影に住むもの 7

 昼間に訪れた時のようにゆっくり辺りを見渡す暇もなく、ルアスは出せる限界の力で走った。自分から言い出したとはいえ、生み出した光を維持しながらの全力疾走はなかなか大変だった。息を切らし、何度も転びそうになりながらも、斜め前を行く青年に必死でついていく。
「ねえゼキア、どこか心当たり、あるの?」
 途切れ途切れになりながらもルアスは尋ねた。もちろん、ネルとルピの居場所についてだ。母親が思いつくだけの場所には居なかった。知り合いなどの家も確認したようだったので、屋外に居る可能性は高い――だからこそこれだけ焦って探しているのだが、当てもなく走り回っていても効率が悪い。しかし、ゼキアは先程から道の選択に迷うこともなく、どこか目的地があるように見えたのだ。
「一応な。こっちだ」
「……行き止まり、だよ?」
 ゼキアが指し示した先に、道はないように見えた。しかしよくみればやっと人が一人通れるかどうか、というような細い路地――というより、隙間がある。もう住人が居ないのであろう、殆ど瓦礫と化した家に隠れているせいでわかりにくいが、確かに幼い子供が喜んで走り抜けそうな場所だ。しかしゼキア達ではさすがに走っては通れないため、問題の隙間の前で一度立ち止まる。
「……もしかして、これ?」
「そう、ここを抜けた先だ。お母さんも知らない秘密基地だ、とか言ってたな」
 そんな場所を知っているなら、やはりゼキアはあの兄妹に余程好かれているようだ。彼は慣れた様子で、瓦礫を足場にして壁の間に身を滑り込ませた。
「よくこんな所見つけるなぁ……」
 妙に感心しつつ、ルアスも後に続いた。中に入り込めば、カビ臭い臭いが胸いっぱいに広がった。反射的に顔をしかめながらも、先を行くゼキアの姿が思っていたより遠いことに気付き、置いていかれないように歩を早めた。慌てたせいで揺らめいた明かりを手のひらに集中して安定させれば、道の狭さがよくわかる。せいぜいルアスの肩幅より少し広いくらいだ。小柄なルアスはともかく、ゼキアは正面を向いて歩けないくらいである。
「はぁ……」
 文句を言っている状況ではないのは分かっているが、窮屈さについ溜め息をついた。吐息に混ざった声は壁に反響してやたら長く響き、まるで泣き声のようにも聞こえた。
「――ううん、違う」
 ゼキアもまた同じことに気付いたようだ。声を掛けようとしたルアスと視線が合った。
「聞こえるな」
 ゼキアに遮られて出口は見えないが、進んでいくにつれて、風に運ばれてくるそれは徐々に、そして確実にはっきりしたものになっていく――子供の、泣き声が。
「……先に行くぞ!」
 ようやく狭い隙間から這い出すなり、ゼキアは駆け出した。
「あ、待ってよ!」
 少し遅れて同じく窮屈さから解放されたルアスも駆け出し、ゼキアの近くまでなんとか追いついた――そして広がる光景に目を見張った。
 抜け出た先は、小さな広場のような場所だった。袋小路、というには広いが、たった今出てきた道を除いた他は壁に囲まれている。瓦礫や廃材のようなものがそこかしこに積まれ、なるほど子供達にしてみれば絶好の“秘密基地”になりそうな場所である。しかし、驚いたのはそんなことではない。
「なに、あれ」
 整備されていない、固い土が剥き出しの地面を這う、黒い何か。夜の闇の中でさえ浮き彫りになる漆黒が、そこには無数に蠢いていた。目を凝らせば、それが細長い蛇のようなものであることが分かった。
「これが、“影”?」
 無意識の内に零れた呟きにゼキアは無言で頷くと、腰から剣を静かに抜き、正面に構えた。
