Bright blue 8

 風が緩やかに梢を揺らす中、ルカは帰路を急いでいた。歩きやすく整えられた道を外れ、木々の間を縫うようにして歩く。またもや迷った、というわけではなく、これが正しい道なのである。慣れた様子で辿り着いた先には、巨大な白磁の壁があった。重々しく聳えるそれに、ルカはそっと手を這わせる。すると、ルカの目線とほぼ同じ高さに、僅かな凹凸かあった。よく見ると、それが細やかな彫刻なのだと判る。三角形を組み合わせたような模様は、ルカが必死で探し回った指輪の紋章とよく似ていた。
 ルカは確かめるように周りを見渡すと、紋章を重ね合わせるように壁に指輪をかざした。すると次の瞬間、それに反応するように紋章が仄かな光を放つと、壁に穴が空いた。丁度人が通れるほどの、長方形のものだ。穴、というより、なにかの入口と言った方が正しいかもしれない。音もなく開かれた道に、ルカは躊躇うことなく足を踏み入れる。彼女を受け入れたその時には、入口は既に跡形もなく消え去っていた。
「……はぁ。ようやく帰ってきたわね」
 やれやれといった体で、ルカは呟いた。ちょっと散歩のつもりが、ゴロツキに絡まれた少年を助け、大事なものを無くし、道に迷い、挙げ句には“影”に襲われる……随分と盛り沢山な一日だった。疲れ果ててこの場に座りこんでしまいたかったが、そうもいかない。早く戻らねば面倒なことになりかねない。それだけは御免被る。ルカは自分を叱咤すると、眼前にある階段を下り始めた。
 その先に広がっていたのは、古い地下道だった。淀んだ空気やあちらこちらに積もった埃は、此処が人々から忘れられて久しい場所であることを告げている。しかし明らかに損壊しているような箇所は見当たらず、活用することは充分に可能なようだ。更に足元には光が灯され、歩くのに不便の無い程度に明るさがある。魔法の込められた人工灯である。街中にある外灯と同じに見えるが、こちらは人が通る時に反応して発光するという、高度な技術だ。
 しかしルカはそんなものには目もくれず、小走りになりながら通り過ぎる。今は早急に帰りつくことが優先である。
「お願いだから、バレてませんように……!」
「何が、ですかな?」
 思いがけず返ってきた声に、ルカはぴたりと足を止めた。……どうやら、祈っても既に遅かったらしい。
「随分と遅いお帰りですね、ルカ様?」
 数歩先にある曲がり角から、声の主は静かに姿を現した。短く刈り込んだ灰色の髪に、剣呑な光を宿したそれと同色の瞳。厳格さを漂わせるその顔には、年齢によるものではない皺が眉間に深く刻まれていた。身に付けている象牙色に金の縁の制服は、騎士団のものだ。
「……オ、オルゼス……奇遇ね、こんな所で会うなんて」
 ひきつった笑みを浮かべながら、自分でさえ白々しく思う台詞を吐く。オルゼス、と呼ばれた壮年の男は、それを聞いてますます顔をしかめた。
「……こんな時間まで、どこへ行ってらしたのです? もう少しで騎士団を駆り出すところでしたぞ」
 決して声は荒げることなく、しかしはっきりと怒りの滲む口調で、オルゼスは問い詰める。やはり誤魔化されてくれる気は無いらしい。その気迫に、ルカは早々に白旗を上げることを決めた。
「……城下街へ出てたの。そしたら“鍵”を落としちゃって……」
「鍵を!?」
 内容を聞いたとたん血相を変えたオルゼスに、慌ててルカは弁明する。
「あ、勿論ちゃんと見つけたのよ!? ただ他にも色々あって……」
 理由を話そうとして、言葉に詰まる。どう説明すればいいものか――というより、正直には言いづらい。言えば確実に雷が落ちる。そうして口ごもっているうちに、盛大な溜め息が聞こえた。
「……貴女に、この通路を教えるべきではなかったかもしれませんな」
 落胆したように、オルゼスはそう溢す。最初にルカをこの地下道に連れてきたのは、オルゼスだった。しかしこんな風に迷惑をかけていては、そう言われても仕方ないかもしれない。
「えっと……ごめんなさい!」
 オルゼスの様子にいたたまれなくなり、ルカは頭を下げた。
「……あまり心配をかけさせないで下さい。何事もないなら、良いですが」
「……はい」
 幾分か柔らかくなったオルゼスの声に、ルカはようやく肩の力を抜いた。怒っているのは事実だろうが、それがルカを思ってのことだというのは解っている。厳しくも優しく叱ってくれるオルゼスは、ルカにとって父にも似た存在だ。心配をかけてしまったことは、本当に申し訳なく思う。
「とにかく、戻りましょう。お父上も心配されますから」
「……そうかしら」
 無意識に呟いた言葉に、オルゼスの表情が微かに曇る。しかしそれには気付かぬ振りをして、ルカは再び歩き始めた。
「そうね、また謹慎なんてことになったら嫌だし、早く行きましょ……ああ、そうだ」
 ふと思い立ち、ルカはオルゼスを顧みる。
「あのね、遅くなった理由もだけど、色々気になったことがあるの。後で聴いてくれる?」
 今日見てきたことを思い返すと、自然と声音が低くなった。彼なら、ルカの疑問にも答えてくれるはずだ。
 どこか思い詰めたようなルカに、オルゼスもまた神妙に騎士の礼をとる。
「……御意に、ルカーナ姫。後程伺いましょう」
 その返事を聞き、ルカは安堵したように微笑んだ。
 ――ルカーナ・ワレン・エイリム。王国ただ一人の王女は忠実な騎士を従え、ようやく居城へ帰りついたのだった。

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