虚ろの神子 7

 知り得る限りの自分の一番古い記憶は、やはり教会の一室だった。重く、意のままにならない身体を台の上に横たえ、朧気な視界に必死で何かを見出そうとしていた。辺りには青臭いような、甘いような香りが立ち込めている。それを吸い込むと、ただでさえ曖昧な意識の輪郭が溶け出してしまうように思えた。あやふやな覚醒と暗鬱な眠りを幾度となく繰り返す。その間に幾人かの影がリューグの顔を覗き込み、何かを唱えながら額に触れていった。言葉の内容までは分からない。なにせその時のリューグはあまりに朦朧としていて、見えるものが夢か現実かも判別できなかった。ようやく明確に眠りにつき、正しく覚醒して世界を認識した時には、リューグは『神子』と呼ばれるようになっていた。
 混乱するリューグに教会が説明した内容はこうだ。救いの神子たるリューグはその特異さゆえに存在を秘匿され、教会の奥で密かに育てられてきた。しかし民衆にいざ存在を明かそうという日の直前、リューグは何者かによって襲われ生死の境を彷徨い、記憶を失ったのだ。目覚めたばかりのリューグは自分が何者かさえ分からず、与えられた情報にただ頷くしか出来なかった。神子の御披露目はリューグの療養と再教育のため延期となった、らしい。これも後から聞いた話だ。今になって考えてみれば、全ては虚偽で御披露目の式典などなかったのだろうと思う。
 それからは最上階に与えられた一室と、ヨルクや物々しい護衛――或いは監視に囲まれて歩く教会の一角だけが、リューグの世界だった。修行という名の〈聖呪〉の実験に明け暮れ、夜には薬湯を口に流し込まれ眠りにつく生活が続いた。食事ひとつにも検分が入り、一挙一動をつぶさに記録される。そこまでしてもリューグが〈聖呪〉を使いこなすには至らなかったが、神子という立場は変わらなかった。飢えも渇きもないが、窮屈で虚しいばかりの日々。何かがおかしいと思い始めたのがいつからだったのか、明確には覚えていない。ただ、違和感を覚えた理由だけは分かる。あの夢だ。目覚めればすぐに消え失せてしまうのに、猛烈な郷愁と憧憬を呼び起こす残像。あれは失くした記憶の欠片なのだと確信するのに、時間は掛からなかった。自分の居場所はここではなくて、いつかあるべき所へ帰るのだ。それだけを縁に、鬱屈とした日常を耐えてきた。そもそもそれを奪ったのが教会なのだと長く気付かずにいたとは、間抜けな話だ。
 荒げた呼吸に唾液が絡んで、リューグは勢いよく噎せ込んだ。よろめく身体を支えきれず近くの壁に手をつくと、冷たくざらりとした感触が掌を刺激した。不揃いな煉瓦で組まれた壁は至るところが欠けていて、こびりついた汚れが元の色を不明瞭にさせていた。地面には吐瀉物や残飯が散らかっており、そこに鼠や蝿がたかっていた。辺りの状況を認識すると、途端に腐った臭気が鼻をついた。生ぬるい風が余計に不快感を煽る。顔の下半分を手で覆いながら、リューグは改めて周囲を見回した。教会の廊下から、景気は一変している。さして広くもない路地にへし合うようにして住居が並ぶ。道にせり出した木の台は、昼間は何かの商いでもしているのか錆びたナイフや油で汚れた布が無造作に積まれていた。少し目線を上げると、高々と聳えるアゼリア教会の塔が見えた。距離からしてここはアンヘルの外れだろうが、道の様子だけで治安の悪さは窺い知れる。貧しい人々が僅かな糧を奪われまいと暮らしているのだろう。屋根や扉が崩れかかっている家もあった。
