虚ろの神子 3

「アンヘルの民よ、否、ジスアード神聖国に住まう全ての命よ。心せよ。本来ならば、この日は大地の豊穣を祝い、神に感謝の宴を捧げるものであるとは誰しもが知るところであろう。だが今年はより重要な意味を持つものとなろう。今日という日に、ジスアードの歴史は一度幕を閉じる。深淵に微睡む災いが日の下に晒され、その命脈は断たれる。目に見えぬ災禍に震える日々は終わり、新たなる歴史が始まるのだ――」
 リューグが教会の見晴らし台に着いた時には、既に教皇マリウスの演説が始まっていた。朗々と今日という日を迎えた喜びと重要性を語る狭間に、群衆のさざめきが混じる。不安か、安堵か。そのどちらもであるかもしれない。ただ、恐ろしいほどの緊張感が広場を包んでいることだけは分かった。それらを肌に感じながら、リューグ自身もゆっくりと見晴らし台に向かっていく。近付くにつれて自分以上に派手な祭服を纏った男と、その向こうにひしめく人の群れが見えた。
「汚れなき大地からは大いなる実りが得られよう。天からは正常なる慈雨が降り注ごぎ、我らを祝福するであろう。皆の者、刮目せよ! その目に焼き付けるがよい。ジスアードを救う聖なる神子の御姿を――!」
 リューグがちょうど見晴らし台に足をかけたところで、高らかにマリウスが宣言した。同時に強く腕を引かれ、リューグは必然的に前へ進み出る形となった。その際に大きくよろめいたが、そんなものは誰の目にも入らなかったらしい。割れるような歓声が広場を支配した。地響きのような、嵐のような、獣の咆哮のような、声、声、声。広場に集った一人一人の感情が爆発し押し寄せる。手を組み祈る者がいた。希望に満ちた目で見上げる者がいた。涙を流す者がいた。多様な表情が入り乱れる中で、誰しもが見上げる視線のうちに『神子』への敬虔な愛を持っていた。
 無数の視線に、リューグは奥歯を噛みしめた。怖気が走る。リューグ自身に何か功績があるというわけでもないのに、よくもここまで信仰できるものだ。それも全てマリウスの手腕のなせる業である。流石は教皇にまで成り上がった男、というべきか。人心の掌握には長けている。
「よく、お似合いですよ」
 つい先程聞いたものと同じような台詞に振り返ると、マリウスが一揖した。撫でつけた鈍い鉄色の髪と丁寧に整えられた口髭、それに彫りの深い顔立ちとよく通る声は、彼を威厳ある教皇に見せるのに充分な役割を果たしていた。しかしその眼光は鋭く、奥底に並々ならぬ野心を飼っていることをリューグは知っていた。決してマリウスを忠実なる神の僕とは呼べまい。信仰心のなさに関しては、リューグも人のことを言えたものではなかったが。
「ですが寝坊はよろしくありませんな。お陰で演説用の原稿を大幅に直す羽目になりました。大事な儀式なのですから、もう少しお立場を自覚なさってください」
 白々しい説教に、リューグは黙って顔を背けた。今日の役目を散々渋っていたことは知っているはずだ。どうせこの程度の遅刻は織り込み済みだろう。マリウスは少し肩を竦めただけで、群衆に背を向けて見晴らし台から引き上げていく。教会を出て正面の広場へ向かうのだ。リューグも仕方なしにそれに続く。『儀式』の本番はこれからだ。神の名を掲げた、魔女の公開処刑の始まりだ。
 ジスアード神聖国には、古くから人々の間に語り継がれる伝説がある。災厄の魔女と、救いの神子の物語だ。千年の昔、世界を滅びへ導こうとした魔女がいた。彼女は神より賜った大いなる〈聖呪〉を用いて悪事を成した。病を撒き、街を燃やし、子供の返り血を浴びて高らかに笑っていたという。数多の屍を踏みつけ残忍な笑みを浮かべる魔女の姿は、絵画や壁画となって様々な土地に残されてる。その魔女に蹂躙されるがままに思われたジスアードだったが、正しく〈聖呪〉を用いる神の使徒が結集し、命懸けで魔女を封印した。彼らを失ったことで〈聖呪〉を扱える人間は激減し神の加護も弱まったというが、人の世は辛くも平和を取り戻したのである 
 しかし魔女は不吉な予言を残していた。打ち倒され塵と消える間際に声だけが宙に響いていたという。曰く、千年の時が満ちた時、私は再び世界を滅ぼそう――と。絶望する人々を前に、相対していた聖職者の男も同時に宣言した。魔女が復活せんとする時、救い主たる神子が現れ、その者だけは魔女を滅することが出来るだろうと。そう告げた瞬間男の身体は光に包まれ、魔女諸共に跡形もなく消え失せた。その場面は連綿とジスアードで語り継がれ、今年、ついに千年が経とうとしていた。
 語られてきたといっても、学者たちの間では魔女というのは何らかの災害の比喩である、というのが通説であるらしい。千年とは言ったが文献によって差異も大きい。だから本心から魔女を恐れている人間はそれほど多くはなかったのだ。ほんの、数年前までは。
 時が近付くにつれて、ジスアードは示し合わせたかのように立て続けに災害に見舞われた。原因不明の疫病、嵐、洪水、地震、それに伴う食糧不足。土地が荒れるにつれて民も人心を失い、生活に困窮した者が物盗りに身を落とすことも珍しくなくなった。彼らはやり場のない怒りと嘆きを魔女の伝説にぶつけ始めた。昨今の災害は魔女の所業であり、ならばいずれ救いの神子が現れ災いを退けてくれるはずだ――世論は悲痛な叫びに染まっていった。
