神殿の門前から見上げた、山の木々を追い越し天へ伸びる塔。ここでは、それが風の王を祭る聖殿の役割を担っているらしい。ヴァルトが残した言葉に誘われるまま、ユイス達は塔へ向かって歩を進めた。案内役であった少年はいなくなってしまったが、迷うこともない。途中には道標代わりとでも言うように神官達の遺体が点々と転がっていて、生存者はいないかと改めるうちにいつの間にか塔の入口に辿り着いていた。彼らの息を確かめる度、微かな期待が打ち砕かれたのは言うまでもない。
「レイア。本当に大丈夫か」
「……はい。ここまで来たのに、私だけ待ってるわけにはいかないです」
外で待っているか、という問いに頑なに首を振りつつも、レイアの顔は青ざめていた。イルファも先程から黙ったままだ。口にせずとも、みな思うことは同じだろう。なぜ神殿がこのような事態になったのか。エルドは初めから自分達を騙していたのか、それとも気が触れてしまったのか。そして彼らの目的はなんなのか。あるのは疑念と不安ばかりだ。だからこそ、ヴァルトとシルの真意をはかるために塔を登らねばならない――或いは、死体の山の仲間入りをする可能性があったとしても。
扉の戒めはとうに取り払われ、塔はユイス達を招き入れるように上層への道を開いている。再度、意を決して、ユイスは石の階段を登り始めた。無言のまま、レイアが後に続く。
重々しい外観に反して、意外にも中は明るく快適な湿度が保たれていた。適当な間隔で外壁に窓が開いているお陰だろう。内装は機能的な造りを重視しているようで、装飾らしい装飾は殆どない。ひたすらに白い階段と白い壁が続き、時折切り取られた窓から空と森の色が覗く。それだけの景色を延々と眺めていると、抜け出せない迷路に嵌まってしまったかのような感覚に囚われた。一段、また一段と階段を上るごとに足が重くなる。それが単なる疲労ではなく頂上で待つものへの恐れであると、ユイスは自覚していた。
精霊が、自分に信仰を捧げていた者達の命を奪った。それも精霊王が、特定の人間に与して、である。歴史かを見ても、人は精霊を崇拝したが、精霊は気まぐれに恩恵を与えることあれど人と直接に関わることはなかった。ユイスのようなエレメンティアでも同じことである。ある意味では虚しい偶像崇拝と言えなくもないだろうが、精霊達が無関心であることが人の世の秩序を守っていたのだ。それが破られてしまえば――つい先程見た通りの惨状となる。万が一、これが麓の町、更には国中に及ぶことになれば人に抗う術はない。相手は、圧倒的な力をもつ精霊の王なのだから。今になって思えば、出会った精霊王達が協力を渋ったのはこのような事態を懸念していたのかもしれない。
そして、ヴァルトの口から時柱という言葉が出たことが不吉さを際立たせていた。海底の神殿で、ノヴァは『精霊が噛んでいる』と言った。彼らが奪い、ここへ隠した――もしそうだとしたら、時柱が何を意味するものなのか知ってのことなのだろうか。だとしたら、彼らは人を滅ぼしたいのか。精霊王の力があればそれも容易い。蔓延するクロック症候群。神官達の惨状。既にそれは現実となりかけている。このまま崩壊が進んでも、人に無関心な他の精霊達が味方をしてくれるとは限らない。人間は、これまで精霊の慈悲と気まぐれによって生かされてきたにすぎなかったのだ。
風が吹いた。どれほど登って来たのだろうか、下で感じていた空気よりも匂いが澄んでいる気がした。息を整え、残り数段を上がりきる。頂上へ続く扉はやはり閉ざされてはいなかった。大きく開いた窓、六角形の部屋を囲むように立ち並ぶ白い柱。部屋、というよりは鐘楼に似た雰囲気を持つその場の中央に、彼らは待ち構えていた。
「来たな。長い階段をご苦労様」
まず聞こえたのはヴァルトの声だった。その傍らには変わらずシルがいる。しかし、真っ先にユイスの視線を奪ったのは彼らの背後にあるものだった。澄んだ薄緑の、巨大な結晶。海底の神殿で目にした物とよく似ている――いや、全く同じだ。ちょうど抉り取られていた穴に収まりそうな大きさだった。ユイス達が探し求めていた物に間違いない。だが、驚いたのはそれが内包していたものだった。
「……人?」
結晶の中央。どこか氷水のようにも思える色の中に、一人の少女の姿が見えた。長い髪を編み、刺繍の入った長衣に身を包んで眠っている。結晶はさながら、彼女にお誂え向きの硝子の棺のようだった。ノヴァが言っていた時柱の核とは、まさか。
「その様子だと、彼女達は詳しい説明をしなかったんだな」
投げかけられたヴァルトの言葉は、どこか呆れているようにも聞こえた。彼女達、というのがノヴァとメネを指していることは間違いない。海底の神殿についても既知であるということだ。もはや真実は、疑いようもない。
「時柱を奪ったのは、お前達か」
「見ての通りだよ」
悪びれる素振りもなく、ヴァルトはあっさりと己の罪を肯定した。薄笑いを浮かべてすらいる。その様に、苛立ちと憤りが一気に膨らむ。多くの人が苦しむことになった原因をこうも軽々しく扱うなど、正気の沙汰ではない。
「まぁ、あまり怒らないでくれ。私だってなんの理由も無しにこんなことをしたわけじゃない」
「理由? そのせいで既に大勢の命が失われているのに、どんな理があるというんだ」
