影に住むもの 9

 その後、ネルとルピ、そしてレオナを自宅まで送り届け、ようやく自分達が床に着いたのは空も白み始めた頃だった。毛布にくるまるのも億劫で、横になった途端に意識は遠退いた。疲労から深い眠りに落ち――目覚めたのが昼過ぎなのも、無理はない話である。
「あ゛ー……」
 未だ霞む目を擦り、ゼキアはようやく起き上がった。さすがにそろそろ起きなければ、何も出来ないうちに一日が終わってしまいそうだ。隣を見ればすやすやと寝息を立てるルアスが居た。昨日あれだけ寝付けなかった寝心地の悪さも、走り続けた疲労には勝てなかったらしい。
「こらルアス、お前もそろそろ起きろ」
 思い切って掛け布を取り払ってやれば、彼は名残惜しそうに身動ぎした後、気だるげに目を開けた。
「うぅ……もう朝?」
「朝っつーか昼だな」
「……ホントだ」
 太陽が殆ど空の頂点にあるのを窓から確認すると、ルアスは手を組んで伸びをした。その行為で少し頭がはっきりしてきたのか、ふと思い出したように呟いた。
「ネルとルピ、大丈夫だったかなぁ」
「……さぁな。あればっかりは自業自得だ」
 昨夜、無事に母との再会を果たしたネルとルピは当然こっぴどく叱られた――それはもう、目をそらしたくなるほどに。傍で見守っていた二人には、『レオナを怒らせてはいけない』という共通の認識が芽生えていた。その時の様子を反芻すると“影”とはまた違う意味で体が震えてくる。それを無理矢理忘れようと、そういえば、とルアスが切り出した。
「ゼキア、魔法も使えたんだね。びっくりしたよ」
「……あー、そういえば何も言ってなかったか。まぁ大したもんでもねぇよ」
 貧民街でも、ゼキアが魔法を使えることを知っている者はあまりいない。隠しているという訳ではないが、あえて話すような機会も無い。魔法師は集中力を高めるのに魔力を込めた杖や装飾品を身につける事が多いが、ゼキアの場合剣がその役割を兼ねていることもあり、ルアスのように出で立ちを見て剣士だと思っているものが殆どだ。同じような事を訊かれるのも初めてではないので適当に答えると、ルアスは不満げな顔をした。
「大したことないなんて大嘘だよ! 対象を絞って他には傷ひとつつけないなんて、余程の実力がないとできないよ……充分すぎるぐらい強いじゃないか」
 ルアスの言葉に胸の奥が少しざわめいた気がした。確かに力はあるかもしれない。でも――。
「意味が、無かったんだよ」
 口の中だけで呟いたそれは、ルアスには聞こえなかったようだ。訪れた数瞬の静寂を彼がどう受け取ったのかは分からないが、その後続いたルアスの発言に、ゼキアは今度こそ本当に言葉を失った。
「……剣も魔法も強いなんてずるいよ。僕なんか体力もないし、魔法もロクなの使えないのに」
 世の中不公平だ、と愚痴るルアスを、思わずゼキアは凝視した。
「な、何?」
「お前、それ、本気で言ってるか?」
 ゼキアの視線にたじろぐ彼の瞳には、嘘の色は見えない……そうだ、こいつは色々と抜けているのだった。昨日のうちに悟った事実を思い出す。しかしこれは度を越しているのではないだろうか。実は演技でしたと言われた方が納得がいくかもしれない。しかしそんなことをして何の得があるのか。様々な事が頭の中を交差するが、とりあえずは確実な情報をルアスに確認することにした。
「見間違いじゃなければ、お前治癒術使ってたよな?」
「え、うん……」
 戸惑った様子を見せながらも頷くルアスに、やはり、とゼキアは畳み掛ける。
「ってことは『光の愛息子』だろ!?自分の存在がどれだけ希少だと思ってんだ!」
 ――治癒術を使える魔法師というのは、非常に貴重な存在だ。なぜなら複数の属性の魔力を合わせて使うため、通常一つの属性しか持つことの出来ない一介の魔法師には扱えないのだ。
 しかし、ごくごく稀に全ての属性の魔力を持つものが居る。それが唯一治癒術を扱える存在だ。彼らは太陽と月という“光”が人々に力を与えたという神話になぞらえ、光の愛息子、あるいは愛娘と呼ばれる。滅多にお目にかかれるものではない。
「あ、そういえばそんなこと言ってたような……でも魔力が貧弱なのは本当だし」
 自らの希少価値をさっぱり解っていないルアスの態度に、ゼキアは脱力した。マーシェル学院を退学になったというのは、実力そのものよりこの性格が原因ではなかろうか。
「はぁ……まぁ、それはもういい。それよりお前、今後のことは何か考えてるのか」
 それを聞いた瞬間、ルアスの顔に影が落ちた。ゼキアの家に泊まったのはその場凌ぎだ。これからどうするつもりなのか――だが、何もルアスを責めようというつもりではない。昨夜のゴタゴタで考えている余裕も無かったことくらい解っている。ゼキアには、ひとつ考えている事があった。
「……ごめん。まだ何も――」
「もし、お前が良いならだけど」
 謝りかけたルアスを遮り、ゼキアは続けた。
「当面、うちの店で住み込みで働く気はねーか? つっても仕事らしい仕事は少ないけどな。でも治癒術を使える奴が居てくれたら、こっちとしては非常にありがたい」
 貧民街の衛生状態は、お世辞にも良いとは言えない。例えば子供がひょんなことで転んで傷を作ったくらいでも、なかなか治らないどころか悪化する一方だったり、それが原因で病気になることもある。しかし貧民街では医者にかかる金も無い者が殆どだ。そんな時に治癒術があればどれほど助かることか。
「……いいの? 僕ほんとに弱いから、“影”が出てもやっつけられないよ」
「俺は“影”を倒せても治療は出来ないんだよ。まぁ……無理にとは言わないけどよ」
 どうする、と答えを促すと、じわじわと口角に嬉色が滲む。そしてルアスは今度こそ頷いた。
「ありがとう! 僕の力で役立てるなら嬉しいよ……でも」
「でも?」
 一度言葉を切ったかと思うと、ルアスはこう言ってのけた。
「とりあえずの仕事って、治癒術より先にお店の掃除だよね。まだまだ汚いし!」
「…………飯にするか」
 満面の笑みで痛い部分を指摘され、ゼキアは苦笑しながら目をそらした。それついては言い返せない。苦し紛れに食事を提案すると、幸いルアスが追い討ちをかけてくるようなことは無かった。彼はもそもそ寝床から這い出し身なりを整えると、不意にゼキアの裾を引っ張った。
「ゼキア、これからよろしくね」
「……おう」
 差し出された手を握り返し、ゼキアも笑顔で応えたのだった。

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