Scar 10

 今でも、あの時の光景は眼裏に焼き付いたまま離れない。ことあるごとに記憶は鮮明に蘇り、きっとこれから先も消え去ることはない。あれほどに誰かを呪い、己の無力を嘆いた日が他にあっただろうか。
 後々、風の噂でオルゼスが騎士団長に就任したと聞いた。前任のファビアンが病気で急逝し、過去の功績が認められ副団長の彼が繰り上がることになったらしい。その功績というものの中には件の“影”の討伐も含まれていると知って、オルゼスへの敵愾心がますます膨らんだのを覚えている。それは最早自分でも制御が出来ず、再びその姿を目にしたとき時間が巻き戻ったかのように感情が噴き出してしまった。
 しかし今は、不思議と心は凪いでいる。声が震えた場面はあったものの、激昂することはなかった。眼前の少年が、ひたむきに話を聴いていてくれたお陰だろうか。
「……それで、その後はどうしたの?」
 恐る恐る、といったようにルアスは口を開いた。昼食を用意して席に着いたのはいいものの、結局それは腹に収まることなくすっかり冷め切ってしまった。どことなく彼の顔色が優れないのは、きっと気のせいではないだろう。話の途中、ルアスは何度も眉をひそめながらも静かに相槌を打っていた。素直で、優しい少年だ。聞いているだけで心を痛めただろうに、ゼキアのことを慮って余計な口を挟まないようにしていたのだろう。そんなことをすれば揺らぐ感情を刺激してしまうと、解っていたのだろう。
 そんな彼の心労を減らそうと、ゼキアはわざと軽い調子で答える。
「まぁ、村にも帰るに帰れなかったしな。学院出た後あちこち彷徨って貧民街に辿り着いたんだが、レオナさんが声掛けてくれてな。しばらく世話になってたんだよ」
「そっか……それでネルもルピもあんなに懐いてるんだね」
 見知った貧民街の住人の名前が出ると、得心がいった、というようにルアスが頷く。それに同調するようにゼキアは続けた。
「ネルもまだこんなんだった。物をよく壊すのは昔からだな」
 こんなん、と低い位置を手で示しながら冗談めかして言うと、ようやくルアスの表情が和らいだ気がした。ひとまずはそれに安堵し、ゼキアは質問の答えに話を戻す。
「随分後になって、生き残りが村を復興させようとしてるって話は聞いたけどな。今更どの面下げて戻ればいいかも分かんねぇし、色々考えた結果がこの店だな。恩返しじゃないが、何か役に立てればと思ってな」
 レオナ一家には、随分救われた。他の住人達もゼキアの為に心を砕いてくれた。いくら感謝しても足りないくらいだ。こんな店でも、せめて彼らの生活の助けになればいい。
「今あるものくらいは、守らないとな」
 そのために、作った場所だ。これは新しく得た大切なもの達を傷つけられないための、精一杯のゼキアの抵抗だった。
「……うん。僕も手伝うよ」
 殆ど独り言のようなものだった最後の言葉に、ルアスが強く頷いた。彼の申し出に自然と笑みが零れる。その事実に、ゼキアは驚いていた。あの話をして、こんなに穏やかな気持ちでいられるとは思っていなかったのだ。思えば、こんな風に誰かに過去の話をするのは初めてである。全てさらけ出したことで何かが吹っ切れた、とも言えるかもしれない。禍根は無くならないが、自分の中で折り合いをつけていかなければ進めなくなる。少なくとも、その努力をするべきなのだ。この程度で動揺してあるなど、本当に情けない話だった。そう思わせてくれるこの少年もまた、“大切なもの”の一部なのだろう。
 ――守るべきは、今なのだ。
「ねぇ、もしかしてゼキアと僕、学院にいた時期被ってるよね?」
