小さな炎 4

 淡い光が、眼球を刺激する。目覚めを自覚した瞬間、ユイエステルは慌てて飛び起きた。
「ここは……」
 その動きに合わせて軋むベッドの音と、糊の効いた真新しいシーツの感触。辺りを見渡すと、質素な、そして必要最低限の物品が置かれているのが目に入った。恐らく、神殿の一室だ。優美な貴族の部屋も、あの女性達も、何処にも見当たらない。
「……夢、か?」
 呆然と呟きながらも、どこかでそれを否定する自分がいた。鮮烈なまでに眼裏に残るあの場面は、夢という方が不思議な気がしたのだ。触れた物の感触も、耳にした声も、まざまざと思い出せる。しかしそれらは跡形もなく消えてしまった。 あれはいったい何だったのか――しばらく自問自答を繰り返した後、ユイエステルはやはり夢だ、と結論付けた。どう考えても神殿にいる今の方が予測していた状況に近く、より現実味があった。どちらを信じるかなど愚問である。そう確信した時、不意にドアを叩く音が響いた。
「――ああ、お目覚めでしたか! 失礼を……!」
 ノックと共に顔を除かせた神官は、まさかユイエステルがまだ目を覚まさないものと思い込んでいたらしい。慌てて姿勢を正すと、深々と一礼した。
「いいや、大丈夫だ。気にしないでくれ」
 そう声をかけると、彼はほっとした様子で来客の存在を告げた。
「大司教様がお見えです。お会いになりますか?」
「……ああ」
 ユイエステルが頷くと、神官は再び礼をして退室した。そうだ、今は夢のことなどどうでもいい。ここに来たのには目的があるのだ。
「失礼致します」
 程なくして、再びドアが開かれる。現れたのは、白髪頭にたっぷりと顎髭を蓄えた老人だった。背中は曲がり動作は緩やかであるが、しっかりとした足取りで歩く様は威厳が漂う。身に纏う法衣は他の神官達とは違い、高位を表す深紅で紋章が描かれていた。そして、その背後に控える司祭の少女が一人。二人はユイエステルの数歩手前で立ち止まると、ゆっくりと膝をついた。
「ジーラス殿」
「お久しゅう御座います、ユイエステル殿下」
 名を呼ばれ、大司教ジーラスは床に額が着きそうなほど頭を下げた。その様子にユイエステルは困ったように微笑んだ。
「そんなに畏まらないでくれ。なんだか落ち着かない」
 ジーラスは、幼い頃から様々なことを教え導いてくれた人だ。そんな人物に恭しく接されるのは、どうにも居心地が悪い。顔を上げるように促すと、彼らは躊躇いがちにユイエステルを見上げた。
「息災なようでなによりだ」
 久方ぶりに見るその姿は、相変わらず矍鑠(かくしゃく)としている。心底から思ったことを声に出したのだが、ジーラスの表情は晴れやかとは言い難いものだった。
「ええ、我々は平穏なことこの上なく過ごしております。ですが、殿下、そのお姿は……」
 歯切れ悪く、ジーラスは言う。最後まで聴かずとも、彼が何を言いたいのかは理解できた。
「……封書は、読んでもらえただろうか」
 その問い掛けに、ジーラスは無言で頷いた。
「己の目で見るまでは、と思っていましたが……事実なのですね」
 封書の中身には今日ここに至るまでの経緯と、ユイエステルの現状が書かれていた。ルーナを最後に訪れたのは約一年前である。その頃に大司教が見た姿と比べれば、ユイエステルがクロック症候群であることを疑いようもないだろう。
「聖殿へ入れるだろうか、ジーラス殿」
 あえて、ジーラスの言葉を封じるように尋ねる。前触れなく突然訪問してきた王子の姿がこれでは、彼が落胆するのも無理はない。しかし、わざわざ嘆かれるためにやって来たわけではないのだ。
「……話は通しております。フェルレイアも、ここに」
 その意を汲み取ったのか、ジーラスが深く追求してくることはなかった。その身体をずらして背後を振り替えると、影のように控えていた少女――フェルレイアがぴくりと肩を揺らす。
「……ご事情は、伺いました。私の力でお役に立てるのならば、如何様にもお使いください」
 既に用意していたのだろう文句を淀みなく言い切るが、その声は僅かに震えていた。どこか、様子がおかしい。孔雀石にも似た瞳は、透明な雫で潤んでいるようにも見えた。
「フェルレイア、どうした?」
 名を呼ばれると、フェルレイアは何かを振り払うように頭を振った。
「……申し訳ありません。まさか殿下がこんなことになっているなんて、考えてもいなくて」
 ――ユイエステルの姿を見て動揺したのは、彼女も同じことらしい。か細い声で答えると、フェルレイアは俯いて黙りこんでしまった。陰鬱な空気がその場を包んだ。沈黙が重くのし掛かり、息が詰まる。いつも天真爛漫な幼馴染みが悲哀に沈むのは、やはり心苦しかった。それに、これでは肝心の話が進まない。
「……そうか。私はてっきり先程のことを気にしているのかと」
「……先程の、とは?」
 鬱々とした雰囲気を壊そうと、わざと茶化すようにユイエステルは漏らした。もちろん、外壁での出来事のことである。首を傾げている様子を見るに、まだジーラスの耳には入っていないようだ。
「――で、殿下っ!」
 ユイエステルの意図を察知したのか、フェルレイアは焦ったように顔を上げた。なかなか効果があったようである。何かを訴えるような彼女の視線は無視し、ユイエステルはにやりと口元を歪めた。
