歪み、映すもの 11

 喉元にまとわり付く蔓は、呼吸を奪うことまではしなかった。音も立てずにゆっくりとユイスの薄い皮膚を這い回り、獲物が恐れをなすのを楽しんでいるかのようだ。それでいて決して力を緩めるようなことはせず、徐々にユイスの喉を締め上げる。少しずつ、少しずつ籠もる力は強くなり、ユイスの答えを急かしていた。この蔓が息の根を止めるまでが刻限だ、と。
「……まさか。そこまで愚かではありません。ただ、目の前の重要な手掛かりを見過ごす気になれなかったもので」
 その言葉にトレルは微かに顔をしかめた、ような気がした。人の物とは程遠い樹皮の肌では、それが如何ほどのものだったのかまでは解らない。しかし、彼の神経を逆撫でしたことは確かなようだった。
「何度も言わせるな。語ることなど何もない」
 今までに増して、声音が低くなる。しかし、ユイスが怯むことは無かった。この程度のことは想定の範囲内であり、そして確信していることがあったのだ。
「知らない、とは仰らなかったでしょう。クロック症候群とは何なのですか――そしてなぜ、貴方はそれを語りたがらないのですか」
 ほんの一瞬、トレルの動きが止まった。その仕草に、ユイスは自分の推測が正しかったことを知る。
 そう、彼は何かを知っている。ずっと引っ掛かっていたのだ。トレルの口振りは、知っているからこそ拒絶しているようだった。此方が無知であることにこそ、憤っているように見えたのである。恐らく、そこに手掛かりがある。だからこそ食い下がろうと決めたのだ。形振りなど、構っていられない。例えどんな小さなものだとしても、希望を掴んで帰らなければならないのだ――イロー達のような人々を、もう見たくはない。
 ギリギリと、蔓が気道を圧迫する。ユイスの回答は、好ましいものではなかったのだろう。首筋を締め付ける力が徐々に、しかし確実に強くなっていた。胸に抱いた思いとは裏腹に、与えられる苦痛に思考する力が奪われていく。
「……散々眷属を傷付けてくれたお主に、わざわざ話してやるとでも?」
 低く、トレルの声が震える。蔓はより強く、ユイスを窒息させようと首を絞め始めた。肺は空気を取り込めず、血流は遮られ、視界は白く霞んでいく。既に四肢は言うことを聞いてはくれない。それでも、唯一自由である唇でユイスは懸命に言葉を紡いだ。
「罰なら、受けよう。話してくれるのなら……私一人の犠牲で民が救えるなら、構わない」
 今にも途切れそうな意識の中、必死に声を絞り出す。命など惜しくはない。何も得られないまま終わる方が、よほど怖い。どんなに無様でも、最後まで足掻いてやる。
 ついに視界が暗転するかと思われたその時、ふと首を締め付ける力が弱くなった気がした。しかしその事実を認識する前に背部に強い衝撃を感じ、思わずユイスは咳き込んだ。一拍遅れて、地面に擲たれたのだと気がついた。
「……笑わせてくれる。救うだと? 犠牲だと? お主等は、己の業ゆえに滅びるのだ!」
 どういう意味だと、問う暇も無かった。呼吸を整えようと顔を上げれば、そこにあったのは。無数の緑の槍。鋭い穂先は、例外なく全てユイスへと向けられている。
 駄目だったか――そう、串刺しになる未来を覚悟した時だった。
「おりゃあああ!」
 どこかで聞いたような声が空気を切り裂くと同時に、視界が赤く染まった。肌に熱を感じる。咄嗟に目を庇っていた腕を下げると、煌々と燃える炎が、辺りを焼き尽くしていた。ユイスを狙っていた槍たちが、次々と灰燼と化していく。突然のことに呆然とその様を眺めていると、傍へ駆け寄ってくる気配があった。
「ユイス様! 大丈夫ですか!?」
「――レイア? どうしてここに」
 半ば叫ぶように呼び掛けながらユイスの横へ跪いたのは、町へ残してきた筈のレイアだった。余程慌てていたのか、長い髪の毛には木の葉が絡まり、服の裾も泥ですっかり汚れてしまっている。