 ふと、思い立ったようにルアスが言った。そういえば、とゼキアはお互いが学院で過ごした期間を整理してみる。ルアスがマーシェル学院に来たのは物心つくかどうかという幼い頃で、退学になったのはごく最近のこと。自分が居たのは五年ほど前までだ。確かに同じ時期に学院にいたことになる。
「ああ、そうだな。そのわりにお前の話聞いたことねぇけど……光の子なんて、有名になりそうなものだけどな」
 類い希な光の息子、加えてルアスの場合は大変に見目も良い。学生の間で話題になってもよさそうなものだったが、学院に在籍している間耳に入ってきたことは一度もなかった。しかしルアスにとってその辺りのことは重要ではないらしく、首を捻るゼキアに構わず別の質問を投げかける。
「あのさ、魔法の講師の、シェイドって分かるかな?」
「魔法の……?」
 言われて記憶を遡ってみるが、該当する人物は思い当たらなかった。だが講師と言っても数が多いし、五年前ともなればあやふやな部分もある。単に思い出せないだけかもしれない。
「……分かんねぇな。それがどうかしたか?」
「あ、うん。あのね――」
 ルアスが何かを切り出そうとしたその時、店の扉を叩く音が鳴り、二人はそちらへ目を移した。こんなに来客が多い日も珍しい。しかし今度の客は、ノックしたきり中に入ってこようとはしなかった。営業中の札は掛かっているはずなので、顔見知りなら躊躇する理由は無い。まさかとは思うが、またルカ達が戻って来たのだろうか。
「……誰だろう。見てくるね」
 ゼキアが何か言うより先に、ルアスが席を立った。此方の心境を察したかのような動きに己を不甲斐なく思いつつ、彼の足取りを目で追う。やがて扉を開いたルアスから、驚きの声が上がった。
「――シェイド!?」
 ルアスの肩越しに見えたのは、痩身の、黒い髪と目を持つ男だった。全く見知らぬ顔である。だが、ルアスの様子を見るともしや知り合いなのだろうか。
 そこまで考えて、ゼキアはふと今し方の会話を思い出した。その名前は、先程学院の講師だと言っていたものではなかっただろうか。
「こんにちは。少し、お邪魔させてもらうよ」
 そう言いながら、男は店の中へと足を踏み入れた。その瞬間、ぞくり、と背筋に悪寒が走る。何だろうか、この不快感は。反射的に身構えて客人を睨むが、男は素知らぬ顔でゼキアに微笑みかける。
「君が、ルアスの言っていたゼキアさんかな。色々とお世話になったみたいだね。今日はルアスを迎えに来たんだ」
「……話が見えないんだが」
 唐突すぎる話に疑念を感じてルアスに視線を送ると、彼もまた困惑したように答えた。
「えっと、シェイドは学院にいた頃にお世話になった人で、さっき街で偶然会って、もしかしたら学院に戻れるかもしれないって話で……でも、それはまた今度って」
「少し、事情が変わったんだよ」
 しどろもどろに説明するルアスを遮り、男は笑みを深めた。闇色の瞳が細められ、青白い肌に血の気のない唇が不気味に弧を描く。その様はどこか陰湿な印象を与え、男が影を纏ったように周りより暗く見える気がした。
「これ以上話していると、余計なことを言われそうだったからね。それに君が以前同胞を焼いた炎の持ち主なんだろう? あれは堪えたみたいだからねぇ。傍にいられると面倒そうだ。知ってれば、もう少し早く迎えに来たんだけど」
「あんた、何を言って……」
 つらつらと訳の分からないことを並べ立てる男を問い詰めようとして、しかしゼキアは口を閉ざした。男が纏う影が、突然ざわめき始めたのだ。一瞬、己の目を疑う。しかしそれは確かに生き物のように蠢き、波打ち、凝縮された闇となって男の足元に集っていく。
「そういうことだから、返してもらうね――その子、大事な素材なんだ」
 男が、軽く横に手を滑らせる。それが合図だった。足元にある影の沼から、夥しい数の黒い手が湧いて出る。それは意志を持ったように、一点を目掛けて襲いかかった――ルアスの元へ。