 随分な場所に放り出してくれたものだと、リューグは右手の甲を擦った。〈聖呪〉は確かにリューグの窮地を救ったと言えるだろう。だが、いかにも油断が出来ないこんな場所でどうしろというのか。そこまで考えて、いや、とリューグは思い直した。夜半でも人通りのあるような表通りよりはましかもしれない。昼間の儀式でリューグはアンヘルの民に顔を見られている。教会に通報でもされては目も当てられない。まずは身を隠すべき、とリューグは結論付けた。そのためには衣服をどうにかしなければならない。祭服は目立ちすぎる。金に換えられれば一番いいが、そこから足がつく可能性もある。切り刻んで元の形を崩せばなんとかなるだろうか。釦や房は取り外して――身に着けているものを眺めながらそんなことを思案していると、ふと人の声が聞こえた気がした。空耳かと疑ったが、違う。続いてわざとらしいほどの靴音が響く。合間に混じる微かな金属音。帯剣しているのだ。それも一人二人ではない。教皇の私兵だ、と直感する。こんな夜中に剣を持ち連れ立って街を歩き回る連中など限られている。騎士の見回りならもっと少人数のはずだ。咄嗟に傍にあった細道に飛び込み、息を潜めて様子を窺う。落ち着いたはずの心臓がまた早鐘を打ち始めた。姿はまだ見えない。足音を聞く限りまだこちらに気付いてはいないようだ。向こうがリューグの居場所に目星をつけているのかは不明だが、こんなにも早く教会の兵と出くわすのは運がない。なにせこちらは身ひとつで行くあてもない。〈聖呪〉を再び使うにも、上手くいくかどうか。王都はもはや教皇の支配下にある。教会から少し足を踏み出したところで、幼子が庭先に出てみた程度のことでしかなかったのだ。暫くして兵の数が増やされでもしたら太刀打ちのしようもない。
 ならば、また戻されるしかないのか。あの檻の中へ。
「お困りのようだね、神子様?」
 突如として静寂を裂いた他者の声に、リューグは反射的に数歩飛びのいた。振り向いた先にいたのは若い男だった。目深に頭巾をかぶり、丈の長い外套とありふれた下衣を身に着けている。体格はどちらかというと華奢に見え、声を聞かなければ性別は分からなかったかもしれない。教会の兵には見えないが、リューグを神子と呼ぶということは顔を知られている。悠長に会話をしていい相手ではない。しかし、逃げ切れるだろうか。先程の兵もいる。リューグ自身、さして身体能力が高い方でもない。博打を打つしかないか――腹を括り、機を窺おうと後ずさった時だった。
「そう警戒するなよ。俺に見覚えはないか? 助けてくれたじゃないか」
 言いながら男は頭巾を下ろし、隠れていた顔を露わにした。現れたのは耳の下で揃えられた麦穂色の神と、少し吊り上がった青い目。袖から覗いた手首には、縄のような鬱血痕があった。知るわけがない、と言い放とうとして、ふと既視感を覚えた。まるで様子が異なるが、垣間見た輪郭や髪の色が一致する。まさか、逃げ出したとは聞いたが。
「……捕らえられたのは、女だったはずだけど?」
 問い返すリューグに、魔女を演じていた男は不敵に口の端を吊り上げた。
「色々とわけありでな。なかなか様になってただろ……まぁ、詳しい話はまた後で、かな」
 男が肩を竦めると、気を見計らったかのように教会兵たちの声が響いた。先程より近い。いくつか耳が言葉を拾う中に、神子、と聞こえた気がした。やはりリューグを探していると見て間違いない。反射的に舌打ちすると、男が声を殺したまま笑った。
「そちらも訳ありらしいな。ついて来いよ。匿ってやれると思うから」
「お前を信用していい理由は?」
「特にないが、あいつらに見つかるのと二択だそ。どうする?」
 言葉を返しながら、男は軽い仕草で遠目に見える教会を指さした。諾々と男の言うことに従うのは抵抗がある。だが、互いに教会に反目しているという共通点があった。それに、リューグの記憶を平然と踏みにじった場所にはどうしても戻りたくない。
「案内してくれ」
「そうこなくちゃな」
 男は満足気に頷くと、小さく手で合図をして駆け出した。遅れるまいとリューグも続く。前を行く見知らぬ背中と、流れていく見慣れぬ街を視界に移しながら、リューグは無意識にいつかの景色と今を重ね合わせていた。逃げて、絶望して、助けられて、走る。
 ――ああ、これは、あの夢に似ている。
 どんな夢か正確に思い出せもしないのに、リューグは確かにそう感じた。

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