歪み、映すもの 3

 イローのねぐら、と名付けられた町唯一の宿屋は、こぢんまりとしていたが中々に快適なものだったと思う。主人が大変気さくな人柄で、慣れない町だからと細やかな気配りをしてくれたお陰だろう。部屋も人数の割りに広いものを用意してくれたし、食後にはおまけだぞ、と言ってもぎたての林檎を切ってくれたりもした。何でも若い旅人が泊まるのは久しぶりらしく、随分張り切っていたようである。
「……確かに、年配の客が多いようだな」
 手にした本のページを捲りながら、ぼんやりとユイスは呟いた。朝食を摂るために訪れた食堂では、既に他の客がちらほらと見受けられていた。皆、壮年かそれ以上の者ばかりである。いくら神殿があるとはいえ、不便な田舎町を積極的に訪ねる者は少ない。よほど熱心な巡礼者か、そうでなければ近場の者か。それらに熟年者が多いことを考えれば、当然の光景なのかもしれない。
「そうですね……ところで、ユイス様。昨日から気になってたんですけど、その本はどうされたんですか」
 相槌を打ちながらも、レイアの視線はユイスの手元へと注がれていた。そういえば言っていなかったかと、ユイスは本を軽く掲げて見せた。
「ああ、これか? 神殿から借りてきたんだ。ぼんやりしてる時間が勿体無いからな」
 革の表紙の、古めかしい本だった。紙は黄ばんでいるし、文字も所々擦れて読めなくなっている。読み物としての状態は非常に悪いが、統合以前のエル・メレクの歴史が記された貴重な資料である。クロック症候群についての前例がないかと、昨夜から目を通していたのだ。
「よく、レナード司教が貸してくれましたね……」
「司書に事情を話したら快く貸してくれたぞ。こちらで話は通しておくと」
 滞りなくそう説明していると、テーブルでビスケットを齧っていたイルファが思い出したように声を上げた。
「おー、おれ知ってるぞー。ワイロっていうんだよなー」
 イルファが軽く言い放った言葉を聞いて、レイアの表情が一瞬凍った。そのままイルファを暫く見つめたかと思うと、ゆっくりと視線を移す。
「……ユイス様」
「なんのことだ」
 思わず舌打ちしたくなるのを堪えて、ユイスは平静を装った。見ていたのか、というより精霊がなぜ賄賂などという言葉を知っているのか。
「嘘は良くないぞー。なんか渡してたの見たぞー」
「渡したんですね……?」
 追い討ちをかけるイルファと、レイアの引き攣った微笑みに根負けし、ユイスは息を吐いた。
「……情報が少しでも欲しいんだ。司教は耳を貸さなかっただろうし、仕方ないだろう」
 恐らくレイアが気にするだろうからと、あえて濁していたというのに。恨みがましくイルファをみれば、本人は何食わぬ顔で再びビスケットを齧り始めていた。
「大丈夫、なんですか? そんなことしちゃって……」
「手掛かりを得るための必要経費だ。こうしている間にもクロック症候群が広がっていることを考えたら、手段を選んでばかりもいられないだろう」
 きっぱりと言い切ると、ユイスは本に視線を戻した。無論、そんなことをしないで済むならそれに越したことはない。しかし大勢の民を救うためと思えば、法に少々背くことに躊躇は無かった。何か言いたげなレイアに声を掛けるもことはせず、紙面の文字を追う。既に八割程を読み終えていたが、今のところ新たな収穫は無かった。
「……そういえば、使いの者とやらは随分と遅いんだな」
 次のページを捲ろうとしてふと思い立ち、ユイスは腰帯に留めていた鎖を引き時計を取り出した。蓋を開いて時刻を見れば、短針は既に頂点に近い。朝と呼ぶにはとうに遅い時刻である。レナードが寄越すと言った使者は未だ訪れない。これでは、待つうちに本の残り二割も読み終えてしまうだろう。
「そうですね、確かに……神殿に行ってみましょうか?」
「そうだな。どうも、レナード司教は人を待たせるのがお好きらしい。忘れられてないといいんだがな」
 それについてはレイアも同じことを思っていたようだ。彼女の提案に、ユイスは即座に頷き返した。そろそろ堪忍袋の緒も切れそうだ。これ以上無為な時間を過ごしたくない。早速行動に移すべく席を立とうとすると、唐突にユイス達に声が掛けられた。
「あのー、お二人さんよ」
