ひそやかに揺れる 1

 青空の澄み渡る、爽やかな朝だった。太陽の光は穏やかに降り注いでいたし、雲は緩やかに流れていた。頬を撫でる風も、涼やかで気持ちがいい。
 ――そんな清々しい空気を吸い込んでは、重苦しい溜め息として吐き出す。果たしてそれを何度繰り返しただろうか。
 一日の始まりから、ゼキアは早速頭を悩ませていた。それというのも、目の前で木剣を握る少年が原因である。
「違うって、もう少し上を握らないと」
「えっと、こう? ――痛っ」
 振り上げた木剣を見事に自分の額で受け止め、ルアスは小さく呻き声をあげた。
 剣の使い方を教えて欲しいと言われたのは、つい先日のことだ。何かあった時にも自分の身くらいは守りたいのだと、熱心に頼み込まれたのである。彼が数回に渡り悪漢に絡まれたという前科もあり、ゼキアも快く了承した。しかし、現実は前途多難なようである。
「……剣を握る以前の問題だったかもしれねぇな、これは」
「ううー……」
 とりあえず適当に削った木剣を持たせ、自宅前で練習を始めたのが今朝のこと。だが、ルアスは剣術に向かないことが早々に発覚した。まともに構えがとれないのは初心者仕方ないにしろ、彼の場合そもそも力が無さすぎるのである。数回素振りをしただけで剣を持つ腕が下がっているし、稽古を始めていくらも時間が経っていないのに息が上がっている。街の同世代の少女の方が余程体力がありそうである。
「……やっぱり、厳しいかなぁ」
 その辺りは本人にも覚えがあるのか、ルアスは額に汗を浮かべながらそんなことを呟いた。
「まぁ、少し休憩しようぜ。ほら」
「くそぅ……」
 励ますように肩を叩き手巾を渡してやると、彼はそれに顔を埋めすっかり項垂れてしまった。
 その姿を見ていても、やはりルアスは随分と華奢である。同じ年頃の少年達と比べ、四肢は細く頼りない。それに貧民街で暮らすようになって日焼けしたものの、肌も驚くほど白かった。太陽の下に出たことがあるのかと疑ったほどである。一体、今までどんな生活をしていたのやら――ふとそんなことを考えかけた時、騒々しい声がゼキアに降りかかった。
「ゼキアー! 遊びにきたぞー!」
「きたよー!」
 軽快に足音を鳴らしながら駆けてきたのは、顔馴染みの幼い兄妹――ネルとルピだった。その姿を確認し、ゼキアは咄嗟に身構えた。大概こういう時は、突進してきて叩かれたり引っ張られたりの洗礼を食らうのである。
 しかし二人は徐々に減速して傍で立ち止まると、不思議そうに首を傾げた。
「……ルアス、なにしてるの?」
 先に口を開いたのは妹のルピである。木剣を手に汗を流す姿が物珍しかったのか、今日はゼキアよりそちらに目がいったらしい。
「うん、ちょっとゼキアに剣を教わろうと思ったんだけど……」
「えー! なんだよそれ!」
 力なく答えたルアスに反応したのはネルだった。騎士ごっこをして遊ぶこの年頃の少年らしく、彼も剣や鎧といった物への憧れは強いのだろう。
「ルアスばっかりずるいぞ! 俺もやる!」
「却下。お前にやらせたら何壊すか分かったもんじゃねぇからな」
 やんちゃ盛りの悪ガキに剣など持たせては、ルアスとは違った意味で危なっかしい。そう即答すると、案の定ネルは不満の声を上げながらゼキアに詰め寄った。
「はぁ!? どういうことだよゼキアのバカ! ケチ! 昼行灯!」
「ガキにそんなこと言われたくねぇ。つーかそんな言葉どこで覚えてきたんだお前は」
 罵詈雑言と共に手足も出してくるネルに応戦しつつ、ゼキアは今日の予定に思いを巡らせた。
 とりあえず、ルアスの稽古については保留である。護身術なら、剣ではなく別のものを考えた方が良さそうだ。あとは、そろそろ日用品の買い出しに行かなくてはいけない。このまま子供達に付き合っていては、おそらく出掛けそびれてしまうだろう。そこまで考え至り、ゼキアは子守りを自分以外に押し付けることにした。
「よーし、わかった。そんなに剣を習いたかったら、まずルアスと一緒にその辺走ってこい」
「……へ?」
「なんでだよ! 意味わかんねぇし!」
 ルアスが間抜けな声を上げるが、そちらは無視してゼキアは不服そうなネルに応えてやる。
「剣を使うなら、先に体力つけないとな。別に鬼ごっこでもいいぞ」
「……おにごっこ? おにごっこするの?」
 ここに来て、唐突にルピの声が割り込んだ。剣に興味がないらしい彼女はいかにも退屈そうに会話を聞いていたのだが、鬼ごっこと聞いた途端に目を輝かせている。遊びたくて仕方ないと、その様子が物語っていた。
「じゃあ、じゃあ、ルアスがおにね! よーいどん!」
「あ、こらルピ! 待てよ!」
「え、ちょ、ちょっと二人とも待ってよー!」
 口を挟む間もなく駆け出した兄妹をに続き、木剣を放り出したルアスが慌ててその後を追う。次第に遠ざかる三人の背中を見つめながら、ゼキアは手を振って声を張り上げた。
