虚ろの神子 9

 元来リディム教は、伝説にある魔女の災厄から民を守るために生まれたものだった。かつて屍の山を築いた恐るべき魔女、それがやがては甦るという予言。怯え、祈りを捧げる民と、彼らを導こうとする司祭が一つ所に集ったのが始まりである。神の恩寵――〈聖呪〉を示し、来るべき日の希望を見失わないための信仰だった。しかし人間というのは忘れる生き物である。時が経ち古びた記憶は歴史に埋もれ、次第に見向きもされなくなっていく。信仰は形骸化し人々は救いを求めなくなる。だが、教会はそれを良しとしなかった。聖呪を持つことに選民思想を強めた聖職者たちは、奇跡を振りかざし逆に恐怖を喧伝するようになった。この力を敬わぬならその者は魔女に食われよう、といった具合だ。とはいえ、今となってはそれも昔の話である。現在は〈聖呪〉が発露すること自体が稀で、振りかざすほどの力もない。一部の信心深い人間に影響が残る程度に留まっていた。状況が変わったのは当代の教皇――マリウスその座に就いてからのことである。
 マリウスは元々伯爵家の四男で、王宮の権力争いからは縁遠い身であったが、聖職者となった彼はその野心と巧みな弁舌をもって教皇にまで成り上がった。およそ十年前のこと、マリウスは齢三十を過ぎたばかりであった。類稀な指導者を得た教会は徐々に権勢を強めていく。
 そして今。魔女の復活を予言された年であること。各地で災害が重なったこと。マリウスの思惑と環境が噛みあい、教会はこれまでにないほどの発言力を得ていた。私兵を持ち、人心を操り、マリウスは教会だけに飽き足らず王に成り代わろうとしている。馬鹿馬鹿しいと吐き捨て見ないふりをするには、教皇の権力は大きく育ちすぎていた。
 いよいよ玉座に手を伸ばそうというマリウスに、穏健で知られるコンラート王も重い腰を上げざるを得なくなった。そうして作られたのが王直属の機密組織――〈天使の牙〉である。
「まぁ、〈牙〉っていうのは暗号やら隠喩やらで会話しているうちに定着した通称で、別に名前があるわけじゃない。なにせ機密組織だからな」
 カミルの眼光は、組織の来歴を語るうちにいくらか穏やかになったようだった。長い前置きと簡素な説明、付け加えられた余談を聞き終え、リューグは息を吐く。教皇の振る舞いについては今更だ。これまでにも自分の目で見聞きしている。教会の成り立ちにもさして興味はなかった。問題は目の前にいる男とその仲間である。
「……王様から直々に命令を下されるような連中が、なんでこんな場末の酒場に集まってるんだよ。機密っていうならそんな簡単に俺に喋っていいのか」
「教皇も組織の存在は察してるさ。だからこそ市井に紛れて奴の目の届かない場所を拠点にしてるんだよ。俺たちの主な仕事は情報収集だ。教会の動向を監視するのはもちろんだが、民衆の声を聴くのも大事だしな。もっとも、今日はいつもとは違う目的で集まってたんだが」
 そこで言葉を切ったかと思うと、カミルはリューグの顔を見つめ含み笑いを零した。何がおかしい、と口を開きかけたところで、怜悧な声がカミルの語を継いだ。
「魔女の処刑」
 シェーラと呼ばれていた女だった。彼女はリューグとは目を合わさぬまま先を続ける。
「神子の存在が明かされる少し前から、魔女復活の噂が流れ始めた。教皇がそれを利用してるのは分かってたから、魔女に仕立て上げられた女が捕らえられる直前に接触して、入れ替わった。群衆の中に得物を持った面々を紛れさせて、処刑に乱入する予定だったの。偽の魔女の刻印を流して、教皇と神子が罪のない人間を処刑していると摘発して、民衆の心が離れるように扇動するつもりだった」
 そこで、シェーラはようやくこちらを見た。最初のような衝撃はない。けれど、やはり彼女の視線はどこか落ち着かない気分にさせられた。
「それが、こっちが動く前にまさかの神子様がぶち壊すんだもんなぁ。それで、ひとまず隠れ家で合流して話し合いってことになって、今に至る……と」
 語り手がカミルに戻った。偽の魔女を演じていたのはこの男だ。口調からは感じさせないが、随分と危ない橋を渡っていたらしい。計画がリューグによって邪魔されたという非難にもとれるが、予定通りことが運んでいたらどうなっていただろう。武器を持っていたとしても、教会の兵の数には敵うまい。
「無謀だな。外側から教会兵を突破できたとは思えない」
 考えたままのことがつい口をつく。しかしカミルはリューグの評に声を荒げるでもなく、不機嫌そうに鼻を一つ鳴らした。