「何、少々尻に敷かれてな」
「……はい?」
 間の抜けた声を上げたジーラスに、ユイエステルは事の次第を事細かに話してやった。受け止め切れなかった自分も無様だが、それ以上に彼女が後ろめたく思っているのを見越しての事である。話す間フェルレイアは無言で口を開閉したり、赤くなったり青くなったりと大変愉快なことになっていたが、やがて叱られた子供のように身を縮めて大人しくなった。
「フェルレイア……お前は……」
 一通りの話を聞き終えたジーラスは、海よりも深いであろう溜め息をついた。呆れ果てた、といった様子である。
「あの、いざとなったら精霊に助けてもらおうかなって! でもまさか落っこちるなんて思わなくて、ええと……」
 必死の形相で弁明を図るフェルレイアだったが、段々と声が小さくなっていく。
「いくら応えてもらえるからといって、精霊をあてにし過ぎるのは良くないぞ。あんな所で何をしていたんだ?」
 咎めようと思ったわけではないが、ユイエステルはずっと抱えていた疑問を投げ掛けた。高い所に登りたかっただけ、というのは流石にやめてもらいたい。
「……猫が、降りられなくなっていて。それで」
「……なるほどな」
 何かを抱えているように見えたのは、猫だったらしい。それにしても無茶をしたものである。
「申し訳ありません……」
「気にするな、無事ならいいんだ。――それにしても、また武勇伝が増えたな」
 安堵の息を吐いたのも束の間、ユイエステルが最後に添えた台詞にフェルレイアは小さく呻き声を上げた。
「そろそろ打ち止めにして欲しいのですがな……」
 やれやれといった素振りでジーラスは肩を竦めたが、もはや諦めの色が滲んでいたのは気のせいではないだろう。
 儚げな容姿と穏やかな口調に騙されがちだが、このフェルレイアという娘は相当なじゃじゃ馬である。本人は慈愛の念や正義感から行動しているのだが、厄介事に首を突っ込んだり、無謀とも思えるような行動を取ったりと、周囲の人間の気苦労は絶えない。一応、毎回反省はするようなのだが、完全に癖がついてしまっているようだ。改善される気配は一向に見られない。
 加えて言えば、幼少期の彼女は大層な悪戯好きでもあった。しかも精霊を味方に付けた、非常に厄介なものである。そのお陰で、神殿には彼女の伝説がいくつも残されていた。ユイエステルも良く巻き込まれたものである。ジーラスに呆れられながら説教を受けるこのやり取りも、懐かしささえ感じられた。
「まぁ、過去にもジーラス殿を落とし穴に嵌めたり、式典中に司祭のカツラを吹き飛ばしたりしているからな。王子を下敷きにしたくらい、今更どうってことないだろう?」
「――もうっ、ユイス様……!」
 ここぞとばかりに過去の悪事を並べ立ててからかうと、フェルレイアは拗ねたようにユイエステルを非難した。ユイス、というのはごく近しい者が使うユイエステルの愛称である。他に呼ぶ人間といえば王都に残してきたティムトくらいなもだ。だが彼の場合はそもそも、馬鹿王子だの阿呆王子だの名前で呼ぶことが少なかったりする。 久しぶりに耳にしたそれが妙に心地よくて、ユイエステルは僅かに微笑んだ。
「フェルレイア、慎みなさい」
 しかし儀礼を重んじる者としては、あまり快くはないらしい。大きな咳払いが聞こえたかと思うと、ジーラスが諌めるように言った。
「あ……申し訳ありません」
 フェルレイアは慌てて口元を隠して謝罪すると、以降は無言でいることに徹した。ユイエステルとしては構わないのだが、ここはジーラスに合わせておくことにする。
「話を戻しましょう。聖殿でしたな」
「ああ。出来るなら、すぐにでも」
 事を急ぐユイエステルに、ジーラスはゆっくりと首を振った。
「お疲れでしょう。どうか今日はお休みください」
「しかし」
 反論を試みようとしたユイエステルだったが、ふと手足が重いことに気付く。慣れない一人旅で、予想以上に身体は堪えていたらしい。一度落ち着いたことで、それが一気に溢れ出してきたのである。本来ならさほど辛いものでもないのだが、いかんせん今のユイエステルはクロック症候群の影響下にある。身体が小さくなれば、体力も落ちるのだ。ジーラスもそれを気遣ってくれているのだろう。
「……そうだな。そうさせて貰おう」
 その答えにジーラスは目を細め、満足気に頷いた。
「明日には入れるよう手配しておきますゆえ。また、明朝に」
「ああ。頼む」
 ユイエステルの返事を確認すると、ジーラスは丁寧に腰を折り、部屋を後にした。フェルレイアもそれに続く。
「殿下、どうぞお大事に」
 出ていく間際の言葉に微笑みを返すと、フェルレイアは安堵したように口元を綻ばせ去っていった。途端、ユイエステルを睡魔が襲う。
「……情けないな。これではまたティムトに怒られてしまう」
 大丈夫だと言い張った分、何を言われるかわからない――そんなことを考えながらも、ユイエステルは微睡みの中へと落ちていった。

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