 そんな中、魔女が捕らえられたという報が国中を駆け巡った。ほんの半月ほど前のことである。マリウス教皇の配下たちが災害の起こった土地に赴き、その痕跡を追って居場所を割り出したというのだ。捕らえるまでに五人の護衛兵士と十余名の司祭が命を落としたと伝えられた。人々は彼らの犠牲に涙し、魔女の捕縛に沸き立った。不自然さを指摘するものはいなかった。ことの真偽より、石を投げられる相手が出来たことの方が重要だった。ろくな裁判もないまま話は進み、魔女の極刑が決まった。本来なら豊穣の祭りが催される日、教会までの大広場で、全ての民の監視のもと断罪の儀式が行われる。執行人は救いの神子――即ちリューグである。
 溜息が出る。歩きながら、右手の甲を隠すように握り締めた。そこには神子の証である深紅の紋章が浮かんでいる。ジスアードの象徴である十字と、それを縁どる聖なる炎。擦っても皮膚を削いでも消えなかったものだ。『救いの神子』とてここ一年ほどで表舞台に名が挙がったばかりだ。しかしこの紋章のお陰で魔女の噂にも信憑性が生まれてしまい、リューグも〈聖呪〉の力があるというだけで都合よく祭り上げられてしまった。神子などと呼ばれても、自分は何も覚えていないというのに。
「神子様、背筋を伸ばしてお歩きください」
 斜め前からの呼びかけに、リューグは顔を上げた。教会の扉が開かれる。目に飛び込んできたのは皮肉なほどに眩い日差しと、ごった返す人の群れだった。神子様、と誰かが叫ぶ。初めはまばらだったその声は瞬く間に波及し、地響きのように広場を震わせていく。ともすれば前に押し出されそうな人の波を兵士が抑え、人垣の中の隘路を進んでいく。やがて見えてきたのは広場の中央に組まれた高台だ。あそこに今日の主役の一人がいる。
「さぁ民よ、刮目せよ。今こそ魔女は〈聖呪〉によって裁かれる」
 その台に上ったマリウスは、再度朗々たる声で告げた。数多の人々と、縛り上げられ膝をついた一人の女を前に、マリウスは儀式の文言を丁寧に並べていく。『魔女』は自らを裁こうという人間たちを前に、俯き肩を震わせていた。乱れた金髪が目元を隠していたが、唇は助けて、と繰り返しているように見えた。ありふれた町娘の衣服は背中が大きく裂け、覗く肌には禍々しい紋章が描かれている。遠目にも分かるように、くっきりと。
 見え透いた絡繰だ。けれど指摘する者はいない。膨れ上がった不満と不安だけは本物だから、それをぶつけられる的があるなら彼らはよく踊ることだろう。全ては教皇の手のひらの上だ。リューグも絡繰の一部に過ぎない。その現実に、吐き気がした。好きでここにいるわけではない。ここが自分の居場所であるはずがない――そう強く拳を握った瞬間、右手に熱が集まってくる気がした。この感覚には覚えがある。厄介な代物だが、今は好都合だ。
「いざ、神子の裁きを!」
 一際大きな歓声に、リューグは我に返った。マリウスと視線がかち合う。前へ出ろ、と言外に促される。『魔女』の前に進み出ると傍に控えていた兵士から一振りの剣が渡された。装飾性の強い細身の剣だ。実用性は高くないが、女一人の命を奪うには充分である。あとは火を焚くでも花をばら撒くでも、適当な演出をつければそれらしい印象を民に残せる。脚本通りだ。だが絡繰が思わぬ動きをすることとて、ある。
 リューグは大袈裟に剣を振りかぶり、そして処刑台の外に投げ捨てた。鉄の刃と石畳が打ち合って無機質な音を立て転がってく。割れるような声は消え失せ、代わりに困惑が細波のように広がっていく。マリウスの舌打ちが聞こえた気がした。流石にここまで来て反抗するのは想定外だっただろうか。リューグの力はマリウスやヨルクでも予想が難しい。リューグ自身でさえそうだ。しかし今なら出来ると、直感が告げていた。
「――裁きというなら、平気で嘘を吐く連中にこそ必要だ」
 右手を『魔女』に向かって突き出す。神子の紋章が熱を発していた。祈りの言葉も、大仰な仕草も必要ない。ただそうあれと念じるだけで、思い描いた現象が形作られていく。宙に現れたのは水球だった。朝露のような水滴が寄り集まって体積を増していき、『魔女』の頭上に揺蕩う。人ひとりは呑み込めるだろう大きさに達すると水球は突如形を崩し、『魔女』の全身に降り注いだ。ずぶ濡れになった女の服は更にはだけ、背中が剥き出しになっている。そこにあったはずの紋章は見る影もなく崩れ、全量が衣服を赤く染め上げていた。
「さぁ、魔女は消えたみたいだ。良かったな」
 警備にあたっていた兵士たちが隠すようにして女を取り囲む。何がどうなったのだと口々に叫ぶ群衆に背を向けると、憎々しげにこちらを睨むマリウスがいた。
「……神子様。後ほどゆっくりとお話すると致しましょう」
 すれ違いざまにそう呟くと、マリウスは混乱する民衆の鎮圧に取り掛かった。お得意の弁舌でなにやら語りかけているようだが、暫く時間は掛かるだろう。教会の思惑を破綻させたことに少しだけ胸のすく思いで、リューグは処刑場を後にした。

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