歪み、映すもの 10

「よーし、じゃあ行くぞー」
 掛け声と共にイルファは舞い上がり、頭上へ両手を翳した。それを合図に、周りの空気が急速に熱を帯び始める。かと思えば見る見るうちにその手に赤い光が収束していき、やがて身体の大きさと同じ程の光の珠となった。
「そーれっ!」
 思い切り振りかぶり、光の球を中へと解き放った。高温の球体は真っ直ぐに緑の壁へと飛び込み、瞬く間に草木を炎上させる。それと同時に、声無き断末魔が森中の空気を震わせた。――これでもう、後戻りは出来ない。
「イルファ! 援護を頼む!」
 叫びながら、襲いかかってきた蔦を叩き斬った。それでも斬撃をすり抜けた幾つかが侵入者を捕らえようと迫る。しかしそれは、ユイスの身体に届く直前で炎に包まれ地に落ちた。イルファだ。
 第一陣を防いだからと息を吐く間もなく、ユイスは森を駆けた。足を止めてはならない。止めれば、あっという間に怒れる森の餌食だ。静寂から一変、猛り狂う草木はユイスを傷付けようと容赦なく迫り来る。一歩足を踏み出す毎に棘だらけの蔦が、刃のような木葉が、槍のように鋭い小石が、次々とユイスへ襲来した。それらをイルファの炎が燃やし、或いはユイスの剣が薙ぎ払う。それでも受け止めきれなかった攻撃が、少しずつ身体を傷付けていく。徐々に、だが確実に体力を奪われながらも、ユイスはがむしゃらに前へと進んだ。道を阻む森の眷属を切り落として、燃やして、また走って――この行為を、いつまで続ければいいのか。そんな疑問が頭に沸き始めた頃、突然視界が広くなった。
「これは……」
 唐突に開けた空間の中央には、見たこともないような大樹が鎮座していた。大きい、などという言葉では到底足りないほどの巨大さだった。木というより、まるで壁のように感じられる。貴族の屋敷と同じくらいの幹周りはありそうだ。その幹の凹凸を眺めていると、この木が一本だけで成り立っているのではないことが判った。密集した太い幹が複雑に絡み合い、気が遠くなるほどの年月をかけて一つとなって、この巨大樹を形成しているのである。苔むした厳かな佇まいは長きに渡って森を見守ってきた証拠であり、周囲の若木達は敬するように後ろへ下がる。その隙間さえ覆いつくすように巨大樹は広々と枝葉を伸ばし、ぽっかりとした空間が作られているにも関わらず差し込む日光は弱々しいものだった。
 ここが、森の中心。ルオが話してくれた、御神木だ。
「……うおー、でかいなー」
「そうだな。想像以上だ」
 思わず立ち止まり、頭上を仰ぐ。御神木の名に相応しい威厳ある姿は、この場の清浄な空気を守るために腕をいっぱいに広げているかのようにも見えた。まるで父か、母か――しかし次の瞬間、呑気に思考を巡らせている場合ではなかったことをユイスは思い出した。
「う、うわぁああ!」
 すぐ傍で上がった悲鳴に、ハッとして振り返る。しかし時は既に遅かった。何処からともなく現れた細い蔓が、ユイスの腕を絡めとる。それを皮切りに頭上から、足元から、あらゆる場所から蔓が延び襲い掛かった。腕を取られた反動で、唯一の武器も手から滑り落ちる。そうなっては成す術もなく、見る間にユイス拘束され雁字搦めとなってしまった。
「くっ……イルファ!」
 頼みの綱の精霊の名を叫ぶが、応答する声はない。その姿さえ視界に捉えることは出来なかった。それに先程の悲鳴。恐らく、どこかへ弾き飛ばされたのだろう。
 迂闊、だった。そうとしか言いようが無い。これは万事休すか――そう歯噛みするユイスの前で、巨大樹に変化が起きた。
『警告は、したつもりだったのだが? 人間よ』
 くぐもったような声が、合図だった。
 複雑に絡み合い巨大樹を形成していた木々が、音を立て変形し始める。数本が突然うねりだして解離したかと思えば、再び絡まって形を成す。巨大樹から分かたれたその木の幹に、今度は大きな亀裂が入る。かと思えばそこから新たな若葉が芽吹き、急速に空へと枝葉を伸ばす。それまで瑞々しい樹皮を晒していた部分にも青い苔が生え揃い、変容を続けるうちにそれは人に近い姿を取っていった。
「――相見える気は無いと、そう言った筈だ」
 そうして現れた人型は、先程より明瞭な声で言い放った。肌は樹皮そのもの、伸びた上肢の先は枝が人の手に似せた分かれ方をし、腰から下に至っては樹木の様相のままにしっかりと土に根を張っていた。背丈は高いが男とも女ともつかない平坦な体系で、衣服の代わりに苔を纏っている。頭部を覆う緑の葉は、髪の毛だろうか。人間を模した樹木に、唯一両の瞳だけが森の湖のように煌めいていた。
「……ええ。ですが、わざわざ出向いて頂いたようで。お目にかかれて光栄です、地の精霊王」
 状況が芳しくないことに変わりはないが、結果として目的は達成出来たようだ。巨大樹の化身――地の精霊王を前に、冷や汗が伝うのを感じながらもユイスは僅かに口元を歪めた。
「不本意ながらな。我が眷属達を傷付けた礼を、せねばならぬゆえ」
 深緑の目を細め、トレルは淡々とした声で断罪を告げた。それはそうだろうな、とユイスは思う。ここに至るまでに散々森を傷付けて、己の身だけ無事に済むとは考えていなかった。だが、その前にやらねばならないことがある。とはいえ、目の前の精霊王がそう簡単にユイスに自由を与えてくれるはずもなかった。
「改めて問おうか、招かれざる者よ」
 おもむろにトレルが腕を前へと突き出すと、新たな芽が土から顔を出した。新芽は蔓となり、まるで蛇のように地面から這いだすと、するするとユイスの足へと巻き付いた。足首から腿へ、程なくして腰へ、次は胸から肩へ。そしてとうとう、首筋へと達する。
「何ゆえに、我が領域を侵したか。人の身に過ぎぬ分際で、我を従えられるとでも考えたか?」

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