犠牲 7

 人気のない廊下に、足音が高く響く。既に就寝しているであろう人々への迷惑は、既にレイアの頭からは抜け落ちていた。階段を駆け下り、食堂を抜けて玄関の扉を開け放つ。途中で夜通し仕事をしていた神官に何か声を掛けられた気がしたが、構ってはいられなかった。屋外へ飛び出し、ささやかな前庭を越え更に宿の門から外側に数歩踏み出して、レイアはようやく足を止めた。流石に、着の身着のままであてもなく町に出るのはまずい。辛うじてそう判断できるだけの理性は残っていた。今は町全体が喪に服している。昼夜問わず人通りは少なく、活気がなかった。それだけならいいが、こういう時はならず者が横行しやすいものだ。加えて風の神殿での一件でリエドの住人たちは気が立っている。余所者がふらふらと出歩いていては、何があるか分かったものではない。
 かといって、大人しく部屋に戻ろうとも思えなかった。衝動と逡巡を持て余し、レイアは結局すぐ傍の門に凭れて座り込む。
「やっちゃったなぁ、色々と」
 ほとんど口の中だけで呟いた言葉が、静寂の中でやけに耳につく。夜の町は不気味なほどに沈黙を守っていて、山から吹き下ろす風や草むらの野花でさえ音を立てることを憚っているようだった。
 走って乱れた呼吸を整えようと、大きく息を吸い込む。冷えた空気が肺を満たすと、針が刺さすような感覚がレイアを苛んだ。こうしていると周りの世界が自分を責め立てているように感じる。だが、何を責められているのだろう。神殿での惨劇か。クロック症候群の真実についてか。つらつらとそんなことを考えて出た結論は、レイアの行動や心持ち全てだろう、というものだった。
「……なんで、言い合いになんかなっちゃったんだろう」
 後先を考えず声を荒げた後悔で、喉がひりついた。今でも、自分の言い分が間違っていたとは思わない。優先されるべきは国とその民であって、レイアの命ひとつでエル・メレクが救えるなら安いものだろう。そうすればユイスが危険な旅をする必要もなくなる――だというのに、彼があんなに傷ついた顔を見せるとは。
 後ろ暗い喜びが胸に湧き上がるのを感じて、レイアは身を縮めるようにして膝を抱え直した。今より遠慮がなかった幼少期でさえ、ユイスは声を荒げることも取り乱した様子を見せることもなかった。時に呆れたような顔をしながらも、優しく諭してくれたものだ。その壁が崩れたのが自分を庇ってのことなのだから、癇癪を起す裏で舞い上がってしまうのは必然だった。ユイスはいずれ国を背負う人間だ。どれほどレイアが彼を想っても、彼がレイアだけを選ぶことはない。だがほんの一時、たった一言であったとしても、己の願望が叶ってしまった。この旅自体もその一つだ。ユイスと常に共にあるのはレイアで、彼が一番に声を掛けてくれるのもレイアだった。クロック症候群で苦しんでいる人々がいると分かっていても、ずっと今が続けばいいとさえ思っていた。全てが解決すれば、またあの窮屈な神殿で一人過ごさなければならない。次第にユイスは遠い人となり、胸に抱えた旅の記憶も薄れていく。それを思えば、人柱でもなんでもユイスの記憶に残れるのは悪くない気がした。だから彼は構わずレイアを犠牲にすればいいのだ――だが、こんなことを言えばまた口論になってしまいそうだ。
 ひときわ強い夜風に吹かれ、レイアは身を震わせた。飛び出してきてからさほど時間は経っていないように思ったが、自覚する以上に体温が奪われていたようだった。そろそろ部屋に戻るべきだろう。床に就いたところで眠れる気はしないが、ここに居座って風邪を引くのも馬鹿らしい。そう結論付けて腰を上げようとしたレイアの視界の端に、不意に見慣れた影が映りこんだ。
「……イルファ?」
 ふらふらと道端を浮遊していた小さな影は、レイアの呼びかけに動きを止めた。もう一度、今度ははっきりと声を掛けると、彼は音もなく宙を滑りレイアの鼻先で静止した。
「なんだー、お前かー。人間は夜は眠るんじゃないのかー?」
 イルファはそう言いながら身体を翻し、当然のような顔でレイアの頭の上に納まった。いつもの位置、である。間延びした彼特有の喋り方とともしびのような温もりに、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ気がした。
「眠れない時もあるんだよ。イルファはこんな所でどうしたの? 何か考え事?」
「考え事って、何を考えるんだー?」
 イルファの返答にレイアは微かに苦笑した。人の感情の機微を言語として伝えるのは、幼い精霊には難しいのかもしれない。どう言ったものか、自分なりに説明を噛み砕く。
「時柱のことはイルファも話を聞いたよね。エルドのこととか……心配なのかなって」
 エルドの名前に、イルファは小さく首を傾げた。その瞬間、この話はするべきではなかったかもしれないと後悔する。一見いつも通りに見えるイルファだが、彼とて落ち込んでいるはずだった。いつもの騒がしさが鳴りを潜めているのが良い証拠である。エルドがヴァルトに乗っ取られたような状態なのもクロック症候群による現象であり、時柱がないまま世界が不安定な状態が続けばエルドがどうなるか分からない。一刻も早く事態を収束させたいのは彼もきっと同じだ。そのためにはエルドの身体を使うヴァルトと再び対峙しなければならないという葛藤もあることだろう。なにより、原因に深くかかわる自分が言っていい言葉ではない気がした。
