犠牲 6

 自身が異端の存在であるという自覚が芽生えたのは、いつのことだっただろうか。気付いた時には既に周囲から崇められ、或いは気味悪がられ、一人で違う世界に取り残されていた。きっと明確な転換点があったわけではないのだと思う。ただ、最初のきっかけだけははっきりと覚えている。あれはまだ、レイアが物心付くかどうかの年頃だった。
「ああ、またあの娘か。バーンの家の」
「頭がいかれているのか、虚言癖か……あれ自体が何か良くないものかもしれん。近寄らないに越したことはないな」
 麦畑の隅で友人たちとじゃれあっていた時に、ふと耳に入った大人たちの会話だった。侮蔑、嫌悪――そう言った言葉の意味を理解していなかった当時でも、まとわりつくような悪意だけは感じ取れる声だった。首を巡らせ声の主を探し当てると、それに気付いた大人たちは気まずそうにその場を去っていく。
『気にすることはないのよ。貴方は素晴らしい』
 そう言って慰めるようにレイアの髪を弄んだのは、身体にいくつのも花を咲かせた地の精霊だった。ずっと昔から畑を見守っているという彼女のことも、小川で魚と戯れる水の精霊も、時々暖炉の火に悪戯する火の精霊も、他の人間にとっては日常ではなかったのだ。
 レイアが生まれたのは小さな農村で、両親は何の変哲もない善良な夫婦だった。村人たちは素朴で優しく、けれど小さな共同体であるがゆえに排他的だった。そんな中で生まれた『精霊と遊ぶ子供』という異質な存在。それはいつしか近隣の村や町にまで噂が広がり、バーン家は村の中で孤立しがちになった。それでも両親は愛情をもってレイアを育ててくれていたと思う。しかし愛にも限界があって、時が経つにつれ父母の存在を持て余し当たり散らすようになった。噂を聞きつけて村を訪れた神官にこれ幸いと預けられたのも、当然の成り行きだったのだろう。訳もわからぬままルーナの神殿で暮らすようになったのが六つの時。たとえ自分の意志がそこに無かったとしても、両親と故郷にとっては最良の選択だったのだ。恐らく、いつまで経っても村に馴染めなかったレイアにとっても。
 そういった経緯でレイアを取り巻く環境は変わったが、だからといって疎外感がなくなったわけではない。神殿では、まず教わるのは精霊と人にまつわる基本中の基本を叩き込まれた。レイアの友人たちは精霊という神に近しい存在で、彼らの存在を認知できる人間をエレメンティアと呼ぶ。彼らの多くは神殿で精霊のために奉仕しているのだという。それを知った時は、自分と同じ世界を見ている人間がいると思って喜んだ。実際のところは見える程度の差が大きく、向けられた感情が悪意が好奇に変わっただけで、居心地の悪さは大差なかった。
 今思えばあちこちで悪戯を仕掛けていたのは反動のようなものだったのだ。皆が自分に注目しているのに、孤独は癒されない。その鬱憤や寂しさを紛らわそうとレイアは尚のこと精霊たちと同調するようになった。彼らにそそのかされて働いた悪行も少なくはない。ままならない感情を発散する方法を、レイアは他に知らなかった。
 ――そんな鬱屈としたレイアの日常を照らしたのが、あの人だった。
「まさか、噂の聖女様がこれほどお転婆とはなぁ」
 背後から掛けられた声に、レイアは首を捻った。今の自分に声を掛けるような物好きに心当たりがなかったからだ。なにしろこの時のレイアのなりといったら酷いもので、水の精霊と戯れたおかげで全身ずぶ濡れ、それを咎められるのを恐れて中庭の植え込みに蹲り泥だらけ、という有様だった。通りがかりの神官ならば、眉をひそめるだけで話しかけはしないだろう。彼らはレイアとの接触を避けたがる。ならば世話役の女性に見つかったのかと思ったが、どうもそれとは感じが違う。訝しみながら振り返ると、そこにいたのは一人の少年だった。短く切り揃えた黒髪に、簡素なシャツとズボン。神殿の関係者には見えない。だが参拝者でもなさそうだ。質素ないでたちとは裏腹に、背筋の伸びた立ち姿は美しく、どこか気品が滲んで大人びて見えた。
「これは、早く帰って着替えた方がよさそうだ」
 目を丸くするレイアに苦笑すると、少年は優雅な所作で眼前に屈みこんだ。叱責を予測して肩が震える。しかし彼が声を掛けたのはレイアではなかった。
「失礼、大地に属する御方。貴方の友人がこのままでは風邪を引いてしまいますので、ここから連れ出すことをお許し頂けますか?」
 視線はレイアのすぐ横。肩のあたりにまとわりついていた小さな地の精霊だった。話しかけられているのが自分だと気付いた彼女は、小首を傾げて幾度か少年とレイアの顔を見比べた後地面の中へと溶けていった。
「さて、行こうか。ジーラス殿が心配していた」
 差し伸べられた手を、レイアは呆けたように見つめていた。その手が自分に向けられているという現実が信じられなかった。幻覚でも見ているのか、とは昔よく投げかけられた言葉だったが、精霊などよりよほど非現実的なものを見ている気がする。痺れを切らした少年に腕を引き上げられるまで、レイアは声を発することも出来なかった。
「見えるの?」
 ふらつきながら立ち上がりようやく口にしたのがその一言だった。少年は目を瞬かせ首を捻ったがしばらくして、ぽん、と音を立てて手を打った。
「身体に蔦の巻き付いた、ふっくらした体系のご婦人だった。合っているかな」
 少年が口にした内容は傍にいた精霊の容姿を的確に表していて、レイアは慌てて何度も頷いた。頬に熱が集まっていくのが分かる。初めてだった。好奇の目で見られないのも、自分以外が精霊と対話する場面を見るのも。この少年にも、自分と同じ世界が見えている。それを理解した瞬間から、彼はレイアにとっての特別だった。
「さぁ、納得出来たら戻ろうか。私はユイエステル。勉強のためにしばらくこの神殿に滞在することになったんだ。顔を合わせることもあるだろうから、よろしく頼むよ」
「ユ……?」
「呼びにくければユイスでいい」
 少年の提案に、レイアは一も二もなく頷いた。後になってみればよく処罰されなかったものだと思うが、ユイス自身が周りに口利きしてくれたのだろう。レイアは今でもそれに甘えてしまっている。
「それで、君のことは何と呼べばいいのかな」
 そう訊ねてくれたのも、きっとユイスの優しさだったに違いない。ルーナの神殿を訪れるならレイアの名を耳にする機会はいくらでもあっただろう。既にジーラスとの面識があったなら尚更だ。しかし彼は初めて出会った者同士の自己紹介として話してくれた。見知らぬ人なのに相手は自分を知っているという気味悪さを、ユイスは分かっていたのだ。
「……レイア」
 おずおずと自分の呼び名を口にすると、ユイスは微かに微笑み頷いた。名乗ったのは昔から馴染みのある、生まれた時に付けられた名前だった。フェルレイア、というのは神殿から与えらえた名で、元の響きを残してはいても当時は受け入れ難いものだったのだ。
「レイア、だな。行こうか」
「――はい!」
 だからこそ彼がすんなりとその名を呼んでくれたことが堪らなく嬉しく、レイアはようやく居場所を得られたような気がした。この手を決して手放すまいと、身の程知らずにも思ったのだ。
 ――そう、彼を失ってはならない。そのためなら何でも差し出すということは、レイアの中ではもう随分昔から決まったことだったのだ。

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