虚ろの神子 1

 いつも、同じ夢を見る。
 夢の中で俺は、短い手足を懸命に動かし何かから逃げていた。周りは知らない街だった。土で固められた建物も荷運びする驢馬もありふれた光景だが、吸い込む空気は馴染みのない味がした。当然、道も分かるわけがない。
 背後から男たちの怒号が聞こえる。そのたび俺の身体は竦み上がり、人込みに突っ込んでがむしゃらに走り続けた。街の大人たちは素知らぬ顔で、或いは眉を顰めて迷惑そうに、俺を捕まえようとしたり、追いかける男たちに野次を飛ばしたりする。助けてやろうなんて物好きはどこにもいない。子供なら辛うじて通れる建物の隙間を見つけ、裏路地に逃げ込めたのは奇跡のようなものだった。
「おい、そっちに逃げたぞ!」
「反対から回れ! せっかくいい買い手がついたんだ、絶対に逃がすな!」
 追手の声が遠のくのを確かめて、俺はその場に崩れ落ちた。路地裏は暗く、じっとりとしていて、酒と吐瀉物の混じりあったすえた臭いが漂っていた。環境としては最悪だったが、少し休みたかった。心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っていて、何度息を吸っても呼吸が楽になる気がしない。足も笑えてきそうなくらいに震えていて、幼心にも自分の身体が限界であることを悟った。そして、このまま座り込んではいられないことも。
 ――逃げないと。
 男たちはまだ俺を探しているだろう。ここでじっとしていればすぐに見つかってしまう。またあの窮屈な檻に戻されるのは御免だった。趣味の悪い成金野郎の玩具にされるのはもっと御免だ。
 だが思う心とは裏腹に、四肢には力が入らなかった。立ち上がろうとして尻をつく、という流れを何度か繰り返していると、ふと目の前に影が落ちた。追いつかれたか――絶望と共に顔を上げると、そこには全く予想外の存在がいた。
「……逃げてるの?」
 俺を見下ろしていたのは、年端もいかぬ少女だった。とは言ってもこの時の俺よりはいくつか年上に見え、恐らくは七、八歳といったところか。多く見積もっても十には届かないだろう。俺と同じように襤褸をまとっていて、泥にまみれた手足で、けれども凛と背筋を伸ばし立っていた。俺はその姿に呆けたように目を奪われ、そして一瞬で我に返った。微かに野太い男の声が聞こえたからだ。近くまで来ているのかもしれない。少女は声のした方にちらりと目を遣り、そしてまた俺に視線を戻した。
「逃げた奴隷って、あんたでしょ。通りで騒ぎになってた」
 少女の指摘に、俺は身を強張らせた。それを知っているということは、あの奴隷商たちを誘導してきたのは彼女かもしれない。咄嗟に立ち上がり駆け出そうとして尻をつき、ろくに動けないことを思い出す。もう終わりだ――そう思いかけた時、少女が突然俺の手を掴んだ。驚きに声も出せずにいると、そのまま強引に立ち上がらされ、俺は少女に引きずられるように裏路地を歩き出した。
「ちゃんと立って。歩いて」
「ちょっと、待って……」
 弱々しい俺の制止を、彼女は聞き入れなかった。どうにか手を振りほどこうともがくが、疲弊しきった身体ではそれも叶わなかった。
「捕まりたくないんでしょ。この辺の路地は入り組んでるから、上手くやれば逃げ切れると思う。ここであの男たちの迎えを待つなら、別にそれでもいいけど」
 肩越しに振り返った少女の眼光は鋭く、俺は何も言葉を返すことが出来なかった。そんな俺に少女は軽く鼻を鳴らすと、足早に歩きだした。俺も少女の手に引っ張られながらどうにか歩みを進めていく。彼女の素性も自分を助ける理由も分からなったが、とにかくここにはいられない。握ったこの手の温もりを、離してはならない――それだけが、俺にとっての希望だった。