「そんなことはどうでもいいんです! お怪我はありませんか」
 そんな自分の身なりなどお構いなしに、レイアは確かめるようにユイスの身体をあちこち触り始めた。今まで見たこともないほど必死の形相である。どれほどかといえば、状況を忘れてユイスがつい吹き出してしまうほどに。
「ユイス様、笑い事じゃないです」
「すまない。つい、な……大丈夫だ」
 むくれるレイアの肩を軽く叩き、身体を起こす。多少の擦り傷や打撲痛はあるものの、動くのに支障はなさそうだ。そうするうちに、巻き上がった粉塵の中から小さな影が飛び出してきた。
「おー、生きてたかー」
 その間延びした口調は、やはりイルファのものであった。姿が見えなくなった時はどうなるかと思ったが、彼も無事だったらしい。
「おかげさまでな。お前も無事で良かった」
「おれは人間みたいにヤワじゃないからなー。ちょっと目が回っただけだー」
「倒れてたのを、たまたま見付けて……合流出来て私も助かりました」
 礼を言われたイルファはそうだろー、と小さな身体で胸を張った。ユイスにしてみれば助け方が少々豪快すぎるように感じられたが、命拾いしたのは事実なので小言は控えることにする。――今はそれよりも、地の精霊王である。
「……余程、我を怒らせたいと見える」
 空気が和みかけたのも束の間、底冷えするような声がその場に響いた。怒気を孕みながらも抑えられていた先ほどまでとは違う、激情を露わにした声音。徐々に晴れつつある煙塵の向こうに意識をやれば、トレルはその緑柱石の瞳を憤怒に燃やしていた。
「娘、そして炎の眷属――如何にしてこの場へ来た?」
 視線を向けられたレイアの身体が強張るのが判った。トレルの怒りと共に、空気が重くなる。ともすれば気を失いそうな威圧感に、彼女は気丈にも前へ進み出た。
「ご無礼を働いたこと、どうぞお許しください。……森の精霊達が、導いてくれました」
「彼らが我が意志を裏切ったでも言うのか。戯言も大概にしてもらおう」
 有り得ないと、トレルは嘲笑する。しかしレイアは静かに首を振った。
「いいえ、事実です。王の命は無かった、と」
「なんだと?」
 不快そうに語尾を跳ね上げ、トレルは問い返した。同時に、彼の周りにいくつかの小さな光が舞い上がる。森の精霊達だ。彼らは囁き合うように近付いてはまた離れ、トレルの周囲を飛び交う。王の許しを請うているのだろうか。耳をそばだてても、その内容までは聞き取れなかった。
 前回この森を訪れた時に精霊がレイアの声に答えなかったのは、精霊王の意志ゆえだ。人と違い、それに具体的な言葉は必要ない。命は無かった、などおかしな話である。だが精霊達がそんな詭弁を振るい反逆にも等しい真似をするなど――これも聖女の力なのだろうか。
「……なるほど」
 その疑問に答えが出る前に、トレルの声が耳に入った。集っていた光が、彼から離れ飛び去っていく。それを見届けたトレルは、レイアへと視線を戻した。目を細め、貫くように凝視する。しかしそれは怒りに駆られたものではなく、まるで何かを見極めているかのようなものに思えた。いったい何を、と違和感を覚えた時、不意に威圧感が消える。
「やはり、時柱(ジチュウ)か。眷属達を責められまい」
「時、柱?」
 耳慣れない単語を繰り返す。否、どこかで聞いたことがなかっただろうか。あやふやな記憶を辿ろうとするが、眼前のトレルの変化を見てユイスは思考を止めた。現れた時とは逆に、絡まり合った枝の身体が解け、土の中へと帰って行く。
「お待ちください! いったい――」
「古き水の都を訪ねよ。望む結果は、得られんだろうがな」
 引き止める声も空しく、トレルはそれだけを言い残し瞬く間に姿を消した。森に、元の静寂が戻る。ユイスを狙う動く蔓も、すっかり大人しくなっていた。

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