恋月想歌 7

「彼――ディアンはね、私の弟分みたいなもので、小さい頃から私がよく面倒を見ていたんだ」
 時折目を伏せながら、遠い記憶を慎重に手繰り寄せるようにレストは語り始めた。いくら拒否したところで彼が立っているのもままならない状態である事実は変わらず、結局二人で聖女の銅像にもたれ、地面に座り込むという形になった。この体勢の方が幾らかは楽なようで、レストの顔色は先程よりはマシに見えた――蒼白である事に違いはなかったけれど。
「彼はよく慕ってくれたし、私も彼が可愛かった。だから悪いことをしたとは思うんだけど……私にはマリアとの約束があったから」
「マリア……」
 思わず復唱する。幾度となくレストが口にしているその名前は、イーゼ村の聖女マリアと関係があるのだろうか。
 リムの呟きから疑問を察したのか、まずはそこから話そうか、とレストは笑った。
「君の話してくれたヴァンパイア伝説があるだろう」
 そういえば聖堂でそんな話をしたと、リムは頷いた。その時はまさか目の前に居るのが本物のヴァンパイアだとは想像もしなかったが。
「事実と違う所は幾つかあるけど、あの話のヴァンパイアは恐らく私のことだ」
 やはりか、とリムは思った。西の森に住んでいる、ヴァンパイア。予想できる要素はいくらでも合った。気づかない方がおかしいのだ。疑問があるとすれば、なぜ聖女が葬ったはずのヴァンパイアがここに居るのか、という点である。それが彼の言う“事実と違う所”に掛かってくるのだろう。
「では、聖女を直接知っているんですね?」
 レストは静かに頷いた。
「自分で言うのも変だけど、私は穏健派でね。森に来る人間の血を死なない程度に貰ってたんだよ……まぁ必然的にイーゼ村の人が多かったんだけど」
「じゃあ、殺してた訳じゃないの……?」
 自分が読んだことのある書物では、さも殺戮の限りを尽くしたかのように書かれていた。しかし、伝え聞くよりずっと穏やかなレストを見ていると、それが事実なのだろうと思える。
「まぁ、向こうにしてみれば同じようなものだったんだろうね。ちょっと気を失ってもらったりはしたから」
 血を分けてくれと言って素直にくれる人間も居ないしね、とレストは苦笑した。それでも伝説の中のヴァンパイアとは随分差があると感じた。そもそも背徳者、化け物と描写している聖書が間違いだったのではという気さえしてくる。
「それで私の事をどうにかしようとイーゼで決められたらしくて。生け贄、という名目で私の元に来たのがマリアだった」
 レスト曰く、マリアは遠方の国から連れてこられた奴隷だった。身寄りのない彼女は生け贄にはうってつけで、彼女を捧げるから村の人間には手を出すな、ということだったらしい。
「……村で伝わっている話と随分違いますね」
 生け贄、という単語を反芻してリムは顔を歪めた。レストの話を聴く限り、神の力を授かった聖女など存在していないではないか。
「歴史なんてそんなものだよ。まぁ、誉められたことをしてない自覚は当時の村人にもあったんじゃないかな」
 だからこそ“聖女マリア”という存在をでっち上げ、祀ってきたのだ、と。今でこそ廃れた奴隷制度だが、資料は残されている。それを見れば、奴隷であったマリアが非人道的な扱いを受けていたことは想像に難くない。そして更に、村人は彼女に犠牲となることを強いた。その罪の意識から逃れるためか、後世に汚点として残さないためか――何にせよ、自分達の都合で事実を都合の良いようにねじ曲げたのは確かだ。
「……ひどい」
 ディアンの言った“真実”とは、この事を指していたのだ。汚い部分を取り繕おうとしたその行為自体が、最も愚かに思えた。そんな存在に勝手に悪だとされているなら、レストが人間と居ることに顔をしかめたディアンの気持ちも、少しは解る気がした。しかし憤るリムとは対照的に、レストは特に気にした風もなく続けた。リムもそれ以上何かを言うことも出来ず、押し黙った。
「そんな経緯だから、彼女は村に帰りたがらなかった。継続的に血を提供してもいいって言うから私もありがたかったし、一緒に住むようになったんだよね。それで……」
「……それで?」
 急に歯切れの悪くなった彼に続きを促すと、先程までの重苦しい話をすべて吹き飛ばすような事実を口にした。
「いや、まぁ……一緒に生活するうちに情が移ったというか、早い話が惚れてしまったんだよね」
「……えぇ!?」
 思いもよらぬ方向に話が転び、リムは素っ頓狂な声をあげた。人を害する筈の、相容れない存在であるヴァンパイアが人を愛するなど。驚愕するリムを横目に、レストはどこか照れたように微かな笑みを浮かべた。
「マリアも同じと言ってくれた。幸せだったよ、短い時間ではあったけど」
 人は私達と比べると短命だからね――そう、最後に呟くように付け足した彼は、笑みの中に愛おしさと寂しさとを混じらせていた。
 その横顔が、ひどく綺麗だと思った。彼がマリアを愛していたことに、疑う余地はないのだと悟る。嘘でこんな顔は、きっと出来ない。人を襲う背徳の化け物は、こんなにも儚げで優しい笑みの人だった。マリアもきっとそんな笑顔に惹かれたのだろう――それは我が身を持って理解できるのだ。たった今知った真実が、胸をチクリと刺した。
「やがてマリアが死んで、私がその後も人間の血を飲もうとしないのがディアンは気に入らなかったみたいでね」
 血を飲めと迫るディアンから逃れようとレストは姿をくらませ、呼び掛ける声にも決して応えなかった。それに業を煮やしたディアンが目を着けたのが、かつてマリアが過ごした村――イーゼだったのだ。
「私もまさか、ここまでやるとは思わなかったんだけど……私はこの村を壊されたくなかったから、どうにかしようと思ってね」
 そしてリムを使ってディアンを引きずり出すことにした。自分と関わったことのある、しかもヴァンパイアを敵視する聖職者ならなおのこと標的にするだろうと踏んでのことだった。そして予想通りディアンは現れ、その後はついさっき見た通りだ。
「……どうしてそんなにイーゼを大切にしてくれるの?」
 これは、話を聞きながらずっと燻っていた疑問だった。確かに彼の想い人が過ごした場所だったかもしれない。しかしそれは随分遠い昔の話で、何よりマリア自身がこの村に愛着があるとは考えにくいのだ。奴隷という扱いを受けていたのだから当然とも思えるが、帰りたがらなかった、というくらいなのだから。
「……マリアがね、イーゼの朝日が綺麗だったと言ったから」
 少しの沈黙の後、彼はそう言って空を仰ぎ見た。
「ただ、それだけなんだけどね」
 つられてリムも空を見上げた。いつの間にそんなに時間が経っていたのか、夜の闇は深い藍へと姿を変え、顔を覗かせ始めた太陽の光と混ざり合い不可思議な色を描いていた。
「……ええ。確かに、綺麗です」
 今までずっと何も思わずに見てきたものがこんなに美しいのは、レストの力だろうか。どこか夢心地に、リムはため息をき、徐々に色を変える空をただ無心に見つめ続けた。

コメント