小さな炎 5

 翌日。ユイエステルはジーラスとフェルレイアを伴い、とある場所を訪れていた。装飾を一切排除した白い天井。鏡のように磨かれた曇りひとつ無い床。まるで外界から隔絶されたように、物音ひとつしない。ただユイエステル達の靴音だけが、やけに高く響いていた。
 聖殿の最奥、精霊の間。仰々しい名が付いている割には、作りは非常に簡素なものだった。清々しいほどに何もない――ただひとつ、祭壇へと続く扉を除いては。
「お待ちしておりました」
 その数歩手前で立ち止まると、待ち構えていた番兵が手際よく扉を開けてくれた。その先は薄暗く、どうやら地下に続く階段になっているようだ。
「この下だな」
「ええ」
 ジーラスが頷いたのを確認し、ユイエステルは無言でその階段に足をかけた。
 精霊達にも、王はいる。それぞれが司る属性の中で、最も力を持つ存在――それが、精霊王と呼ばれるものだ。王、というのは厳密に言えば正しくない。人の身分制度は精霊に当て嵌まるものではないからだ。あくまでそれは便宜上の呼称に過ぎない。彼らは、神に極めて近しい存在なのである。
 その精霊王に会おうとするなど、本来なら余程馬鹿な人間の考える事だ。彼らが人前に姿を表した前例など無く、精霊の意に反した冒涜行為とも取れるかもしれない。しかし誰かがその罪を犯さなければ、人々は何も出来ずに死を待つしかない。クロック症候群から民を救うのに、他に道は無いのだ。人智を越えた存在である精霊王なら、何かしらの知恵を持っているはずである。その可能性に縋るしかない。
「……着きましたな」
 階段を下りきると、踊り場のような場所に再び扉が見えた。上の扉より一回り小さいだろうか。金で描かれた精霊の姿と、細緻な彫刻。薄暗い空間で、そこだけが華やかな装飾に彩られていた。とても数百年の歳月を経てきたとは思えない鮮やかさである。そこに手を伸ばしかけて、ユイエステルは妙な事に気付いた。
「これは……どうやって開けるんだ?」
 取っ手となるものが、何もないのである。あちこちに手を這わせてみてもその表面は滑らかで、引っ掛かる所はひとつもない。試しにそのまま押してみたが、ほんの僅かも動かない。
「これより先は、炎の王に認められた者だけが立ち入ることが許されるといいます」
 ジーラスの説明に、ユイエステルは渋面を作る。
「随分とあやふやだな」
 認められると言っても、そもそも対面すら果たしていない。この扉――というより壁を前に、どうすればいいのだろうか。
「なにせ、前例がございません。文献にもそれらしい記述は見当たりませんでした」
 ジーラスに続き、フェルレイアが口を開いた。
「陛下も、ここから先へ進むことが出来ませんでした……私もお供していたのですけど」
「……そうか」
 既にフェルレイアに頼っていたことは初耳だったが、予想できなかったことではない。王が聖女を伴っても、精霊王に会うことは叶わなかった。だからこそユイエステルが向かうことに反対もしたのだろう。とはいえ、ここで引き下がる気は微塵もなかった。
「会えるまではここに居座ってやるさ。とりあえずはここから呼び掛けるしかないか……」
 扉を睨み付けながら、ユイエステルは決意を固めた。そこに施された精霊の意匠を撫でながら、声を張り上げる。
「――炎の精霊王よ! 我が名はユイエステル・メレク。貴方の御力をどうしてもお借りしたい。どうか、その御目にかかることを許して欲しい」
 当然のように、扉は重い沈黙を守ったままだった。ただユイエステルの声が反響するばかりである。
「……私も、やってみますね」
 その様子を見ていたフェルレイアが進み出る。彼女は法衣の裾を捌くと、扉の前に跪いた。
「罪を焼き付くす業火、揺れる灯火、絢爛たる緋色の王よ――」
 フェルレイアが紡ぐのは、炎の精霊に捧げる祝詞だった。その力を讃え、人々の加護を願う。祭礼などで精霊に呼び掛ける際に詠まれるものだ。地下に、朗々とした声が響き渡る。
「――その猛き炎の加護を賜らんことを」
 最後の一節が終わり、静寂が訪れる。変化は、何もない。ややあって、フェルレイアの唇から沈鬱な吐息が零れた。落胆したというよりは、諦めの色が強く滲み出た溜め息だった。こうして祈りを捧げ、そして何の結果も得られないのも、何度となく繰り返した事なのだろう。
「……申し訳ありません。やはり……」
「そう簡単に答えてはくれない、か」
 うつむいて身を縮めるフェルレイアだったが、ユイエステルが気落ちすることはなかった。これで会えるなら、自分が此処に来るまでもなく成果が出ている筈である。正攻法を用いたところで難航するのは予想済だ。
 とはいえ、他に手立てがあるわけでもない。引き返して出直しても、また同じ事の繰り返しになるだけだ。ふと、ユイエステルの脳裏に妙案が浮かぶ。それならば、いっそのこと。
「いっそ、壊すか」
「……殿下!?」
 それを口にした途端、ジーラスがぎょっと目を剥いた。心なしか声も上ずっている。
「要は通れればいいんだ。わざわざ開けてもらわなくても、穴を開けてしまえば」
「何を仰っているのです! いかに殿下と言えどそれを許すわけには参りません!」
 ユイエステルの言葉を遮り、ジーラスは早口で捲し立てた。彼がここまで動揺するのも珍しい。いくら王家への忠誠心が厚いといっても、聖域の破壊を宣言されては冷静ではいられないらしい。しかし、ユイエステルは本気である。
「責任は私がとる。精霊の怒りを買おうが買うまいが、クロック症候群を放置すれば人々は滅ぶんだ」
「しかし……!」
 ジーラスが更に言い募ろうとした、その時だった。
『――ああもう、騒がしい』
 突然に、聞きなれない声が飛び込んできた。声、というより音に近いかもしれない。まるで残響のようにくぐもって聞こえるが、それでも言葉として聞き取ることは出来た。
「なんだ、今のは……」
『全く、この前からこんな所で騒ぎ立てやがっていい迷惑だ――何故に此処を訪れた、人の子よ』
 ユイエステルの疑問に答えるように、明瞭さを増した声が返ってきた。若い青年のような、それでいて威厳を兼ね備えた声だった。姿は見えないのに、声だけで威圧感さえ感じさせる――その正体を悟り、ユイエステルは身を堅くした。
「炎の、王か」

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