恋月想歌 3

 コンコン、と控えめに扉を叩く音が響いた。部屋の中に居る人物からの応答はない。特にそれを疑問に思った様子もなく、返事がないのを確認したリムは静かに扉を開けた。
「……失礼します」
 此処は教会内の誰にでも解放している休憩室だ。味気のない簡素なテーブルと椅子、そしてベッドが置かれただけの場所だが、無料ということで金のない旅人などには重宝される――滅多に訪れることはないが。しかし今日は珍しく利用者がいる。先程の“被害者”だ。
「生きてるはずなんだけど……まだ目は覚めないのね」
 報せを受けて駆けつけた場所に倒れていたのは、見知らぬ一人の青年だった。顔色は酷く青ざめ死人のそれと大差ない程だったが、彼には特に外傷もなく、何よりまだ息をしていた。昨今の事件で誰もが過敏になっていたが、関係の無いただの行き倒れのようだった。かといって放っておくわけにもいかず、教会のこの部屋に運び込まれたのである。
 もし目が覚めていたら、と持ってきていた水差しをテーブルに置くとリムはそのままベッドに横たわる青年の顔を覗き込んだ。彼は男性にしては線が細く、顔立ちも中性的だ。日光など浴びたこともないような白磁の肌を持っていたが、腰ほどである髪は陽の光のような金色で、窓から射し込む夕日を反射してきらきらと輝いていた。形のよい唇は僅かに開かれ、浅い呼吸を繰り返す。閉じられている瞳の色は判らないが、女性が黙っている容姿ではないことは確かだ。
「……きれい」
 思わずリムは呟いた。色恋は禁忌とされる聖職者とはいえ、リムは今年で十六になったばかりの少女である。幼い頃に両親を亡くし神父に育てられたため成り行きでシスターをやっているが、人並みに異性に興味はある。見目が良いとなれば尚更だ。眠っている人をじっと観察するのも失礼だとは思うが、シスターである以上堂々と異性に視線を送るわけにはいかないのだ。少し位は大目に見て欲しい。そんなことを考えていた時だった。
「……うぅ」
 咄嗟にリムは身体を引いた。微かな呻き声と共に青年の顔が僅かに歪み、身じろいだのだ。やがてうっすらと瞼が開かれる。落陽に煌めいた両眼は、一瞬紅に染まったかと思うとすぐに元の色を取り戻す。琥珀、だった。
「ここ、は……」
 まだ意識が朦朧としているのか、身体を横たえたまま虚ろな目で部屋を見渡すと、ようやくそれだけの言葉を発した。
「ここはイーゼ村の教会です。貴方は村の入り口で倒れていたんですよ。覚えていますか?」
 唐突な目覚めに驚きながらも、リムは努めて冷静にそう尋ねた。まさかずっと寝顔を見つめていた、とは言えまい。
「イーゼ……そうか、私は」
 そこまで言って青年は半身を起こすと、同時に激しく咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
 慌てて青年の背中をさすり、少し落ち着いたところで水を差し出した。
「……ありがとう、助かる」
 青年は一気にそれを飲み干した。そうすることで少し気分が良くなったのか、頬には血の色が僅かばかり戻ってきていた。
「あの……貴方は旅のお方、ですか?」
 会話するくらいは体調に支障無さそうだと判断し、リムは尋ねた。村の者ではない以上可能性はそれくらいしかないのだが、疑問系なのは青年があまりに軽装だからだ。黒いシャツにストールを襟元に巻いただけ。荷物らしい荷物もない。旅人というには少々不自然である。
「いや、私はここから少し西にある森に住んでるんだ」
「西の森……!?」
 確かに、イーゼから徒歩でもそう時間の掛からない場所に森はある。鬱蒼とした豊かな森で、昔から狩りをしたり、野草などの食材や木材の調達をするのにイーゼの住民には馴染み深い場所だ。しかし、今まで人が住んでいる痕跡など誰も見たことがない。それに豊かな分危険な獣も多く、物騒な言い伝えもある。イーゼの周辺には資源らしい資源もこの森を置いて他になく、また辺境にあるため街にも出にくい。そのため森を利用する他はなく、立ち入るが直ぐに森の出口に出られる場所までで長居はしない……というのが村人達の鉄則だった。あまり人が住むのに向いている場所とは言えない。
「……少し奥まった所に住んでるから知らなくても無理はないかな。意外と住みやすい場所なんだよ」
 疑問が顔に出ていたのか、リムが何か言うより早く青年はそう答えた。
「ところで、シスター」
「は、はい?」
 そんなに露骨に不審そうにしてしまっただろうか、と考えこみそうになったところで声を掛けられ、リムは上ずった声を上げた。
「私の名はレスト。少し調べ物をするのにイーゼに来たんだ。暫しの滞在を許してもらえるだろうか?」
 青年は丁寧にそう言うとうっすらと微笑んだ――それはとても優しく、そして悲しげで、綺麗だった。一瞬、我を忘れて見とれる。心臓が大きく跳ねたのが分かった。
「……ええ、もちろんですわ」
 動揺を悟られまいと、出来るだけ平静を装って声を絞り出した。恐らく、あまり意味はなかっただろうが。
「滅多に使われない部屋ですし、ここはご自由にお使いになってくださって構いません。何かお困りの事があればお申し付けください」
「あ、あぁ……ありがとう」
 捲し立てるように一気に喋ると、リムは足早に部屋を出ていった。
「……少しだけ似てるかな、彼女に」
 一人残された青年は、閉ざされた扉をどこか遠い目で見つめ、そう呟いた――。

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