「んー、あいつが消えることになったら、なんかやだなー」
「そう、だよね。友達だもんね」
 やはりどこか沈んで聞こえるイルファの声に、レイアは静かに相槌を打った。言葉にすることが難しくても、多少感覚が違えども、友を思う気持ちは人も精霊も大差ない。イルファのためにも、早く新たな時柱を据えなければならないだろう。ユイスにはどうにか頷いてもらわなければ――そう決意を固めかけた時、レイアの思考を素朴な疑問が遮った。
「トモダチ、ってなんだー?」
「え?」
 深い意味の問いかけではなく単純に言葉の意味を尋ねたいのだと気付くまでに、暫しの時間が必要だった。思いもよらないイルファの返しに戸惑いながらも、レイアは思案した。友達、の基準とは。
「同じ時間を過ごすのが自然な相手、とか、一緒に何かをしてて楽しい相手のこと……かな」
 果たしてそれが正しい意味なのかは分からない。しかしイルファは得心がいったようで、繰り返し頷いては何気ない顔で呟いた。
「じゃあお前らもトモダチかー。トモダチが消えるのは嫌なことだなー」
 その言葉に、心臓が跳ねた。ユイスだけではなく、イルファも自分の命を惜しんでくれるのか。精霊として、まして王になる存在であるなら、犠牲になれとレイアに命じるのも当然であろうに――これではまるで、自分の方が間違っているようだ。
「そっか……ありがとうね」
 礼を言いながら、レイアは目を伏せた。自分にそんな風に惜しまれるほどの価値があるとは思えない。人助けと称して厄介ごとに首を突っ込む癖も誰かのためだなんて理由は建前で、ユイスのために役立てることが他に思いつかないからだ。ある程度大人になっておしとやかに振舞うようになったのも、彼に認められたかったから。どこまでも利己的な人間なのだ。だから、答えは決まっている。それなのになぜ周りはレイアを惑わそうとばかりするのだろう。まだ生きたい。ここにいたいと願ってしまう。この思いは誰が断じて、誰が許してくれるのだろう。
 再び思考の渦に飲み込まれそうになったその時。頭の上から小さなくしゃみが聞こえた。精霊も風邪を引くのだろうか、という疑問はさておき、レイアは今度こそ腰を上げた。イルファの仕草は人間の模倣という遊びの一種なのかもしれなかったが、外に長居しすぎたのも確かだ。
「戻ろうか、イルファ」
 レイアが動き出すのと同時に、イルファも宙に舞う。しかし先に行くかに見えた彼はそれ以上動かず、呼びかけにも応じなかった。
「どうかしたの?」
 不審に思って問い掛ければ、イルファは無言で宿の方向を指さした。顔を向ければ、見慣れない人影があった。闇に浮かぶような銀髪に、白い肌。町の住人にしては違和感がある。夜中に出歩いていること自体もだが、巡礼者を相手に商売する素朴な町で、レースをふんだんにあしらったドレスなど着ることはそうないだろう。首を傾げていると、ふと人影がこちらを振り返った。その顔に、レイアは息を呑む。
「貴方は!」
 メネ、と呼ばれていただろうか。海底の神殿でまみえた時柱の片割れだった。表には出られないといったような話をしていた気がするが、なぜこんな場所にいるのだろうか。いや、なぜと問うたところで意味はないし、無駄なのだろう。人ならぬ彼女たちがわざわざ出向いてくるなら、時柱の件に他ならないだろう。自分か、それともユイスに会いに来たか。
「なんの、ご用ですか」
 経験上あまりいい予感はしないが、レイアは意を決して話しかけた。どうせ聞くなら早く済ませてしまった方がいい。しかし、これに顔を顰めたのはメネの方だった。
「……誰?」
「誰って……」
 相手の口から出た言葉に絶句する。海底に招いたのは彼女たちであったし、帰りも散々な目に遭わされた。第一、レイアは次の時柱となる存在である。いくら人間とそうでないものとの立場の違いがあるとはいえ、顔すら覚えていない傲慢に憤りを覚えずにはいられなかった。
「海底神殿で随分荒っぽくお見送りしてくださったのをもうお忘れですか。何をしに来たの」
 強張った声で同じ疑問を投げかけるが、メネの反応は鈍かった。睨みつけるレイアとは対照的に、彼女はこちらに視線すら寄越さない。焦点の合わない瞳で、何事かを呟くばかりだった。
「そう、時柱……なんだっけ。すごく苛々していたはずなんだけど。早く帰らないと」
「ちょっと、待って!」
 ふらりと幽鬼のように歩き出したかと思うと、メネの身体が徐々に透けて闇と同化し始める。咄嗟に手を伸ばしたレイアだったが、その指先が届く前に彼女の姿は掻き消えてしまった。
「……いったい、なんだったの」
「さあなー」
 イルファが頭上に戻ってきた気配がした。精霊の彼に分からないなら、謎であるとしか言いようがない。無意識に入っていた身体の力が抜けて、急激に疲労が襲って来る。今ならよく眠れるかもしれない。
「帰ろう」
 深く息を吐く。ノヴァやメネの思考など理解できるはずもない。きっと深い意味はなかったか、イルファと揃って立ったまま夢でも見ていたのだ。そう結論付けて、レイアは宿への帰り道を歩き始めた。
 ――実際、それ以降彼女たちの接触はなく、この出来事はレイアの胸に秘められたまま一行はリエド出立の日を迎えた。

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