虚ろの神子 5

 目深に被った襤褸布と縺れた前髪の隙間から、俺は往来する人々の足元を観察していた。道端に座り込んでいると俺の目線では全身を見ることは出来ないが、足だけでも意外と人の身なりは分かるものだ。艶のある上等な革靴、ぴったりと丁寧に足を包むズボン。それに付き纏うように、踵の高い靴を履き、薄布を蹴飛ばして歩く白い足がある。ふと、風に乗って甘いような腐った肉のようなにおいがした。体臭と化粧と香水の入り混じった、色を売り買いする人間たちのにおいだ。街の中でもこの一角に限っては、どんなに裕福な者も馬車を使わず己の足で歩く。客引きする娼婦を品定めするためだ。だからこそ、ここではこんな『商売』も成立する。
「旦那さま。お恵みを」
 黒い杖と先の尖った靴が目の前に差し掛かった時、傍らの少女が声を上げた。足を止めた男は少女が掲げ持つ皿にいくらかの小銭を載せ、安っぽい祈りを口にして去っていった。日々、これを何度も繰り返す。貴族や裕福な商人にとって、貧民への施しは神に近付くための祈りの一環なのだという。要するに、善い行いをしたという陶酔感と、それによって救われるという安心感を得るための行為だ。そのために利用されてやるのが自分たちの商売なのだと、少女は言った。
「ねえ」
「黙ってなさいって言ったでしょ。私が良いっていうまで顔を上げないで」
 言葉を途中で遮られ、俺は渋々口を噤んだ。俯いて黙り込み、出来るだけ憐れっぽくしていろというのが彼女の指示だ。見る側の同情心を少しでも掻き立てるため、らしい。同じようなことを考える連中は他にも多くいる。少しでも金を得たければ、彼らとの競争に負けないための工夫が重要なのだ。そう語る少女は襤褸を被せるついでにと顔にも泥を擦り込んで、俺の出で立ちは立派な浮浪児となっていた。といっても、元から相違ない状態ではあるのだが。
 物乞いとして話しかけるのはもっぱら少女の役割だった。相手次第で設定を変えて、その時々で俺は彼女の弟だったり不治の病だったりする。少女はこの年頃の子供としては非常に弁が立ち、横で見ている俺が呆気にとられるくらい立ち止まった大人を言いくるめるのが上手かった。だが、決して実入りが良くはない。施しだ善行だとご高説を垂れていても、肥えた大人たちは俺たちが生きていけるだけの金を与えはしない。俺は少女の手の中にある硬貨を見つめ、堪えきれず声を上げた。
「……やっぱり今日はもう帰らない? もう無理だと思う」
 本音を言えば、俺はこの時点ですっかり疲れ切っていた。もう日も落ちる頃だが、朝から少しの水しか口にしていない。空腹のまま座り続けるというのも存外消耗するものだ。それは少女も同じことである。軽く睨まれはしたが、返ってきたのは溜息混じりの頷きだった。
「仕方ない。今日はこれくらいにしておく。一応収穫はあったし」
 確かに僅かながら収穫はあった。一銭も手に入らない時もあるのだから、それよりはましというものだろう。実のところ、彼女の呟きは俺の考える諦めと妥協とは些か異なるものだったのだが、この時の俺は気にも留めなかった。
 徐に立ち上がる少女に続いて腰を上げる。道すがら今日の『お恵み』でかびたパンを買い、二人で分け合って食べる。それで少しは落ち着いたかと思いきや、仮住まいとしている廃屋につく頃にはまた腹が鳴っていた。
「さっさと寝てしまいなさい。また明日働いてもらうんだから」
 腹の音を聞き咎めた少女は、入り口を潜るなり俺を寝床へと追い立てた。寝床といっても擦り切れた布を敷いてあるだけのものだが、これは気分の問題である。従順に俺が床に転がると、少女もその横に腰を落ち着けた。
「――は? まだ寝ないの?」
 途端に雑音が混じる。自分が発したはずの少女の名が聞き取れない。おかしい、と確かにそう思うのに、幼い俺は違和感などないかのようにごろりと少女がいる方に寝返りをうった。
「寝るわよ。あんたのお守りが終わったらね」
 言いながら少女は俺の頭を乱雑に撫ぜた。その感触に安堵して、俺は目を閉じる。
