日が沈むのは、人々を心地よい眠りに導くためだという。けれど、そんなものは嘘だ、とゼキアは思った。
少なくともこの貧民街においてはそうだ。闇夜は、“影”たちの味方である。彼らの姿を隠し、獲物となる者の視界を奪う。そうして人が狩られていく様を、夜は冷たく見ているだけなのだから。
――そしてこの瞬間も“影”は夜に身を委ね、こちらを狙っている。
「さて、と」
愛剣の柄に手を添え、いつでも抜けるように構えをとる。そうすることで、意識も研ぎ澄まされていくような気がした。
見通しが良いとは言えない。だが幸い、近辺の陰影がわかる程度の明かるさはあった。ルアスの配慮だろう。ちらりと後方を振り返ると、ルカの傷口に手をかざす姿が見えた。治癒魔法と同時にこの光を保つのは、かなり消耗するはずだ。早めに蹴りをつけた方がいいだろう。
「……出てこないな」
“影”は近付いてくる存在に気付き、ますます闇に深く沈んだようだった。大体の位置は見当はつくものの、不用意に光から離れてはこちらが不利になるだけだ。
これは文字通りに『炙り出す』べきか――ゼキアは暗闇の中の一点を睨み付けた。照準は、瓦礫が積み重なった小さな山の影だ。
「――こそこそしてんじゃねぇよ!」
鞘から剣を引き抜いたのとほぼ同時に、ゼキアは刀身を横に薙ぎ払った。掌から魔力が伝い、切っ先から炎が繰り出される。放たれた猛火は瓦礫を突き崩し、辺りは粉塵と黒煙に包み込まれた。
視界が晴れるのも待たず、残骸が燻る中へゼキアは踏み出した。散乱した瓦礫の中に、“影”らしきものは見当たらない。焼けたか、或いは逃げたのか。それを確かめるより先に、背後で僅かに物音が聞こえた。
危険を察知した身体が、反射的に動く。瞬時に半身を捻り横へ避けると、ほぼ同時に黒い体躯が眼前を横切った。咄嗟に向き直り、剣を構え直す。敵はゼキアを見ると、苛立ったように低く吼えた。狼によく似た、双頭の獣――“影”だ。
「そう簡単には、やられてくれねぇか」
息をつくと、改めて相手を凝視する。艶やかな毛皮をもつ異形は、月明かりの下で美しくさえあった。しかし、右の首筋に不自然な箇所がある。毛並みが不揃いで、黒い靄のようなものが漏れ出ているのだ。おそらく、傷がある。
もしや、ルカを襲ったものと同一の個体だろうか。捕らえ損ねた獲物を再び狙って戻ってきた、という事も考えられる。彼女が抵抗した際に一太刀浴びせたというなら、あの傷も納得だ。剣の腕前を自負していたのも、一応建前ではなかったらしい。
「……っと」
ほんの一瞬意識を逸らしていると、“影”は再びゼキアに飛び掛かった。危なげなくそれを躱すと、獣の四肢が地につくより早く炎を放った。それは瞬く間に獣を包み込み、苦悶の咆哮が響き渡る。
だが、その身体が灰になることはなかった。
「何……!?」
数歩後退りした獣は、そのまま倒れこむかのように見えた。しかし、獣が雨露を払うかのように大きく身震いすると、次の瞬間には炎は霧散していた。毛並には焦げた痕さえ見つからない。この程度かと、まるで嘲笑うように獣は鼻を鳴らした。
「……魔法に耐性があるのか? 厄介だな」
忌々しげに、ゼキアは舌打ちした。あまり聞いたことのない話ではあるが、こちらも生半可な炎を作り出してはいない。そうでなければ、とっくに燃え尽きているはずだ。
――“影”は、人を喰らうほど力を増すという。だとすれば、この獣はどれ程の人を殺めてきたというのか。
「くそっ!」
次こそはその喉笛を噛み千切ってくれようと、唸りを上げて“影”は牙をむく。突進する獣を飛び退くようにして避け、剣を振るう。生み出された炎は容赦なく獣を襲うが、やはり体毛の一房も焦がすことは叶わなかった。
魔法が効かないというならば、あとは直接切り込むより他はない。ルカがつけたであろう傷が残っているなら、物理的な攻撃は有効なはずだ。問題は、どう懐に入るかである。動きは相手の方が数段素早い。下手に突っ込もうものなら、喰われて終いだ。一瞬でも、動きを止める方法があればいいのだが――。