吐き捨てるように問い返す。どんな訳があったとしても、彼等がした事に変わりはない。この期に及んで恩赦でも乞おうとでもいうのか。しかし、ヴァルトの答えはそうではなかった。
「それこそが望みだからね。まぁ一言で言うなら私怨だ。復讐なんだよ、これは」
告げられたあまりにも身勝手で単純明快な言葉に、ユイスは一瞬虚を突かれた。私怨。復讐。そんなもののために、人々は苦しめられてきたというのか。
「……どんなご高説を垂れるかと思えば、私怨だと? 誰に何の恨みがあるかは知らないが、ふざけるな!」
憤りを抑え込むのは最早不可能だった。高ぶった感情はそのままに、ユイスはシルに視線を移した。
「貴方もだ。風の精霊王とお見受けするが、何を考えているんだ。全て知っていて彼に協力しているのか」
辛うじて口調は崩さなかったものの、刺々しさが声音に滲み出る。精霊に対する敬愛を、彼女に感じることは既に出来なかった。詰問されたシルは、静かに目を伏せ呟く。
「私は、ヴァルトの思うようにして欲しいだけ。今の私にはそれが全て」
それきりシルは口を閉ざし何も語ろうとはしなかった。何故かは分からないが、随分と彼に肩入れしているようだ。こちらの話に耳貸す気は無いと見える。ならば、とユイスは身構えた。
「イルファ」
小声で名を呼ぶと、未だに困惑した表情を崩さないながらもイルファが進み出た。なんであれ、時柱は取り戻さねばならない。精霊王が相手では力の差は歴然だが、彼女はヴァルトを守ろうとしているようだった。ならば、イルファに少しでもシルを抑えてもらい、ヴァルトを捕らえる。そうすれば交渉材料にもなるだろう。
しかし、それを察したかのようにヴァルトが動いた。
「やめた方がいい、炎の精霊。大事な友達を傷付けたくはないだろう?」
敢えてシルを庇うように身を晒し、ヴァルトは宣言した。怯んで微かに後ずさるイルファに、彼は更に追い討ちをかける。
「流石に、私も生きたまま燃やされるのは御免だ。どうしてもと言うなら彼に『代わって』もらうよ。だが親しくしていた者に焼かれたとあっては、この少年も浮かばれないな」
イルファの表情が明らかに強張る。その様子を見て、ユイスはヴァルトが言い終えぬうちにイルファを背後へと追いやった。控えていたレイアがそれを受け止める。この期に及んで友を名乗るなど質の悪い冗談としか思えなかったが、エルドに親愛を感じていたイルファには堪えるのだろう。もしそれさえ見越してイルファとの関係を築いていたとするなら、あまりにも卑劣、かつ頭の回る人物である。だが、そう言い切るにはいくらかの違和感が残った。エルド、もといヴァルトは自分達を貶めるために本性を隠していたのだとユイスは考えていた。しかし、ヴァルトの言い方はまるで――。
「一つ確認するが、お前とエルドは別の人間、か?」
多重人格、というものを聞いたことがある。切り離された人格は元の人格を認識しているが、逆は覚えていないらしい。原因は不明だが、そういった人間は実在する。もしやエルドもその部類なのではなかろうか。そう推測したのだが、ヴァルトの口から出たのは否定の言葉だった。
「そう、別人だよ……君が想像しているのとは少し違うだろうけどね。エレメンティアはクロック症候群の進行が遅いというのは知っているかな。恐らくは君自身もだろうが」
「……それと、何の関係が?」
問い返しながらも、ユイスは頷く。確かに、エレメンティアの力を持つ者がクロック症候群を発症した場合、通常より進行が緩やかである傾向は報告されている。だがその差もごく僅かなものであり、エレメンティアであるから、と明言するには心許ない情報だった。王家でさえ把握しきれないものを断定するだから、ヴァルトには確信できるだけの情報があるのだろうか。
しかしそれについて言及するほどの猶予は与えられず、彼は更に続けた。
「知っての通り、この少年もエレメンティアだ。数年前にクロック症候群を発症したが、その力のおかげで身体の方に影響は出なかった。変わりに奇妙な症状の出方をしてね。血の記憶が遡ったんだ。この子こそが、私が存在した証」
「血の、記憶?」
首を傾げるユイスに、ヴァルトは愉快そうに口元を歪めた。
「ところで君は、ヘレス王国の名に聞き覚えはあるかな」
「……エル・メレク統一より前に繁栄した国だろう。民衆からは忘れられて久しい」
話の繋がりが見えてこない。だが有無を言わさぬヴァルトの視線に、ユイスは問われるままに答えるしかなかった。
統一以前、大陸では二つの国が勢力を二分していた。その一つがヘレス王国だ。統一戦争に敗北し、混乱の中で王族は絶え、国も徐々に戦勝国に吸収されていったと記録されている。ただそれも史料に僅かばかりの記述があるだけで、他にかの国の存在を示すものは残されていない。それこそ王の名さえ忘れ去られてしまった。眼前の人物が名乗る『ヴァルト』という王が実在したのかさえ――。
そこでユイスは、はたと思考を止めた。一つの答えに行き当たってしまったのだ。存在した証。血の記憶。まさか、と呟く声は掠れて音にならなかった。ヴァルトが更に笑みを深める。
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