「うわぁああ!?」
「ルアス!」
 瞬く間に黒い手はルアスを絡め取り、彼を包み込み繭のような形を作っていく。慌てて手を伸ばすが、間に合わない。ルアスは影の中に飲み込まれ、そのまま沼の中に沈んでしまう。
「くそっ、てめぇ!」
 魔力を手に込めて放とうと振り返るが、何もかも遅かった。男自身も黒い手に身を委ね、闇の中へと埋もれていく。
「じゃあ、さようなら。二度と会わないだろうけどね」
「ふざけんな! 待ちやがれ――!」
 叫ぶ声も虚しく、ぴちょん、と水音にも似た響きを残して男の姿は掻き消えた。黒い手も、影の沼も何もない。一瞬で消えてしまった。最初から、何も無かったかのように。
「……嘘、だろ」
 呆然と、ゼキアは呟いた。まるで悪夢。いや、夢ならどれほど良かっただろうか。ただ手を付けられないままだった二人分の食事だけがは、これが現実であるということを主張していた――。

   ※

 暖かい、夢を見ていた。まだ、何も知らなかった頃の夢だ。優しかった父と母、その手を握って無邪気に笑い転げている自分。懐かしい光景が、目まぐるしく眼裏を通り過ぎていく。まるであの時に戻ったかのように、少女の心に光が溢れだした。母の胸に抱かれているような、父の背におぶられているような、そんな安らぎ。
 しかし、微睡みから目覚めた時、少女はそれらが全て凍りついていくのが分かった。
「……ゆ、め」
 のろのろと顔を上げながら、少女は呟いた。瞳に映るのは、揺らぐことのない現実だ。閉ざされた部屋。ここにあるのは生きるのに最低限の備品と、床に散らばった数冊の本。そして隅に蹲る自分だけだった。窓すら無い密室は常に薄暗く、空気さえ重たい。床も壁も剥き出しの石の感触で、そのひんやりとした温度が少女の精神さえも凍えさせていく。
 息が、詰まりそうだった。ここに入れられてどれくらいになるだろうか。日付さえあやふやになっていく感覚に怯えながら、少女は指折り数を数える。一カ月と少し、だろうか。あの恐ろしい話を耳にしてから――。
「……怖くない。怖くない」
 再び固く目を瞑り、膝に顔を埋める。震える身体を鎮めようと、少女は呪文のように繰り返した。
 最近、幸せだった頃の夢をよく見る。とうの昔に失って、二度と戻ることは出来ないであろう日のことだ。ある種の諦めさえ覚えていたというのに、心が逃げ場を求めて過去を揺り起こす。それが、逆に辛い現実を際立たせるだけだというのに。
 こんな風に考えるのは、初めてではない。閉じ込められるよりずっと前、初めてこの場所に連れてこられた時もそうだった。人も、物も、自分を取り巻く全てが得体が知れず、恐ろしかった。毎日、逃げ出したくてたまらなかった。それでも気が狂うこともなく留まり続けていられたのは、ひとえにあの少年のお陰である。彼は愚かにも何も知らず、けれども純粋な優しさで少女に接してくれた。彼と手を繋ぐことで不安が和らぎ、周囲の環境や人にも慣れ、少女は笑顔さえも取り戻すことが出来た。その日々だけが今の少女が持つ大事なもので、唯一の心の支えだった。
 だが、その少年はもうここには居ない。少女自身がそれを選んだのだ。彼だけでも、助けなければ。そう決意して必死に出立てを講じ、その結果が今なのだ。幼く未熟な思考では己の身までは顧みることは出来なかったが、仕方がない。自らが望んだ結果だ。だから、怖くはないはずだ。彼が無事ならば、それでいい。
「……ルアス、どうか無事で……」
 光の差さない檻の中、少女は孤独に祈り続けていた。

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