「否定はしない。こっちも焦ってたんだ。神子と王女の婚約まで発表されて、ここで魔女の処刑まで成し遂げられたら民衆の熱狂も歯止めがきかなくなる……ま、結果として今回の教皇の企みは失敗に終わったんだけどな。色々と想定外ではあるが、状況は悪くないさ」
 そう言うとカミルはふと息を吐き、リューグに大きく詰め寄った。
「さて、この辺であんたのことも話してもらおうか。なぜ神子が教会から逃げしたんだ? 良心の呵責とか?」
 問いかける声には、どこか面白がっているような響きがあった。周囲の視線が一斉にリューグに集まる。敵意と不安と興味がないまぜになった空気を肌に感じながら、リューグは考えた。教会から逃げ出した理由。良心などという大層なものは持ち合わせていない。周りの人間はリューグを利用することしか考えていない連中ばかりだし、それ以外の存在は記憶のない自分にとっては希薄なものだ。大事なのは、見えない記憶の中にある何か、だった。だからそれを奪おうとする教会から逃げた。飢えも渇きもない場所だったとしても、それだけは許せなかった。
「……これ以上奪われないため、だな」
「何を? 財産にしろ命にしろ、教会の中枢ほど安全な場もないだろうに」
「そういうことじゃない」
 訝しむカミルたちに、リューグは渋々これまでの経緯を話すことになった。といってもそれほど長いものではない。記憶がないこと。薬湯を飲むことを強要されたこと。記憶を失ったのは、恐らく教会の仕業であること。しばしば見る夢については黙っておいた。あれはリューグ自身にも掴みどころのないものだし、他者が容易に踏み込んでくるのも嫌だった。
 一通り話を聞き終えたカミルは、なるほど、と顎を撫でた。
「記憶があるのはここ一年くらい、だったな」
「そうだけど」
「教会が神子を喧伝し始めた時期と重なる。記憶を奪って神子に仕立て上げたのか。そうなるとあんたも被害者ってことになるが、〈聖呪〉は使ってたな……それは本物か?」
 言いながらカミルが目を向けたのは、リューグの右手だった。魔女に禍々しい紋章が現れるのと同様に、救いの神子にも『しるし』がある。魔女の伝説の中でも広く知られている部分だ。リューグは応えぬまま紋章を指で擦った。どうあっても消すことができなかったものだが、本物かどうかはリューグの知るところではない。忌まわしいものであることだけは確かだが。
「ああ、刺青なら消えることもないか。まぁいい、話を最初に戻すとしよう。どうだ?」
 リューグの沈黙をどう受け止めたかは分からないが、カミルは勝手に納得したようだった。短く問い直されて、なんのことだったか、と一瞬考える。ここまで語る発端となったもの。カミルたちに協力するかどうか、だったか。
「〈聖呪〉で教会を潰せ、とでも言うのか?」
「まさか。奇跡の力でも使いすぎれば死ぬことくらい知ってるさ。それじゃあ面白くない」
「じゃあ、何をさせようっていうんだ」
 カミルは多少リューグの力を誤認している。いくらか使った〈聖呪〉の感覚でいえば、物理的に潰すくらいは不可能ではないだろう。だが、わざわざ訂正はしなかった。安定して使えるものではないし、そこまで大きな力は使ったことがない。ならば明かす必要はないし、無闇にこちらの手札を見せるべきではないだろう。まだ信用できると決まったわけではない。
 警戒心を隠さないリューグに、カミルは軽く言ってのけた。
「教会と同じことをするだけだ。神子を象徴に掲げて、神の意はここにありって示してやるんだよ。あんたは言う通りに振舞ってればいい」
 簡単だろう、とでも告げるような態度に、リューグは強い不快感を覚えた。本当に、全く、教会と同じことを言う。自分たちの都合で、リューグをいいように利用したいだけ。そこにこちらの意思は介在しない。
「不満、って顔だな。でもお前、これからどうするつもりだ。聞いた限りなら記憶を取り戻したいってところだろうが、あてはあるのか? 俺みたいに事情を聴いてくれる人間ばかりじゃないぞ」
 カミルの指摘に、リューグは短く呻いた。彼の言う通りではある。ここで拒否したところで、他にあてはない。短絡的である自覚はあった。
「いいか、これは取引ってやつだ。あんたは俺たちに協力する。代わりに、俺たちは記憶を取り戻すまでの居場所を提供する。少なくとも〈牙〉はあんたの記憶を奪うような真似はしない。悪い条件じゃないと思うけど?」
