人と精霊 6

 言いかけて、ユイスははたと口を噤んだ。エルドの様子がおかしい。新緑の瞳は突然枯れてしまったかのように色褪せ、焦点の合わない虚ろな視線が宙をさまよう。どうした、と声を掛けようとした瞬間、その身体から力が抜け落ちた。意識を失ったように見えたエルドを支えようと咄嗟にレイアが手を伸ばす――。
「触るな!」
「きゃあっ!?」
 その瞬間、叩きつけるような拒絶がエルドの喉から迸った。脱力したと見えていた腕で突き飛ばされ、レイアは受け身も取れずに倒れ込む。その拍子に彼女が持っていた時柱の結晶が滑り落ち、エルドの足元へ転がった。かと思うと、彼は大股に後ずさって距離をとった。まるで、結晶を忌避しているかのように。
「……やはり、か。思った通りだったな」
 レイアの傍へ駆け寄りながら、ユイスは低く呻く声を聞いた。苦々しく発されたそれは、元の溌剌とした少年のものとは程遠い。否、実際の声が変わったわけではないのだろう。声音に潜んだ得体の知れない何かのせいで、全く違って聞こえるだけだ。聞き間違えたのでなければいつの間にか口調も変わっている。十五になったばかりの少年であるのに、いま受ける印象は長い年月を生きた老人のようだった。
「レイア、怪我は」
「してない、です」
 違和感を覚えなからも、まずはレイアを助け起こす。幸いなことに、傷を作るようなぶつけ方はしなかったようだ。そのことに息を吐き、改めてエルドを問い質そうと顔を上げる。その時だった。
「ヴァルト、離れて」
 割り込むようにして、涼やかな声が響く。同時に、空気が金属音にも似た鋭い唸りを上げた。どこからともなく風が吹きつけ、前髪が揺れる――気付いた時には、床に落とした結晶が粉々に砕け散っていた。風の刃によって破壊されたのだと認識したのは、数瞬遅れてのことである。
「……ああ、シル」
 安堵したようなエルドの呼び掛けに応じ、大気が小さく渦巻き始める。形を持たない筈のそれは大きさを増すにつれ徐々に色づき、確かな実体を持ち始める。そして、やがては一人の女性の姿となった。白皙の肌に、高く結い上げた翡翠の髪。物憂げに伏せられた瞳は空の色。人であれば耳がある箇所は翼のような羽毛が覆われ、手足にも蜉蝣のような薄い羽が生えていた。軽やかな乙女のような出で立ちでありながら、纏う雰囲気はどこか重く荘厳だ。彼女が風の精霊であることを疑う余地は無かった。それも、かなり高位の。
「……まさか」
 呆然と、ユイスは呟いた。俄には信じ難い。しかし、数度にわたり同様の存在に対面してきたからこそ、理解してしまった。力を振るった彼女が、風の王――最奥の聖殿に祭られている筈の存在である、と。
「欠片とはいえ、やはり時柱に近付くのは苦痛だな」
「そうでしょうね。いつもより不安定なようだし、だから無理は禁物と言ったのよ」
 そうあることが当然であるかのように、エルドと風の王――シルという名らしい精霊は言葉を交わす。その間に、エルドの身体を緩やかな風が取り巻き始めた。慈しむような微風に守護され、強張ったままだった彼の表情がふっと和らいだ。
「……なんか変だー。お前、どうしたー?」
 怯えるように、イルファが躊躇いがちな疑問を投げる。普段なら悠々と辺りを漂っている彼も、旧来の知人の変化に戸惑っているようだった。珍しくユイスとレイアから離れようとせず、ぴたりと寄り添う。
「エルド……一体、何がどうなっている?」
 間抜けな質問だ、と自分でも思った。親切にしてくれていた少年の唐突な変貌、何故か姿を現した精霊王、そして聖堂の惨状。あまりにも想定外の出来事が一度に押し寄せ、思考が翻弄されて纏まらない。いや、正確に表すのなら、全てが符合して導き出された答えを否定したくて、必死に他の道筋を探そうとして混乱しているのだ。しかし、どう足掻いても結局は同じ結論に辿り着く。
 これほどの人数を一度に殺害し、それを町の人間に悟られないよう隠し通すなど普通は不可能だ。だが、精霊ならば――今し方見せつけられた風の刃があれば、恐らく可能だ。一瞬で全て殺めてしまえば、暫くは外に情報が漏れることもない。つまり、この悲劇を作り出したのは、彼等なのだ。
 ふと、エルドと目が合った。もはや元の面影も無いほど冷徹な瞳がユイス達を見返す。口元に浮かんだ歪な笑みは、あまりにも殺戮者に相応しかった。
「エルド、というのはこの少年の名前だったかな。改めて自己紹介しなければいけないね。エル・メレクの王子。そして時柱の継承者殿」
 己の肩書きを呼ばれ、ユイスは僅かに身体を震わせた。無論、彼に正式な身分を名乗ったことはない。どこで気付かれたのか。
「精霊の情報網を侮ってはいけないな。特に風なんて、どこへでも行けるのだから……まぁ、この少年の『中』で君達を見ていたのもあるがね」
 容易くこちらの心情を汲み取り、エルドは答えを投げて寄越した。そして軽く肩を竦めると、言葉を続ける。
「話が逸れたな。私の名はヴァルト・ヘレスという。今はなきヘレス王国の、最後の王だよ」
 そう名乗るとエルド――否、ヴァルトは優雅に一礼してみせた。同時に、彼の足元から旋風が巻き上がる。ヴァルト、そしてシルの身体を包んだ風は高く舞い上がり、その余波はユイス達の肌を叩きつけ、目を眩ます。消える。咄嗟に、そう悟った。
「くそ、待て――!」
「時柱を探しに来たんだろう? 話の続きは聖殿……塔の頂上で」
 一際強く、風が舞った。反射的に顔を庇って目を瞑る。ようやく辺りを見渡すことが叶った時には、彼等の姿は既に無かった。

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