考えている間にも、獣が狩りの姿勢に入るのが判った。対策を練る余裕はないようだ。多少の怪我は覚悟の上で、襲ってきたところを迎え撃つしかない。そして獣の足が土を蹴った、まさにその時だった。
「ギャウンッ!」
奇声を上げ、“影”が姿勢を崩した。見れば細い蔓のようなものが地面から伸び、獣の足を絡めとっている。後方からゼキア、と叫ぶ声が聞こえた――ルアスだ。
「よくやったルアス!」
煩わしそうに身動ぎした後、獣はあっさりと蔓を引き千切り自由となる。その隙は僅かなものだったが、それでも充分だ。一気に駆け出して間合いを詰め、剣を振り上げる。
「覚悟しやがれ!」
狙うのは、頭部。有らん限りの怒りを刃に込め、ゼキアは右の頭に剣を突き立てた。
「ギャアアアアアア!」
空気を引き裂くような悲鳴が、辺りを震わせる。しかしそれに怯むことなく、ゼキアは獣の頭を抉るように一層強く剣を握る。縫い止められるように跪いた右の頭は、しばらくしてぐったりと動かなくなった。
次は、左。確実に絶命させるべく、ゼキアが剣を引き抜こうとした時、残った左の頭は渾身の反撃に出た。
「うわっ!?」
獣は突き刺された剣ごと強引に立ち上がると、勢いよく巨大な体躯をゼキアにぶつけてきた。剣から手を離すことこそなかったが、受け止めきれず後方へ転倒する。
やられる、と思った。だが獣はその爪も牙も向けることなく、息絶えた半身を引き摺りながら走り去る。
「逃げる気か――!」
退路を絶とうと咄嗟に炎を放つが、そもそも魔法が効かないのだから意味はない。ゼキアがどうにか体勢を建て直した頃には、その姿は既に見えなくなっていた。
獣が去っていった方向を見つめると、ゼキアは重々しく息をつく。仕留めきれなかった。生きている以上、あの“影”は何度でも人を襲うだろう。もう誰も、傷付けさせたくはないのに――。
「ゼキアー!」
不意に名を呼ばれ、ゼキアは振り返った。ルアスの声だ。慌ただしく駆け寄ってくる彼の横には、ルカの姿もある。どうやら治療は無事に終わったらしい。
「ゼキア、怪我はない!?」
息を切らし、途切れ途切れになりながらもルアスが尋ねた。
「……大丈夫だよ。ちょっと尻餅ついたけどな」
軽く肩をすくめて答えると、二人は盛大に溜め息をついた。
「……なんだよ、揃って溜め息ついて」
「心配してたんだよ、僕もルカも」
「ハラハラしたわよ、もう……」
口々に良いながらも安堵したその様子に、ゼキア自身の緊張もようやく解れてきた気がした。ルアスもルカも無事である。全員、事なきを得たのだ。
「平気だっての。ルアスの方が顔色が悪いんじゃないか?」
からかうように言うと、ルアスは困ったように苦笑を漏らした。
「あれだけ魔法を使ったら、もう燃料切れだよ」
魔力が弱い、と言っていたルアスである。明かりと治療に加え、先程の援護も考えれば、それも仕方のないことだろう。早く休息を取りたいところだったが、その前に済ませておくことがあった。
「じゃあ、どっかの誰かさんをさっさと送って家で休もうぜ。道案内がないと帰れないだろうからな」
「……ご迷惑をおかけします」
言いながらルカを一瞥すると、彼女はきゅっと身を竦めて応えた。また道に迷って同じことになっては、たまったものではない。
「次は何かあっても助けねぇぞ」
「あ、それ絶対嘘――ちょ、ゼキア痛いよ!」
揶揄するようなルアスを思い切り小突く。ルアスに言われるまでもなく、自分の性質は嫌というほど解っている。黙っていて欲しい。
「……やっぱり面白いわねぇ、貴方たち」
横でやり取りを見ていたルカが笑う。
「うるせぇ。ほら、早く行くぞ」
それを適当にあしらいながら、ゼキアは歩き出した。早足に、けれどあまり離れないように。万が一“影”に遭遇してもすぐに庇える距離を保ちながら、市街地へ向かう。
――手の届くものは守りきると、そう決めているのだ。
コメント