。目を見張ったイルファは最早叫ぶことすら出来ないのか、青ざめて口をぱくぱくと動かすばかりである。
「全く、相変わらず炎に属する輩は品が無いのね」
 そんなイルファを嘲笑うかのように、どこからともなく幼い声が響いた。ゆら、と空気が陽炎のように歪んだかと思うと、テーブルの上に小さな人影が現れた。
 腰ほどまである青い髪は水中にあるかのように揺らめき、白い布を巻き付けたような衣服の裾からは魚の尾ひれのようなものが覗いていた。身体の大きさはイルファと同じくらいだろう。尖った耳、幼さの残る顔立ちと、陽光に煌めく海の瞳。突如として姿を見せた精霊の少女は、さも鬱陶しいというようにイルファを睥睨した。
「これぐらいで騒ぎすぎなのね。綺麗になったんだから感謝して欲しいの」
 子供のような、独特の語尾はこれくらいの人型をとる精霊の特徴なのだろうか。どこかイルファの口調と通じるものがあった。
「……水の精霊とお見受けするが」
 珍妙な光景に困惑するばかりであったが、それを放置するわけにもいかずユイスは少女に向かって声を掛けた。振り向いた少女は、値踏みするかのようにユイスの顔をまじまじと眺める。
「……なるほど、見えてるのね。地の王に喧嘩を売った命知らずは、あんたたちね?」
 少女の指摘に、苦いものが込み上げてきた。トレルの森での出来事を思い出す。こちらも事情があって必死の行動だったのだが、地の精霊でなくとも面白くない行いだったのだろう。水の領域の出来事ではないのに、こうして話を持ち出されたのがいい証拠である。
 直接彼女らに危害を加えたわけではないが、既に不興を買ってしまっているなら慎重に対応しなければならない。そう考えて言葉を選んでいると、ユイスが答えるより先に少女が意外すぎる内容を口にする。
「わたしはレニィ。あんた達を神殿に連れてくるよう仰せつかってきたのよ――わたし達の王から」
 高らかに名乗りを上げ、水の精霊はそう宣言した。

コメント