「ルアスー! チビ共の面倒は頼んだぞー!」
 何やらルアスが恨み言を叫んでいたような気もするが、聞こえないフリをしておく。彼が付いていればネルとルピも無茶はしないだろう。ゼキアは彼らが街並みの中へ消えていくのを見送ると、地面に転がった木剣を拾い上げた。
「さてと、これ片付けて俺も出掛けるかな」
「どこまでお出掛けかしら?」
 不意打ちのように背後で響いた声に虚を衝かれ、ゼキアは思わず半歩下がりながら振り返った。
 しかし相手の姿を認めると、そな緊張は一気に抜け落ちた。一応、見知った顔だったためである。
「……なんだ、お前か」
「ごめんなさい、びっくりした?」
 おどけたように肩を竦めたのは、くすんだ貧民街に不似合いな鮮やかな瑠璃色――ルカである。
 彼女と顔を合わせるのは、先日の忘れ物騒動以来だ。といっても、それもたかが数日前のこと。また来ると宣言はしていたが、あんな目に遭っても再びやって来るとは驚きである。
「今日はどうしたんだ。また忘れ物か?」
「違うってば! この前のお礼も兼ねて遊びに来たのよ。でも、ルアスは留守みたいね」
 そう言いながら、ルカは子供たちが走り去った路地に目を向けた。どうやら先程のやり取りを聞いていたらしい。ルアスの姿が見えないのを確認すると、彼女はゼキアの持つ木剣に目を向けた。
「ね、それ何?」
「……ああ。ルアスが剣の使い方教えろっていうからな」
 その視線に気付いて説明してやると、ルカは納得したように頷いた。
「なるほど。ルアスも身近にいい先生がいたわね……ねぇ、ゼキアってルガート流でしょ?」
 ルカが何気なく口にした言葉を聞き、僅かに自分の肩が震えたのが解った。確かに、ゼキアの剣術はルガート流である。元々は我流だが、きちんとした剣の使い方を教わった師がルガート流なのだ。
「……よく判ったな。どこでそう思ったんだ?」
 若干の警戒心を抱きながら、ゼキアはそう訊き返した。国内のルガート流の使い手は、あまり多くはない。特に王都近辺の出身者には珍しい。それゆえに、少し構えを見たところでそうと判別出来る者も少ないのである。
 しかし、ルカはあっさりとそれを見抜いてしまった。よほど多方面の剣術に精通しているのか、或いは彼女自身もルガート流の使い手なのか――正直なところ、後者であった場合はあまり関わりたくなかったりする。というのも数少ない使い手、それも主に自分の師に良い思い出がないのである。出来るだけ近寄らないというのが、ゼキアが心穏やかに過ごすための必要事項なのである。
「あ、私もルガート流なのよ。だからこの前戦ってるの見て、ゼキアもそうかなーって」
「……ほー。そりゃ珍しいこともあったもんだな」
 ――決まり、である。必要以上に彼女とは関わるまい。
 そう意を決し、ゼキアは適当に相槌を打つとルカから視線を逸らした。手にしたままだった木剣を玄関脇に立て掛けると、その足で街へ出る道を歩き始める。
「あれ、どこいくの?」
 ルカが声をかけるが、それには答えず黙々と歩みを進める。殆ど無視しているようなものだが気にすまい。
 そもそも、ゼキアは彼女に対しあまり良い感情は無かった。ルアスなどは“助けてくれた良い人”と無邪気に思っているようだったが、そう短絡的にはなれなかった。ルカのようにある程度裕福な人間が、純粋に貧民街の住民と仲良くするとはどうしても思えないのである。今のところ悪人では無さそうだがゼキアの中での評価はせいぜい物好きな変人、といったところである。
「そういえば出掛けるとか言ってたっけ。買い物?」
「そうだけど……って何で付いて来てんだお前」
 何とはなしに答えてから横にいるルカに気付き、ゼキアは眉根を寄せた。いつの間にか、さも当然といった顔で隣を歩いている。
「え? だってまだルアスにも会えてないし」
「待ってればその内戻って来るだろ」
「さっき出ていったばっかりでしょ。待ってる間退屈じゃない」
 だったら後日出直してくれ、と言いかけたゼキアに、ルカは更に言い募る。
「市場にいくなら、私値切り交渉するわよ? 顔馴染みも多いから融通利くし。この前のお礼になるかはわからないけど、張り切って手伝うわよ」
 ――その台詞に思わず反論を躊躇ってしまったのは、貧乏人の悲しい性と言うべきか。
 その沈黙を肯定と受け取ったのか、ルカはゼキアの意に反してさっさと先を行く。
「何してるの、早く早く。良いもの売り切れちゃうわよ」
「……節約は、した方がいいよな、うん」
 結局、今しがたまでの決意も空しく、ゼキアは言い訳めいた言葉を呟くしかないのだった。

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