 振り返れば、そこにいたのは昨夜から世話になっている宿屋の主人――店名にもある、イローという男だった。髪の毛を短く刈り込み、恰幅の良い身体を持つ大男である。短い時間ながら話をして彼に持った印象は、豪快にして大雑把、といったものだった。しかし、今の彼はその印象とは全く別の様相である。身体を小さく縮こまらせ、妙に宿の入口の方を気にしている。落ち着きのない様子を不思議に思いながらも、ユイスは先を促した。
「……私達が、何か?」
「いや、なんか司教様の使いだとかいう奴が来てるんだけどよ、あんたらで間違いないか? 金髪の髪の長い子と、黒髪の少年って言うから」
 その内容を聞いて、思わずユイスは息を吐いた。こちらが痺れを切らした頃にようやくお出ましとは。
「ええ、間違いないです。こちらで待たせてもらってたんです」
 レイアが答える傍らで、ユイスはひっそりとイルファを小突いた。出発するぞ、という言葉の代わりである。なんだよー、と未だビスケットを齧り続ける口から抗議の声が上がるが、イローがいる手前返事はしないでおく。
「わざわざすまない。帰りがいつ頃かは判らないが、恐らく今晩も世話になる」
「そりゃあ勿論構わねぇが、あんたら何者だい? 司教様の使者だなんて……それに、クロック症候群がどうとか聞こえたけど」
 どことなく強張った声で、イローは早々に立ち去ろうとするユイス達を引き留めた。訝しげな表情からは、こちらへの不信感にも似たものを感じ取れる。わざわざ神殿の者が出向いてきたのだ、単なる観光客や巡礼ではないことを察したのだろう。このまましらを切るのは少々苦しいかもしれない。目線だけでレイアを見ると、彼女も同意するように小さく頷いた。ある程度、説明してしまった方が良さそうだ。
「ルーナの神殿から遣わされた者です。ジーラス大司教の命で、クロック症候群の治療法を求めてこの地へ来ました」
 淀みなくレイアが答えた。何か尋ねられた時にと、予め用意していた台詞である。無難な内容を並べただけのものであったが、それを聞いた途端イローは血相を変えた。
「――治療法が、見つかったのか!?」
 今にも掴みかかりそうな勢いで、イローはレイアに詰め寄った。人好きのする朗らかさは彼方へ消え去り、鋭く彼女を睨み付ける。
「……まだ、手掛かりがあるかもしれない、という段階だ。残念だが」
 たじろぐレイアを庇うように間に入ると、ユイスは静にそう告げた。イローは唇をわななかせたまま、その先を続けることはなかった。僅かの間、場は沈黙で満たされる。周りの客でさえ、イローの剣幕に驚き口を噤んでいた。不意にイローはその異様な雰囲気に気付いたようで、慌てたように笑顔を取り繕う。
「ああ、いや……何でもないんだ、気にしないでくれや! な!」
 ぎこちないながらも愛想笑いを振り撒くイローに安堵したのか、客達の視線はユイス達の席からゆっくりと逸らされていく。それを確認すると、イローは大きな溜め息と共にがっくりと肩を落とした。
「あの、ご主人……」
「悪かったな嬢ちゃん、びっくりさせて。ちょっと訊いてみたかっただけだよ。忘れてくれ」
 そう言うものの、イローの瞳には明らかに落胆の色が宿っていた。気遣わしげなレイアの追及を拒むように、扉を指し示して彼は言葉を重ねる。
「ほら、出掛けるんだろ。使者殿がお待ちかねだ、急いだ方がいいんじゃないか? 引き留めてすまんかった。じゃあな!」
 それだけ言い残すと、イローは足早に仕事へと戻って行った。口を挟む隙もない。何も聞いてくれるな、そう告げられているかのようだった。
「……急いだ方がいいのは事実だな。行こう」
「ユイス様……」
 呆然とイローの背中を見送るレイアの肩を叩く。彼の様子は確かに気になるところではあったが、ようやく訪れた使者に帰られても困る。イローのことは、また宿に帰ってから話をすることもできるのだ。レイアは何度かユイスの顔とイローの去った方とを見比べていたが、最終的にはユイスに向かって頷いた。
「終わったかー? 出発するかー? 待ちくたびれたぞー、おれ先に行くからなー!」
 こちらの心境にさして関心はないのか、会話が途切れたと見るなりイルファが宙に舞い上がった。かと思えば、あっという間に出口へ向かって飛び去っていく。
「またあいつは! 大人しくしていたかと思えば……レイア、いくぞ」
「あ、はい!」
 イルファに続き、ユイス達も慌ただしく扉へと歩き出した。
 ――一度だけ振り返って見たイローの後姿は、やはり憂いに満ちていたような気がした。

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