 背筋が凍る、とはこういうことを言うのかと、ルアスは身をもって知った。何度も教本で見たが、実物は初めてだった。決まった形を持たない、人を襲い喰らうモノ。言葉にしてしまえばそれだけなのに、どこまでも深く暗い黒に本能的な恐怖が沸き上がる――アレは危険だ、と。
「……チビ達はあの中みたいだな」
 恐怖に逆らいながら改めてよく見ると、黒い蛇達は一定の方向へ向かって動いているようだ。丁度ゼキアとルアスが居る位置の直線上の壁、正確にはその手前にある黒い霧のようなものが凝った場所へ。小さいとはいえルアスの作った明かりがあるお陰か、こちらへ近寄ってくる様子はない。それとも捕らえた獲物に夢中で他の存在に気づいていないのか――自分で想像したことに、ルアスは身震いした。
「コラァちび兄妹! そこに居んのか!!」
 怒声とも取れるゼキアの呼び掛けに、霧の向こうの何かが身じろいだ――そして響いていた泣き声が、止んだ。
「ば、ばかゼキアー! 居るなら早く助けろよぉ!」
「ばかぁー!」
 まるで声まで霧がかかったようにくぐもり実際の距離以上に遠く聞こえたが、やや涙声混じりな叫びは間違いなくゼキアに憎まれ口を叩いていた兄妹のものだった。
「……とりあえずは元気みたいでなによりだが、バカは余計だ!」
 怒ってはみるものの、ゼキアの顔には明らかな安堵が浮かんでいた。少なくとも、一番最悪の事態は免れたようだ。しかし二人が“影”の手中であることに変わりはない――そう思った瞬間、獲物の様子が変わったのに気づいたのか、二人を囲む霧が一気に濃くなった。音さえ外から遮断する黒い濃霧はまるで“影”の胃袋だ。既に食ったも同然、後はぐちゃぐちゃに砕いて消化されるのを待つだけ、である。
「ゼキア……どうするの?」
「突っ込んで奪い返すしかねぇだろ」
 どうやらあまり時間は無いらしい。強行突破だ、とゼキアは言い切った。
「……やっぱり、そうだよね」
 ルアスは再び手のひらの光に再び力を込めた。灯火は先程より幾ばくか輝きを増し、辺りを照らし出す。相手の数が多いのでどれほど当てになるか分からないが、少しはマシだろう。もはや感情は恐れを通り越して笑いさえ込み上げて来そうだったが、ここで怖じ気づいて逃げ出すわけにはいかない。ルアスは腹をくくることにした。その気配を察してゼキアも剣の柄を更に固く握り締めた。
「……あちらさんも、俺達の相手をする気になったみたいだぜ」
 こちらの敵意を感じ取ったのだろうか。蛇達がざわめき、頭をもたげてこちらを見た。ピン、と空気が張りつめた音が聞こえた気がした。今まで以上の緊張が走る。
「……行くぞ!」
 その声と同時にゼキアは眼前の蛇達を薙ぎ払い、大きく足を踏み込み駆け出した。切りつけられた蛇はギィ、と小さな呻き声を残して黒い霧となり散っていく。ルアスも出来るだけ光を高く掲げ、ゼキアが作る道に続いた。まとわりつこうとする黒い蛇を何度も切っては霧散させ、走る。地を蹴り進むなかで、霧となった蛇の残骸が顔に絡み付いては、光に焼かれ消えていく。
「……霧?」
 ふと、ルアスは違和感を覚えた。黒い無数の蛇達。今、ネルとルピを囲む黒い霧。“影”は個体ごとに形が違うのが普通だ。それがなぜ、こんなにも多くの同形のものがいるのか。
「もしかして――ゼキア!」
 前方で剣を振るう青年にある可能性を提示しようとした時。僅かにある光の隙間を縫い、一匹の蛇がルアスの足に絡み付いた。
「うわぁっ!」
 唐突に足を取られ、走っていた勢いのままに身体を地面に叩きつけられた。辛うじて明かりを保つことには成功したが、受け身も碌に取れず胸を打って激しく咳込み、呼吸が上手く呼吸が出来ない。
「ルアス――!?」

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