恋月想歌 4

 誰も居ない聖堂で十字架の前に跪き、手を組んで祈る。一日の終わりの習慣だ。その日を無事に過ごせたことに感謝を捧げ、同じように明日が来るよう願う――しかし今のリムの頭の中は別のことで一杯だった。昨日出会った青年のことだ。調べ物をしに来たと言っていたが、なぜあんな場所で倒れていたのか、とか、何回思い出してもぞっとするくらい整った顔立ちだったな、とか……正直なところ雑念ばかりで祈りどころではない。リムは手をほどき、ゆっくりと目を開けた。
「……シスター失格ね、これじゃ」
 十字架を見上げたまま溜め息をつくと、思いもよらぬ声が背後から掛けられた。
「何が、だい?」
「……きゃあああ!」
 振り返った視線の先に居たのは、まさにリムの思考を占拠していた青年――レストその人だった。思わず悲鳴をあげたリムに苦笑しながらも、彼は落ち着かせるように声を掛ける。
「すまない。そんなに驚かせるつもりはなかったんだけど」
「い、いえ、私こそすみません!」
 我に返ったリムは、慌てて非礼を詫びた。まさか人が、しかも彼が居るとは思わなかったのだ。早鐘を打つ心臓に鎮まれ、と言い聞かせつつ頭を下げれば、彼は気にしなくていいよ、と笑った。
「ところで、今日は教会で何かあったのかな?」
 どうやらそれが気になってレストはここに来たらしい。だが今日は特別なことは何もなかったはずだ。リムが祈りに来る前に、恒例のミサが行われていたくらいである。
「先程までミサが行われていましたが……それが何か?」
「いや……歌が、聞こえた物だから」
 どこか懐かしむような、寂しさを隠すような色を瞳にたたえ、レストは言った。歌といえば聖歌だろうか。古くからこの教会で歌われているものだが――彼にそんな表情をさせる何かが、あるのだろうか。
「多分、聖歌だと思います。昔からイーゼに伝わるもので、かつて聖女がよく口ずさんだ歌が元になっているそうです」
「聖、女?」
 簡単に説明をすると、レストは目を見張り少し驚いた様子だった。
「詳しく話を聞いてもいいかい?」
 もちろん構わない、とリムは頷いた。『調べ物』とはもしかして聖歌のことだったのかもしれない。特に深く考えることはせず、リムは歌の歴史をかいつまんで説明し始めた。自分の知識が彼の役に立つなら、それは嬉しいことだ。
「――イーゼにはヴァンパイア伝説、というのがあるんです」
 ヴァンパイアというのは、聖書に描かれている背徳者のことだ。地方によって姿形に差はあるが、いずれも人の血を啜る赤目の化け物とされている。
「はるか昔、イーゼの西の森にヴァンパイアが住み着き、次々に村人を襲ったそうです。それを憂いた神は一人の女性に聖なる力を与え、ヴァンパイア退治に向かわせました。それが聖女マリア」
 そこまで話すと、レストの表情が一瞬だけ動いた。しかしそれはほんの僅かで、どういった感情を宿したものかは解らなかった。気のせいかとも思い、リムは続けた。
「――マリアは神から授かった力でヴァンパイアを滅し、村には平和が戻ったといいます。それ以降彼女は聖女として祀られ、後世にも加護が得られるようにと彼女の歌っていた歌がそのまま聖歌になったんです」
 慣れた口調で、リムは話し終えた。この聖歌はイーゼ特有のものであり、時々訪れる街の人間などが珍しがって尋ねてくることも多い。説明するのは大抵リムの役目なので、聖歌の解説はお手のものだ。
「……なるほど。そういう風に伝えられてるのか」
 全て聞き終えたレストは妙に神妙な面持ちで頷くと、そう呟いた。
「レスト、さん?」
 奇妙な反応に戸惑って名を呼ぶと、彼ははっとしたように顔を上げた。
「何でもないよ……それより、ヴァンパイアは実在しないものだと思っていたけれど」
 そう、一般的にヴァンパイアとは架空の存在とされている。人々を戒めるために聖書に描かれたもの、というのが多くの人々の共通認識だ。実際に過去にあった、ということを前提にして話すリムに疑問を覚えるのは、自然なことだった。
「ええ、そうです。でもこの村では聖書以外にもヴァンパイアの記述がある歴史書が多く残っていて……それに」
 流暢に語っていた唇が、突如鉛のように重く閉ざされた。大事なことを、思い出したのだ。自分は少々舞い上がりすぎていたようだ。本来なら最初にこの事を告げ、早く立ち去るように警告しなければならなかったのに。いや、今からでもまだ遅くない――小さな決意をすると、ようやくリムは口を開いた。
「……最近、村人が次々に殺されてるんです」
 拐われて、殺され、見せしめのように村に打ち捨てられる。死体はある者は無惨に引き裂かれ、ある者は血を全て抜き取られていた。どちらにせよ人間業とは思えない――伝説にある化け物を彷彿とさせるものだった。
「みんな、ヴァンパイアが復活したんだと言っています。私も、信じたくはないのですが……」
 だから、ひたすらに神に祈り救いを求める。ミサに人が多くなってきたのはこのせいだ。
 語りながらもリムは身震いした。自身も不安と恐怖に押し潰されそうなのだ。ちらりとレストを見やれば、以外にも取り乱した様子ひとつなかった。
「……そうなんだ」
 レストは低い声で言うと、すうっと目を細めた。その瞳は不思議な色に輝いている。以前にも見たことがあるような――そう、彼が目を覚ましたときだ。夕日に輝いていたように見えたその色は、紅。
「まさか」
 考えて始めてみれば、全てが疑わしかったのだ。彼のことは名前以外なにもわからない。そしてかつてヴァンパイアが住んでいたとされる、西の森から来たという。
 驚愕を隠せないリムに、紅い目の青年は囁いた。
「お話ありがとう、シスター……しばらくおやすみ」
 リムの意識は、そこで途切れた。

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