 カミルが更に畳みかける。彼の声音は確信的で、そうなのだろうと思わせる力があった。リューグは逡巡した。このまま流されていいのだろうか。もしここでも己の根幹を汚されるようなことがあれば、どうなってしまうのか自分でも想像ができなかった。そんなリューグの迷いを察したのか、カミルは溜息と共に肩を竦めた。
「……とは言ったが、無理強いはしないさ。一応、助けてもらった恩もあるしな。嫌ならそこから出ていけばいい」
 カミルは顎で先ほど下りてきた階段を示した。下から見上げた先は薄暗く、ろくにものも見えない。そちらへ戻るか、カミルの提案を受けるか――どちらがいいかは明白に思えたが、言葉は違えど神子として祭り上げられることに強い忌避感があった。易々と人を信用するな、と――そう言い含められたのは、いつのことだろう。
「……出口に二人」
 不意に、第三者の呟きが場に響いた。シェーラだ。瞬間、カミルの表情が一気に険しくなる。
「シェーラ!」
「武器を持ってる。階段から上がってきた瞬間にぐさり、でしょうね。命が惜しいならそちらは止めとくことお勧めするわ」
 咎めるようなカミルの叫びにも構わず、シェーラは淡々と続けた。武器を持った二人、と聞いて、酒場に入ったとき酔いつぶれていた男たちを思い出す。彼らも〈牙〉の一員であったらしい。疑惑をもってカミルを見返すと、彼は盛大に舌打ちした。
「当たり前だろう。取り込めないなら始末する。教会に戻られたらたまったもんじゃない」
「〈聖呪〉で返り討ちの可能性もあったわけだけど」
「だからそうならないように立ち回ってたんだろうが! それをあっさりネタばらししやがって、裏切る気か!?」
 捲し立てるカミルを横目に、シェーラは動じる素振りもなく反論した。
「初めから仲間になった覚えはないわね。私は雇われでしかないし、私には私の考えと目的があるって言ったでしょ」
 シェーラはそれきり黙り込むと、こちらに背を向けて無言の姿勢を貫いた。ひりついた空気の中で、カミルが額を押さえ溜息を吐く。周囲の仲間たちも目配せしながら頷き合っていた。どうやら組織も一枚岩とはいかないようだ。
「要するに、最初から提案でもなんでもなく脅しだったってことだな」
「……そうだとも。こうなったら、何が何でも外へ出すわけにはいかなくなったな」
 カミルの声が一層低くなる。首を振ればここにいる全員が敵に回るのだろう。軽率だったかと後悔してももう遅い。〈聖呪〉が安定しない以上、こちらは丸腰も同然だ。だが選択肢がないと分かれば腹も決まった。当然、命は惜しい。
「仕方ないから、あんたの話に乗ろう。二つ同時に敵に回すよりましだ」
 これからについては全く不透明だ。記憶も自然に戻るものなのか、なんらかの治療が必要になるのか見当もつかない。だからひとまず、当面の安全を確保する。逃げ出さない保証はしないが、先方もその可能性は考えるだろう。その上でまだ神子を欲するだろうか――そう相手の出方を窺うリューグを、カミルは冷笑した。かと思うと、唐突に胸倉を掴まれる。
「……言ったからにはとことん協力してもらう。最後まで付き合えよ、神子様」
 多少の不確定要素があろうと、神子というのは手に入れておきたいものらしい。そういえばマリウス教皇もそうであった。鼻先で凄むカミルを前に、白けた気分でリューグはそう分析した。細身のようでいて意外と力の強い腕を、渾身の力で振り払う。
「神子、はやめろ。勝手に周りがそう呼ぶだけだ。せめてリューグと呼べ」
 それすら教会から名乗れと命じられた名であったが、『神子様』よりはいい。神子と呼ぶ人間は、大抵リューグではなく別の何かを見ている。
 そんなこちらの心境を慮ったわけではないだろうが、カミルは張り付けたような笑みで頷いた。
「ならそのように。改めて、カミルだ。よろしく、リューグ殿」
 今しがた胸倉を掴んでいた手をカミルは前に差し出す。気に入らないのは恐らくお互い様だ。リューグとて、辛抱しなければならない場面があることも心得ているつもりだった。それに、気になることもある。
 ほんの少し視線を逸らし、シェーラを見る。彼女は相変わらず背を向けたままだった。あの言葉にならない衝動はなんだったのか――尋ねる機会はあるだろうか。
「……よろしく頼むよ。カミル」
 思案を悟られぬうちに、カミルの手を握り返す。これが自分にとっての新たな一歩となるはずだと、リューグは信じることにした。

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