 少女は優しかった。俺が知るどんな人間よりも優しく賢い人だった。時に高圧的に振舞い、厳しい言葉を浴びせられることもあったが、彼女は成り行きで拾った少年の世話をよく焼いた。少女自身も家無しで、街の裏路地を点々としながら暮らしていたらしい。今の拠点は以前俺を助けてくれた時の廃屋だ。夜はここで眠り、日中は物乞いで日銭を稼ぐか、切羽詰まれば食べ物を盗む。大人を誤魔化す術も騙されないための知恵も、少女は根気強く俺に教え込んでいった。そのお陰で、俺は今も生きている。決して楽ではないし、危うい場面も何度かあったが、かつての檻の中よりずっと幸せに満ちていた。その象徴である少女を慕わしく思うのに、そう時間は掛からなかった。傍らにある温もりがに微睡み、徐々に深い眠りへと落ちていく。たとえ空腹でも、彼女がいればいくらでも耐えられる気がした。
 しかし翌日。俺の殊勝な思いは、あらぬ方向で裏切られることとなった。
「ほら、起きなさい――。起きないと表に放り出すわよ」
 少女の足先に背中を小突かれ、俺は目を覚ました。名前を呼ばれた気がするが分からない。またあの雑音だ。聞き返そうとする暇もなく、場面は進んでいく。
「起きるからやめろってば……あれ、もうこんな時間?」
 しつこく突いてくる足をどかして起き上がり、俺は屋内に差し込む光の強さに目を細めた。朝帰りの富豪たちを狙うにしては遅すぎる時間だ。寝過ごしたと慌てかけたが、そのわりに少女の期限は悪くない。そんな俺の疑問に先回りして、少女は答えた。
「今日は襤褸を被らなくていいわ。出来るだけ綺麗にして、市場に行くわよ」
「市場?」
 間の抜けた声で鸚鵡返しにすると、少女は小さな布袋を投げてよこした。金属が擦れる微かな音と受け止めた時の重みが、中身を明白に伝えてきた。金だ。それも当時の俺たちからすればかなりの大金。物乞いを一か月続けても手に入らないだろう金額だ。恐る恐る袋の口を開いて中を覗き見、そして少女に視線を戻す。
「これ、どうしたの」
「昨日、最後に立ち止まった爺さんがいたでしょ」
 情けなく声を震わせる俺から袋を取り上げると、少女は事もなげに話し始めた。
「持ってた杖に家の紋章が入ってた。ちょっと調べたらそこそこの額を教会に寄付してる貴族で、熱心な信者なんですって。それがあんな場所をうろついてるって知れたら変な噂が立つでしょう?」
 俺は昨日の記憶を手繰り寄せた。少女の言うように杖を持った男がいた気はするが、細かな装飾や紋章があったかは覚えていない。貴族だとして、どうしてその男の外聞がこの金に繋がるのだろうか。俺が首を傾げたままでいると、少女は更に続けた。
「だからね、教会をよく思わない商人ギルドに教えてあげたのよ。教会と関わってる貴族が敬虔な信者の振りをしながら街角で欲に溺れてるって、ちょっと大袈裟にね。それを聞いたあいつらがどうするのかは知らないけど……そこそこ役に立つ話だったんじゃない?」
 少女は再びしゃらりと袋を鳴らした。つまり男の情報を提供した報酬ということらしい。俺は素直に感嘆した。何気ないことでも、彼女の手にかかれば黄金となり得てしまうようだ。
「――はすごいなぁ」
「自力で生きていくつもりなら、あんたもこれくらい覚えなさい」
 感心しきりの俺の額を叩きながら少女は冷ややかに告げた。しかしその口元は、いつもより緩んでいたように思う。
「とにかくそういうことだから、今日はまともなものを食べられるわよ。ぐずぐずしてるなら置いていくから」
 言うなり、少女は戸口に向かって歩き出した、慌てて俺も立ち上がり、遅れるまいとよろめきながら後を追う。思っていたより少女の歩調は速く、外へ出てもなかなか追いつけない。本当に置き去りにするつもりだろうか。遠ざかる後ろ姿に不安が膨らみ、俺は叫びながら手を伸ばす。
「――待って!」
 そこでまた、場面は途切れた。

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