歪み、映すもの 12

「……行っちゃった、みたいですね」
 今し方までトレルが居た見つめながら、レイアはへなへなと地面に座り込んだ。気が抜けたのだろう。ユイスもまた、敵意から解放された安堵に息を吐いた。しかし、それと同時に胸の内に疑問が湧き起こる。なぜ、攻撃の手を止めたのだろうか。あれほど憤っていたというのに、最後には道標とも取れる言葉さえ残した。有り難いというより、気味が悪い。彼は何を知っていたのか。クロック症候群とは、いったい何なのだろうか。
「……レイア、立てるか」
 どちらにせよ、こちらに何の手立ても無い以上トレルが残した言葉に縋るしかなさそうである。一抹の不安を抱きながらも、それを気取られぬようにユイスはレイアに手を差し伸べる。呆けたように座り込んでいたレイアだったが、掛けられた声に気付くと慌ててその手を取った。
「は、はい」
「怪我はないか」
「はい……って、それは私の台詞です! 一人でこんな所まで来て! 気付いたらいらっしゃらないですし、イルファも見当たらないし、どれだけ心配したと思ってるんですか!?」
 ユイスの問い掛けに頷いた後、レイアは思い出したように捲し立てた。言われるだろうとは思っていたが、想像以上の剣幕である。思わず一歩引き下がったユイスに、尚もレイアは畳み掛ける。
「あちこち探して、やっと追い付いたらなんだか襲われてますし! こんな危険なことを、しかも一人で……ご自身の立場とかも考えて下さい! 本当に、もう……」
 今にも掴みかからんばかりに怒りを爆発させていたレイアだったが、ある程度吐き出すと急激にその勢いが弱まった。最後には言葉を詰まらせ、深い溜め息がその唇からはこぼれていた。孔雀石の瞳も、怒りから憂いへと色を変えていく。
「……危険だから、だ。森に来ても、前回のように精霊が応えてくれない可能性もあっただろう」
 諭すようにゆっくりと、ユイスはレイアに声を掛けた。しかし、彼女は首を横に振る。
「理由になりません。私が足手纏いなら、他の者に護衛も頼めた筈です」
「精霊王に喧嘩を売りに行ったんだ。下手をすれば大罪になりかねないのに、神殿の者を巻き込むわけにはいかないだろう」
「それは……そうかもしれませんけど」
 ユイスの言い分に反論しきれなかったのか、レイアは口籠もる。かといって納得した様子でもなく、彼女は足元に落とした視線を上げようとはしなかった。このままでは、平行線を辿るばかりである――結局、折れたのはユイスの方だった。
「……悪かった、無茶をしたのは認める。今後は気を付けよう」
 ユイスとしては最善策を取ったつもりだったが、心配をかけてしまったのも事実だ。彼女にこんな顔をさせたかったわけでもない。出来る限り穏やかに声を掛け、目線を合わせるように彼女の顔を覗き込む。
「レイア?」
「……本当に、もう無理なことはしないでくださいね?」
「ああ」
 彼女の問い掛けにしっかりと頷くと、ようやくレイアは顔を上げた。完全に得心がいったという訳ではなさそうだが、とりあえず腹の虫はおさまったようだ。
「――さて。古き水の都、か」
 口論が一段落したところで、先程のトレルの言葉を思い返した。具体的な地名こそ示してはくれなかったが、ある程度は次の目的地を絞ることが出来そうだ。脳裏に地図を広げ、当てはまりそうな場所をひとつずつ選び出していく。水の都というからには港町か、或いは水の精霊に縁のある土地か。
「……水のやつらのところに行くのかー? やだなー、あいつらいじめるんだよー」
 ユイスが考えていることを悟ったのか、イルファがぼやく。確かに、炎の精霊にとっては水の気配が強い場所は居辛いのかもしれない。
「そう言うな。私達に協力するのはイフェン殿の命だろう?」
「そうだけどなー。でもなー、うー……仕方ないなー」
 炎の王の名をちらつかせると、渋々といった様子ながらもイルファは頷いた。彼には酷かもしれないが、ユイス達としては折角の精霊の助力を手放したくはない。
「ユイス様、とりあえずフェルダへ戻りましょう。神殿に資料があるかもしれませんし」
「そうだな。いつまでもここにいて、また不興を買っては堪らないし……ほら、イルファ」
 レイアの言葉に頷きイルファを促すが、彼は未だに眉間に皺を寄せ唸り続けている。余程、水の精霊と関わるのが嫌らしい。だが、こうしていても話が進まない。仕方なしに、ユイスは朝と同じ手を使うことにした。
「……ビスケット増量だったな?」
 ビスケット、という単語に、あからさまにイルファの身体が震えた。
「そうだ、そうだったぞー! 約束したからなー! さっさと帰るぞー!」
 途端、息を吹き返したかのようにイルファはくるくると上空へ舞い上がる。やたらと嬉しそうな声が聞こえたかと思うと、あっという間に町の方向へと飛び去ってしまった。普段の倍ほどはありそうな速度である。これには、ユイスも溜め息を吐くしかなかった。
「全く、フェルダに来てからずっとこんな調子だな」
「……追いかけましょうか」
 隣で苦笑するレイアに頷き返し、ユイスもまた帰路へと足を踏み出した。最初に森に訪れた時より、随分と足取りは軽い。小さな不安の種はあれど、行くべき道筋が見えているのが強い心の支えとなっていた。
 ――望む結果は得られんだろうがな。
 不意にトレルが残したもう一つの言葉が甦り、足が鈍る。それが何を示しているのかは判らない。否、あえて考えないようにした。クロック症候群の治療法は見つかるのか、そもそも本当にそんなものは存在するのか――疑ってしまっては、進めなくなってしまうではないか。
「ユイス様?」
「いや、なんでもない。行こう」
 訝しげに振り返ったレイアに首を振ると、胸にかかった靄を振り払うようにユイスは歩調を早めた。
 何があろうと、旅の目的は成し遂げなければならない。そのために歩みを止めてはならないのだ。そう再び決意を固め、ユイスはトレルの森を後にしたのだった。

コメント