恋月想歌 8

「君たちの言い伝えでは、ヴァンパイアは陽に当たると灰になってしまうんだっけ」
 どれほどの時間そうしていたのだろう。空が白み始めた頃、問い掛けとも言えないレストの呟きで、リムは一気に冷たい現実へと引き戻された。
「え……」
 慌ててレストを見れば、そこにはあまりにも変質した彼がいた。白い肌はまるで陶器のようにひび割れ、所々剥がれては崩れ落ちる。その欠片は風に流され、砂のように跡形もなく消えた。静かな、けれど壮絶な光景にリムは言葉を失った。
「本来なら太陽くらい何てことないんだけど……長いこと血を飲んでないから、この体も限界なんだね」
「そんな!」
 ああ、自分は何を呑気なことをしていたのか――無理矢理にでも休ませるべきだったと、今更後悔の念がリムを襲う。明朝にも命は尽きる、という彼を結局受容したのは自分だ。だがその崩壊を目の前にして悔いずにはいられなかった。その間にも、指先が崩れて消えた。今から陽の届かない場所へ移動させようにも、その衝撃で身体のすべてが崩れてしまいそうだ。どうにかして救う手だてはないかと麻痺しかけている頭を必死に回転させ辿り着いたのは、血を飲んでいないせいだと言った彼の言葉。
「血を飲めば……大丈夫なんですか?」
 ならば私の血を――そんな言葉の裏まで読み取ったのかは分からないが、レストがそれを受け入れることはなかった。
「マリアとね、約束してるんだ。もう彼女以外の血は飲まないって」
 こんな時でさえ、マリアとの思い出を語るレストは幸せそうに見えた。いや、こんな時だからこそかもしれない。彼は愛しい人の元へ行けるのだから。こうもまざまざと見せつけられると、その約束というのも他人が襲われる事を気遣った物ではないように感じる。独占欲、そう名のつくものに思えた。
「ああ、そうだ……まだ君の名前を訊いてなかった」
 冥土の土産にと、唐突にレストは言った。確かに名乗っていなかったことを思い出したが、何もこんな時に、と思う。
「……リム、です」
 震える唇で告げると、確認するようにレストは掠れた声で小さく名を呼んだ。それだけのことに、胸が締め付けられる。
「見送ってくれてありがとう、リム。向こうで彼女に会えたら君の事を話すよ」
 終わりは、目に見える形で急速に近づいていた。既にレストの四肢は風に消え、なおも崩れていく。どう足掻いても彼は消えてしまう。あんまりだ。まだ助けてもらった礼もきちんとしていないし……胸に抱いた想いも、言えずにいたのに。頬を伝う雫を拭いもせずに、リムはただレストを見つめるしかなかった。
「……うた、を」
 不意に、レストの唇から聞き慣れた旋律が零れ始めた。
「それは……」
 途切れ途切れでも決して間違えることはないだろう、イーゼ村の聖歌。だがよく聴くと、歌詞は見慣れたものではなく異国の言葉で歌われていた。おそらく、マリアがよく口ずさんだという原曲。ここだけは真実だったようだ。
「これは、ね――」
 独り言のようなリムの疑問に悪戯っぽく微笑んで答えると、彼の身体は全てが崩れ落ち霧散した。

   ※

 翌日、イーゼではしめやかに葬儀が行われた。件の獣に喰い殺された少女のものだ。教会に属するリムは当然忙しく動き回ることとなり、考え事をしている暇など小指の先ほどもなかった。夕刻、すでに殆ど日が暮れた頃になりようやく一通りの仕事をこなし終えたリムは、教会裏にある墓地の片隅に立っていた。
「こんなもので、すみません」
 リムが語りかけるのは、足元にある木の枝で作られた小さな十字架――レストの墓だった。遺体はないので、衣服などの僅かばかりの遺品が埋められている。夜が明けきった後、不思議と村人はレストの事を覚えていない様子だった。何度か見たヴァンパイアの力によるものかもしれないが、真相は行方不明だ。
「おそらく、皆の恐怖も次第に拭われていくでしょう。貴方のおかげです」
 返事はない。当然だ。辺りには人の気配さえない。この時刻ともなれば村人は例の事件を恐れて滅多に外出しなくなっていた。解決した事を知っているのはリムしかいない。だがいつかは時の流れと共に事件そのものが忘れ去られていくだろう。聖女マリアの真実が忘れられていたように。
「ありがとう。それから」
 リムは一瞬躊躇った後、やはり押さえきれず小さく想いを溢した。
「貴方が、好きでした」
 彼の笑顔に、一目で恋をした。最初から叶わないものだとは知らずにいたけれど。
 粗末な十字架に祈りを捧げ終わると、リムの唇は自然と聖歌の旋律を紡ぎ出していた。彼と、自分の想いへの鎮魂歌――そして、死者を悼むためのものではなく本来の意味を込めて。異国の言葉は解らなかったけれど、耳で聴いたものをぽつぽつと旋律に乗せる。レストの最後の言葉が蘇った。

『――これは、ね。恋の歌なんだよ。届かぬ月を想う、恋月想歌』

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