Scar 9

 緩やかに、意識が浮上する。水底から徐々に明るい水面へ向かうように少しずつ自我を取り戻し、ゼキアはのろのろと瞼を持ち上げた。
 暗い。外はもう日が落ちたのだろうか。天幕には僅かな隙間があったが光が差し込むことはなく、頼りないランプの光だけが辺りを照らしていた。未だ鮮明とは言えない知覚で、ゼキアは周囲を見回す。人の気配はない。どこかの下級騎士の天幕だろうか。目に入る備品は地味な見た目の最低限の物ばかりで、数人も中に入れば窮屈であろう広さの床にゼキアは横たわっていた。何がどうなって、自分はここにいるのだったか。現状を思い出すべく身を起こすと、鳩尾に鈍い痛みが走った。それをきっかけに、倒れる前の出来事が一気に脳裏に蘇った。
「そうだ、村が!」
 “影”が村を襲おうとしていたこと、騎士団長の下卑た微笑み、そしてオルゼスの横顔。それらが目まぐるしく浮かんでは消える。気付いた時には、ゼキアは天幕を飛び出していた。未だに殴られた場所の鈍痛が尾を引いていたが、そんなことに構ってはいられなかった。早く、村が見える場所へ。どうか無事であってくれと祈りながら、ひたすらに駆ける。
 無我夢中で走るうちに、駐屯地の端へと行き着いた。邪魔な天幕を避けて、村がある筈の方角を見る。既に夜は更けて空は黒く塗り潰されていたが、それに逆らうかのような明かりが遠くに見えた。騎士団、だろうか。だが彼らが持つ光にしては明るすぎる気がする。あれは、もっと大きなものだ。
 訝しむゼキアの頬を、生温い夜の風が撫でる。それに混じって、不快な臭いがゼキアの鼻腔を刺激した。これは何の臭いだろうか。確実に知っている気がするのだが、どこかに記憶を落としてきたかのように思い出せない――否、思い出すことを精神が拒絶していた。だが、事実が変わることはない。これは、何かが燃える臭いだ。幼い頃に焚き火をした、大人達がごみを処分するために火を使った、あの臭い。
 背筋に、嫌な汗が伝う。それに気付いてしまったら、もう誤魔化すことなど出来なかった。あの光も、騎士団の持つ明かりなどではない。一目見れば解ったはずなのだ。ただ、違うと思いたかっただけ。
「……嘘だ」
 村が、燃えていた。煌々と輝きを放ちながら炎は空までも手を伸ばし、全てを焼き尽くさんと村を呑み込んでいた。あれでは、何も残らないだろう。
 正しく現実を認知した瞬間、ゼキアは膝から崩れ落ちた。あれは自分の魔力で作られた炎なのだろうか。故郷を救いたくて磨いてきた力の筈なのに、それがなにもかもを奪ってしまった。両親は、妹は、友人達はどうしただろう。せめて逃げおおせてくれていれば、と願う。命だけでも助かっていれば――しかし、ただでさえ貧しく、築いてきたものさえなくなった村で、どうやって彼らが暮らしていけようか。
「なんで、こんな事に……」
 嘆いたところで、最早そんなものは意味を成さなかった。もう、どうにもならない。全ては後の祭りだ。胸には虚無感ばかりが広がっていく。
「こんな所にいたのか」
 呆然と燃える村を見つめるゼキアに、声を掛ける者がいた。真後ろまで来ていたというのに気付きもしなかったが、気付いていても振り向く気にはならなかっただろう。それが誰なのか判れば、尚更だった。
「……オルゼス。村は」
 抑揚のない声で、それだけを尋ねる。訊くだけ無駄なことと解ってはいても、有りもしない可能性に縋らずにはいられなかった。ややあって、淡々とオルゼスは答える。
「……“影”が人を襲い始めたのを見計らって火を放った。村の外へ逃げた住人もいるようだが、多数の死者が出ている。まだ全ては確認出来ていない」
 やはり訊かなければよかった、と思った。現実を知れば知るほどに、ゼキアは絶望の淵へと追いやられていく。胸の内に巣食った虚はその勢いを増し、留まることなく心を蝕み始める。
「父さんと、母さんは……リスタは」
 オルゼスは、これには答えなかった。沈黙だけが肩に重くのしかかる。その無言が何をいみするのか、ゼキアは理解してしまった。“影”に食われたか、炎に焼かれたか。いずれにせよ、ゼキアが守りたかったものは無くなってしまったのだ。跡形もなく、何もかも。
 じわり、と口内に鉄の味が広がる。いつの間にか噛みしめていた唇からは、血が滲んでいた。身体中に虚無が満ちた後、次に沸いてきたのは憤りだった。
「なんで、村がこんな目に遭わなきゃならなかったんだ」
 そこでようやく、ゼキアは顔を上げ背後を振り返る。無情な現実を突きつけながらどんな顔をしているかと思えば、オルゼスは驚くほど無表情だった。それがなおのこと神経を逆撫でし、ゼキアは彼に詰め寄り睨みつけた。
「これだけのことをしても、騎士団はお咎めなしか? どうしてこんなことが許される? 人を弄ぶような真似ばっかりしやがって、何が騎士団だ! なんであんたはそれに頷いたんだよ!」
 燃えているようだ、と評された己の瞳は、今まさに憤怒に燃え上がっているのだろう。目の前が真っ赤に染まったような錯覚にさえ陥った。ろくでもない命令を下した国王、それをいいことに村を破壊し尽くした騎士団。どうして彼らは裁きを受けないのか。焼き尽くされるべきは、彼らの方ではないのか。だが、何よりゼキアの心を抉ったのは、オルゼスの選択だったのだ。
「……あんたは、こんな騎士団をどうにかしたいんじゃなかったのか。それを信じて、俺はここまで来たのに」
 声が、震えていた。幼いゼキアを助けてくれた時、騎士にならないかと訪ねてきた時、密かに剣の稽古を付けてくれた時。常にオルゼスの瞳は真剣だった。虐げられる人々の姿を憂い、それを変えたいと思っているのだと――少なくとも、ゼキアにはそう見えていたのだ。それが、村を見殺しにした。ゼキアを行かせてすらくれなかった。自分が気付かなかっただけなのだろうか。彼も他の連中と同じで、甘い言葉に釣られてふらふらと王都までついてきた子供を裏で嘲笑っていたのだろうか。
 堪らず、オルゼスの胸を叩く。強く、繰り返し、訴えるように。
「ふざけんなよ。あんたも、他の奴らと同じだったのか? 親切な振りして見下してたのか? どうなんだよ……なんとか言えよ、オルゼス!」
 最後は、もはや懇願だった。どうか今までの日々を否定しないでくれと、拳に力を込めた。それでもオルゼスは沈黙を守るばかりで、ただゼキアの嗚咽だけが虚しく駐屯地に響く。
 ――結局最後までオルゼスの答えを得ることは出来ず、ゼキアはその日を最後に彼と袂を分かったのである。

コメント