 剥がれかけた屋根と今にも崩れそうな梁の隙間から、朝の白い光が差し込んでいた。見慣れない景色に、果たしていったいここはどこだっただろうかと首を傾げた。鉛のような身体に鞭を打ち、のろのろと上半身を起こす。埃に塗れた全身。転んで出来たであろう擦り傷もあちこちにある。そう、俺は逃げていたのだ。それを思い出した途端、一気に目が冴えた。あの男たちはどうしたのだろうか。
「……あ、やっと起きたの? もうこのまま放っておこうかと思った」
 近くで響いた声に振り返ると、一人の少女の姿が目に入った。その瞬間、ようやく俺はここの至るまでの経緯を思い出した。あの後少女に手を掴まれて薄暗い路地を歩き回り、最終的に足を止めたのがこの廃屋だったのである。というより、俺がここで力尽きたというのが正しいかもしれない。休ませてくれと訴える俺に、少女が顔を顰め少しだけだ、と告げたところまでは記憶がある。恐らく、そのすぐ後に気を失ったのだろう。外が明るい、ということは少しどころではない時間眠っていたようだ。ここに辿り着いた時は夕日が差していたはずだったから。
「ほら、飲めるなら飲んで」
 黙ったままの俺に、少女は水の張られた器を差し出した。廃屋に放置されていた陶器で、どこからか汲んできたのだろう。埃が浮き、そこに砂が溜まったそれを、少女に促されるがままに飲み干す。乾ききった幼い身体に滲み込む泥水は、驚くほど甘美だった。
「……あいつらは?」
「もうこの街からは出ていったみたい。それらしい人たちが出ていくのを見たって人がいたから。次の商談がどうのこうのって……運が良かったわね」
 もう、あの男たちはいない。それを聞いて、じわじわと緊張が解けていくのを感じた。もう理不尽に殴られることも、いやらしい目つきで値踏みされることもない。晴れて自由の身だ。それは、生まれて初めての喜びだった。
「あの、助けてくれてありがとう」
「別に。私もああいう奴らが嫌いだから、出し抜いてやりたかっただけ。じゃあ、そういうことだから」
 たどたどしく伝えた礼を軽く受け流し、少女は徐に立ち上がる。その仕草を何とはなしに目で追っていると、気付いた少女が眉を顰めた。
「もう、用はないでしょ」
「え……」
「追ってきた連中はいなくなった。どこへでも好きな所へ行きなさいよ。それともまさか、何も考えてなかったの?」
 少女の繰り出す言葉に、急激に身体が冷え切っていく。親兄弟はない。今いる街の名も知らない。頼るあてなどなかった。あの檻の中が嫌で嫌で、僅かな隙を見つけてがむしゃらに走って――その後のことなど考えてもいなかったのだ。逃げ切りさえすれば地獄から解放されると信じていた。けれど逃げ切った今、俺は途方に暮れた。金はない。学もない。そんな子供が一人で生きていけると思うほどには、俺は愚かではなかった。
「……馬鹿ね。大人しくしておけば、少なくとも死ななかったのに。そういうの無謀っていうのよ。考えなしに逃げたってまた同じようなのに捕まるだけじゃない。あんた、そういうのに好かれそうな顔してるし」
 呆れたような少女が追い打ちをかける。確かに俺は馬鹿だった。地獄から逃げてもまた別の地獄に行き着くだけだと、考えが及ばなかった。いや、考える前に身体が動いてしまったのだ。罵られるのは慣れた。殴られるのもまだ我慢できる。けれど下卑た笑い声と肌にかかる臭い息、それに伴う行為だけは、思い出したくもない。
「……俺は、どうしたらいい?」
「知らないわよ、そんなの。自分のことくらい自分でなんとかして。ただで人の手を借りられると思わないでよね」
 縋るような問いかけを、少女は一蹴した。彼女はたまたま俺を助けたが、所詮はその場限りの縁ということだ。俺はこれから一人で生きていかなければならない。いや、一人で野垂れ死ぬ、と言った方が正確だろうか。世界は冷たく残酷だ。愚かな者から死んでいく。例えば、後先考えず逃げ出した奴隷の子供のような者から――考え始めると、目頭が熱くなってきた。ぽろぽろと両の目から水滴が零れていく。たった今飲み干した水が、全て流れ出てしまうようだった。
「泣いたって助けは来ないでしょ。言っとくけど、私に期待はしないでよ」
 突き放した少女の物言いに、余計に涙が溢れてくる。分かっている、と言い返したかったのに、喉から漏れるのはみっともない嗚咽だけだった。どうしようもなくなって膝を抱えて額をつけ、暗闇を作ってその中に閉じこもる。その寸前に少女が背を向けたのが分かったが、もう何も言わなかった。この時の俺は、他に自分を守る術を知らなかった。
 ――どれくらいの間そうしていただろうか。ふと、何かが頭に触れた気がした。次の瞬間、髪を掴まれ、頭を無理矢理に持ち上げられた。
「……そんなに、助けて欲しい?」
 てっきり立ち去ったものと思っていた少女が、俺を見つめていた。不思議な瞳だった。泣いているような、怒っているような、遠い何かを見ているような。口調は冷淡だが、棘はない。期待するなと言ったその口で、なぜそのようなことを訊くのだろう。親切心は彼女自身が否定した。ならば無様に泣きつく様をみて嘲笑いたいのか。それも、違う気がした。なぜかと問われれば直感でしかなかったが、この少女についていくべきだと思った。
 俺は反射的に頷いていた。それとほぼ同時に、少女が掴んでいた髪の毛を離す。今度は俺自身の意思で顔を上げ、少女を見据えた。
「だったら、対価がいる。さっきも言ったけど、ただなんて思わないで」
「俺、何も持ってないよ」
「そんなの見ればわかる。仕方ないから後払いでいいわ。その代わり、働くのよ。それで利子ってことにしてあげる」
 働く、と鸚鵡返しに呟き、自分の手を見つめる。細く小さな子供の手だ。少し走れば息が切れるし、大人の男のように重いものも持てない。この手でなんの仕事が出来るだろうか。
 そんな思考を、少女の声が遮った。
「あんたが思ってるのとは多分違うわよ。私のために働くの。危ないことも、汚いこともやらせるわ。それでも、私と来る?」
 差し伸べられた手は俺と同じくらいか細く頼りなかったが、俺は迷うことなくそれを握り返した。すると、少女が少しだけ微笑んだ気がした。そのまま少女の手を借りて立ち上がる。
「決まりね。あんたは、今から私の犬よ。名前は?」
「ない。忘れた」
 少女の問いに頭を振る。物心ついた時には檻の中に飼われていた。生みの親がつけた名前がもしかしたらあったのかもしれないが、呼ばれなければ意味を失う。それに、子を奴隷商に売り渡すような親からもらったものなど未練はなかった。少女は微かに顔を歪め、次いで何かを思案するように首を傾げた。
「……じゃあ、私が勝手に決める。あんたの名前は――」
 少女の唇が動く。俺は新たな自分の名に期待を膨らませ、耳を澄ました。少女は俺の胸元を指さして――。
 そこで場面は暗転する。音は消え、色は褪せ、それまでの景色は自壊していく。少女に貰った自分の名を聞くことなく、俺はいつも目を覚ます。

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